★20★ 酒と煙草と懺悔と。

 無言の朝食は一人でとるから耐えられるものであり、十年以上もの間それが日常だったとしても、二人で談笑しながらとるようになった一年と数ヵ月で耐えられなくなるのだと初めて知った。


 やはり前夜勝手に合鍵を使って暖炉に火を入れたことを怒っているようだったが、そうでもしなければ風邪をひいてしまう。彼女が風邪をひくことを黙認することだけは、どうしても出来なかったのだ。


 とはいえ常よりもかなり離れた場所で、おまけにテーブルを挟んでともなれば、気まずさは尋常なものではない。食事の途中でチラリとルネを盗み見るも、彼女と目が合うことは一度もなかった。


 出かける際に手持ちのトランクでも手頃な大きさのものを選び、調合した薬を入れて辻馬車を待つ間も、乗ってからも終始無言が貫かれ、常ならどちらかの横に陣取るトランクは二人の間に壁のごとく挟まれた。


 隣を見ても彼女はずっと窓の外を眺め、頑なにこちらを見ない。それが私が最近彼女に取っていた行動の模倣なのだと気付くのに、そう時間はかからなかった。ただそれでも薬指には銀月祭で贈った小さなボタンの指輪が光り、時折無意識に彼女が指輪を撫でることに安堵したりもして……。


 目的地の教会が見えた頃にはかなり精神的に疲れていた。これが最近私が彼女に強いていた苦痛かと思うと、さらに歩みは重くなる。ルネはいつものように私の隣を歩いてはくれず、後ろから無言でついてきてくれた。


「やあ、二人とも久し振りだね。新年が始まってからもうすぐ三ヶ月になるけれど、新年おめでとう。よく来てくれた、歓迎するよ」


 朝の勤めがすでに終わって昼に差しかかる時間だったこともあり、教会の隣にある孤児院を訪ねれば、彼は子供達に取り囲まれて現れるやそう言って穏やかに笑う。人懐っこそうな微笑みに背後から「こんにちは、しんぷさま」とルネが挨拶をする平坦な声が聞こえる。


 子供達は訪ねて来たのが私達だと分かると、すぐにクリストフ神父から離れて楽しげに騒ぎながらシスターを呼びに走り去ってしまった。子供のああいう反応は未だに掴めないが……気を取り直して挨拶のために神父に向き直る。


 しかし新年の挨拶には遅いというのと、処刑人の口から言祝ことほぎの言葉を紡ぐことは出来ないので、そこは軽く頷くだけに留めた。


「ああ、ご無沙汰していた。今日はこれを」


「おやおや……これは大量だね。君の薬は本当に良く効くから助かるけれど、何かまた心配事かい?」


「いや、別にそういうわけでは。前回の来訪から四ヶ月ほど経っている。入り用かと思って多めに持ってきただけだ」


 図星を指されて反射的にそう返すと、今度は「トリスのうそつき」と背後からグサリとやられた。内心ではとても動揺したものの、どうせこの顔には何の感情も浮かんでいないに違いない。


 振り返ってルネの表情を見るのが怖くて正面を向いたままの私に、何かを感じ取ったのか、クリストフ神父が苦笑を浮かべる。


「うーん……? まあ、そういうことにしておこうか。それよりも道中は寒かっただろう。早く中に入って。今頃子供たちがシスターに言って、温かいお茶の用意をしてもらっていると思うから」


 その言葉に私が頷く前にふと横を深い茶色の髪を靡かせてルネが通り抜け、一瞬だけこちらを振り返って「さきにシスターのところにいくわ」と言い残し、神父に軽く頭を下げて孤児院の中に消えた。


「喧嘩かい? 珍しいね」


「喧嘩というか……すれ違いというか……ただ、どちらにしても私が悪い」


「ハハハ、まあどちらでも構わないけれど、そろそろそういうのも悪くない。お互いにもっと相手を知りたいと思い始めたんだろう。良い兆候だよ」


「これが良い兆候なら、普通の家庭の良い兆候はもっと恐ろしそうだな……」


「おやおや、思ったよりも根が深そうだ。けれどそうか……そんなに夫婦仲が進展したのなら、今ここに訪ねて来たのはまさに神のお導きかもしれないね」


 おかしそうに目を眇める彼の言葉の意味が分からず首を傾げるが、ここで話すつもりがないらしいクリストフ神父に促され、訝かしみつつ孤児院の奥の広間へと通されたのだが――。


 そこで目にした光景に心臓が軋みを上げて目眩がした。ルネが腕の中に赤ん坊を抱え、扱いが分からずオロオロとしながらも、その口許にはほんのりと微笑みを浮かべている。


 ルネと夫婦であり続ければ、いつか見られる幸せな光景。

 ルネと夫婦であり続ければ、いつか必ず失う幸せな光景。


 子供達とシスター·マリオン達に抱き方を教わって赤ん坊を抱くルネの姿は、死神の伴侶とはほど遠い。


「あの子は銀月祭の夜に教会の前に置いて行かれたんだ。幸い発見が早かったのと、毛布で幾重にもくるまれていたから助かった。今ここにいる子供たちの中では一番年少さんだ」


 目の前の光景に私が凍りついていることに気付かず、クリストフ神父は穏やかな声でそう言う。しかしその時、それまで大人しく抱かれていた赤ん坊が急にむずかって泣き出した。周囲の子供達もシスターも……ルネも。慌てて赤ん坊をあやす。


 その弱々しい泣き声にジリジリと後退し始めたところで、ルネが視線を上げてこちらを向き、何故か驚いた表情になる。


 そこで初めて隣にいたクリストフ神父がこちらを向いて「酷い顔色だ。場所を変えよう」と肩を叩き、彼はシスター·マリオンに自室へお茶を持ってきてくれるよう言付けた。


 広間を出る前にルネの表情を窺うことが出来ず、私は逃げるようにクリストフ神父に促され、皆のいる広間から退散する。


 辺鄙な場所にある教会らしく、立派ではないがしっかりと清められた石の廊下をクリストフ神父の後ろについて歩き、あるドアの前で足を止めた彼に「狭くてすまないが」と招き入れられた。


 古びた来客用のソファーを勧められて腰を下ろすと、すぐに廊下からワゴンの音がして、ノックと共にシスター·マリオンが顔を覗かせる。視線があった彼女に軽く会釈されたのでこちらも無言で会釈を返せば、彼女はワゴンを押して部屋の中に入り、手早くお茶の用意をするとそのまま退室した。


 ワゴンの音と彼女の気配が遠退き、やがて聞こえなくなったところで「さて、今日はどういった不安の種を抱えてきたのかな?」と、クリストフ神父が笑う。


 その聖職者らしい胡散臭い微笑みに居心地の悪さを感じつつ、私はぽつぽつとここ最近ルネを顧みずに調薬に没頭する切欠となった、彼女の生家からの手紙の内容と義父について少しだけ語った。それでもさっきの光景を見た後では、何となく子供云々の部分はぼかしてしまう。


 ただそれでも神父は義父とルネの関係性から察したのか、紅茶を一口飲んで「成程ねえ」と薄い水色の目を細めた。そして次にソファーから立ち上がるとおもむろに本棚を漁り始め、奥から私にも見覚えのある瓶を一本取り出して、来客用のテーブルの上に置く。


 ――……どう見ても私が寝付けない夜に飲む銘柄と同じだ。


「確か貴男は聖職者だったと記憶しているのだが」


「勿論そうだとも。ただ少し普通の聖職者より不良なだけだ。神に祈っても届かない時があるとたまにね。一応煙草もあるが、君はお酒と煙草はやるかい?」


「……酒は毎晩嗜むが、煙草はたまに程度だ」


「そう。だったら今日は両方やれば良い。一緒に不良になろう」


「いや……良いのか? ここは教会の敷地内だろう」


「神は迷える子羊の味方だからね。多少はお目こぼしをして下さるさ。もしも途中で眠ってしまったら今日は泊まっていきなさい。明日が仕事でなければね」


 飄々とそう言う目の前の神父に対して困惑していると、彼は薄い水色の目を細めながら紅茶を飲みきり、早速ティーカップの中に琥珀色の酒を満たした。視線で同じことをするよう促され、まだ少し熱い紅茶を飲み干せば、すぐに空になったカップを琥珀色の酒で満たされる。


 クリストフ神父が「乾杯」と言ってカップを掲げるので、思わずこちらもカップを掲げれば、彼は聖職者らしく慈悲深い微笑みを浮かべた。

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