☆15☆ 彼女の一皿。

 雪の白さを窓の外に映す食堂は、その白さとは無縁の焦げ臭さに占拠されていた。その出所は食卓に並んだイカスミシチュー……ではなく、普通のシチューの成れの果てであった。


 このところ立て続けに入る仕事から疲れて帰ってくるトリスタンのために、ルネが朝からじっくりコトコト煮込みすぎた渾身の作品だ。当然味見も済ませてあるが、あれは元の味覚が正常であるからこそ意味がある行為なのであって、味覚が死んでいる人間がしたところで何の意味もないのである。


 一目見た感想としては見目は悲惨だが、数日前のグラタンにあったような謎の刺激臭はなかった。


 けれどそれを差し引いたところで、決して口にしていい理由が見当たらないのも事実だが……しかし、彼女の夫は強かった。


 というよりも、彼の方も彼女と同様に【普通】を知らない身であったので、期待に満ちた瞳で自身を見つめる妻のためにそのシチュー(?)を口にすることに、何の躊躇いもなかったし、常人よりもかなり毒物に対する耐性も高い。何よりも、彼は自己肯定能力を持たない妻を無自覚に甘やかすことに長けている。


 ――……つまり。


「トリス、どう? どう?」


「ああ、ちゃんと全部の食材に火が通っていて美味しい。外は寒かったから格別だ。ありがとうルネ」


「よかった。おかわり、いっぱいあるから、たくさんたべてね」


 ――……万事がすべてこういうことになるのである。


 幸いにもこの屋敷には招かれる客もいないので、この破滅的な料理がトリスタン以外の人間に提供されることはない。そもそも教会で教えてもらったはずの手順など、少し足りないルネに憶えきれるはずもなく、野菜の皮剥きくらいしか守れていないような有り様だ。


 けれどトリスタンとしては、ルネが指を切り飛ばしたり火傷を負わなければ大した問題ではない。むしろ毎日退屈な生活を強いられた妻に、屋敷での暇を潰す趣味が出来たことが喜ばしいくらいだ。


 一応朝食は二人で作ることになっているが、トリスタンも家事はあまり出来ないため、野菜の皮が綺麗に剥ける以外は料理の腕前に変化はない。敢えていうなら余計な手間をかけないことで、最悪の結果を招かないだけだ。


 目玉焼き、ベーコン、パン、ジャムとバター、まれに蒸かしたジャガイモやチーズがついて、そこに紅茶か珈琲が加わる。毎日毎朝このメニューだ。この家にある食事の楽しみ方は【二人で食べる】以外にない。


 あっさりと一杯目のシチューを平らげたトリスタンから皿を受け取ったルネは、いそいそとおかわりを注いで手渡し、自分も膝が触れるほど椅子を彼の方に近付けてシチューを頬張った。


 時々トリスタンが食事の際に飲んでいる赤い水をねだり、苦笑した彼が「少しだけだぞ」と言ってグラスを渡してくれるので、舐めるように口にする。特別この味が好きなわけではないものの、溜息をつくように静かに笑うトリスタンの吐息からするこの香りは好きなのだ。


「今日は食事を作ってくれる他には何をしていたんだ?」


「おにわでおさんぽ。それから、ほんをよんで、トリスのへやでおひるね。いつもとおんなじよ」


「そうか。ただもうこの季節の庭は寒い。風邪をひくからあまり長く外に出ないように。それと前々から不思議だったが、昼寝はどうして自分の部屋でしないんだ? ルネの部屋の方が日当たりが良いだろう。ベッドの寝心地が悪いのか?」


「だってあのベッドは、トリスのにおいがしないもの。おへやも、そうよ。あなたのにおいがないと、ねむれないわ」


 ポスッと肩口に額をグリグリと押しつけて、猫のように甘える。そんな妻から手にしていたグラスを遠ざけたトリスタンは、彼女からの発言と行動に僅かに頬を赤らめた。


 しかしそれも続く「あ、わすれていたわ。おとうさまから、またおてがみがきたのよ」というルネの言葉の前に掻き消える。告げた本人も表情を曇らせていることから、義父に関しての認識は一致しているようだと安堵した。


「それは……内容は読んでみたのか?」


「ううん。どうせわからないもの。あけないで、トリスのへやにおいてあるわ」


「それで良い。後で目を通しておくが、どうせいつもと同じ内容だ。ルネが心配することは何も起こらない」


 そう言う声音に隠ったトリスタンの苛立ちに気付いたのか、ルネが心配そうに見上げてくるのを目にした彼は、安心させるようにその形の良い額に口付けを落とす。それでもその深緑色の切れ長な瞳の奥には、言い様のない焦燥感が渦巻いているようだった。


 仄暗い埋み火がチラチラと燃えるような、いつしか大きな炎になってしまいそうな、そんなトリスタンの瞳にルネは魅入る。激しい怒りと冷静な怒り。その両方を内包した複雑な輝きは、ルネのまだ知らないトリスタンの色だ。


 いつかこの瞳が映す感情を全て見ることが出来たなら、ルネはいつ死んだって構わない気さえした。今がこんなに幸せなのに、この炎に焼かれて死ぬなら本望だという、不思議な気分だ。胸がドキドキする。


 ただ何を考えているのかは分からないが、せっかく二人での食事中に黙りこんでしまったのは頂けない。朝の僅かな時間と夜しか二人ではいられないのに、その貴重な時間を少しも無駄にはしたくなかった。


 そこでどうやって彼の気を引いて再び楽しい食卓に出来るかと思案し、ふと手許に視線を落として名案を思い付く。


「ねえ、トリス、トリス、」


「ん? どうし――、」


 ルネのはしゃいだ声で呼ばれてつい何の警戒もせずに口を開いたところへ、いきなりシチューの匙が突っ込まれ「おいしい?」と蕩ける微笑みを向けられる。実際はまだ少し熱かったシチューで口の中を火傷したが、彼は敢えてそれを言葉にするほど無粋でもない。


 ゆっくりと無言で頷いた夫に「よかった」と微笑み、ついでにグラスをその手から抜き取って赤い水を一口飲んだ。ふわふわする心地のままトリスタンの頬に唇を押しつけると彼は小さく呻いて。


 また柔らかな空気に包まれた二人きりの食堂で、暖炉にくべられた薪が炎に食まれてパチリと小さく音を立てた。

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