★9★ ブランデーと媚薬。
連日仕事の合間を縫って王都の外にある小さな教会を訪ね、シスターと神父に処刑人一族である自分に嫁がされた憐れな
最初は処刑人一族の身内を教会に入れるわけにはいかないと渋っていた彼等も、しつこく食い下がる私の話を聞くうちにルネの身の上に同情的になってくれ、ようやく今日……もうすでに昨日だが、一度会ってみたいと言ってくれた。
もとより公の場に姿を見せたことがない娘が消えたと騒いだところで、一枚噛んでいるであろう王家はともかく、他の貴族達に立証することは難しいだろう。
処刑人一族の歴史に穴を開けることになりかねない事態を、娘を差し出して回避しようとしたギレム家の存在を、王家は忠義者として記憶する。最初からそれがギレム伯爵の狙いだった。
しかし向こうの予想外だったことは、今も私が婚姻届を提出せずにルネを屋敷に匿って沈黙を貫いていることに違いない。ギレム家の抜け駆けを他の貴族家は知らないのだから、今回のことで王家がギレム家を重用し、他の貴族家を蔑ろにするのは裏切りにしか映らないことだろう。
それはギレム家も心得ている。だからこそ、未だに提出されることのない婚姻届に対して内心どれだけ焦れていようとも、何も言ってこないのだ。彼女にその気がなかろうが、彼女は父親の手駒になった。
これ以上ルネに触れてはならない。心も、身体も、何もかも綺麗なまま、人殺しに匿われたことが外部の人間にばれなければ、あの子はまだ充分に外の世界でやり直せる。
そこまで考えてから不意に身体に蓄積した疲れを自覚して、それを誤魔化すために手にしたグラスのブランデーを呷った。つんとしたアルコール特有の刺激と、熟成されたブランデーの香りが鼻を抜ける。
ブランデーはそのまま喉を滑り落ち、何も食べていない胃を痛めつけた。胃壁焼ける痛みに思わず唇に皮肉気な笑みが浮かぶ。
この自傷めいた行為は死んだ父もよくやっていた。だとしたらこれを日課にしていけば、私の命も早く尽きるということだろうか。疲れてまともな思考を止めたがる脳に、それは何だかとても良い案のように思えた。
時計は深夜の十二時を指している。ソファーに座ったまま脚を組み直し、そろそろ明日ルネに持たせる紹介状の確認をしようかと考えた時、部屋のドアノブが勝手に回った。ゆっくりと開かれたドアの隙間から顔を覗かせたルネは、私が起きている姿を認めると明らかにホッとした表情になる。
酒に逃げている姿を見られた気まずさに一瞬舌打ちをしかけたものの、同時にふと妙だなと思った。こんな時間に彼女が起きていることも、こちらの部屋にやってこようとすることに躊躇する姿も初めてのことだ。一人での散歩が不安で歩き回る時間が短いのだろうか?
もしもそうであるのなら確かに眠れないかもしれない。けれどなかなか入ってこようとしないことに疑問を感じて、グラスをナイトテーブルに置いてソファーから立ち上がる。
「どうしたルネ、眠れないのか?」
ドアにもたれかかるように立つ彼女にそう問いかけると小さく頷く。しかし今から散歩をするには時間が遅い。何とか眠らせないと、教会で説明を受ける間に眠くなってしまうだろう。
「またそんな薄着をして……もう夜は冷える時季なのだから、風邪をひくだろう」
「かぜをひいたら、どこにもいかないで、いっしょにいてくれる?」
下着姿で俯いたままそう言う彼女の肩は寒さのためか、それとも本人の言葉通り寂しさのためなのか、小刻みに震えていた。その様子にこのところ忙しさを理由にして、彼女と会話らしい会話をしていなかったことを思い出す。
いや、本当なら別に朝の僅かな時間であろうとも会話は出来た。そうしなかったのは偏に彼女の存在を必要としていないのだと自分に言い聞かせる為だった。
どうせ手離す温もりなら、あっという間に元の生活に戻れるような思い出せないほど微かなものが良い。そう思ってのことだったのだが、彼女は薄々何か勘づいているのかもしれない。
意外なことにこうした態度を取るルネが涙を見せたことは……前回仕事を見せた時ですらなかった。まるでそうした感情がこの華奢な身体のどこかで引っかかり、正常に機能することを拒んでいるかのようだ。
「ああ……すまない、少し仕事が忙しかった。埋め合わせになるかは分からないが、今日はルネと一緒に出かけようと思っていたところだ。辻馬車で王都の外へ出かけるつもりでいる」
出来るだけ穏やかに声をかけて、せめて視線を合わせようと姿勢を低くしたその時――ふわりと鼻先を掠めた甘ったるい香りにギクリとする。この香りを持つ薬が何なのか、本来なら彼女が知っているはずもない代物だ。
何故この最悪の手を考えていなかったのだと自分の無能さを呪うと同時に、こんな使われ方をする彼女の立場に怒りで目が眩んだ。
この先にある予感に距離を取ろうとしたけれど、それよりも早くこちらの意図に気付いたルネの方が少し動きが早かった。夜の世界しか知らない真っ白な身体で抱きついてくる彼女はどこまでも悲痛で憐れだ。
彼女は足りないが愚かではない。こちらが身を捩って抵抗して、解毒剤を処方すれば、きっとすぐに身体を離して自分の部屋に戻るだろう。
私の身体に毒は効かない。自ら調合したものであれば尚更だ。だとすれば、この身の内側から沸き上がる衝動は紛れもなく私の生み出した毒なのだろう。
――それを、分かっていながら。
「だいすきよ、トリス」
首に回される腕に振りほどけない言い訳を考えるよりも先に、眼前に晒されたその白い首筋に顔を埋めそうになる我が身の賤しさを恥じた。媚薬とは違う甘い香りが胸と腹の底を満たしていく。
――私は彼女の温かさにすがりたいだけの屑だ。
煌びやかなシャンデリアの灯りでも、命の根源である陽の光でも、赦しを与える月の光でもなく。ルネはゆらゆらと一本だけ頼りなく揺れる蝋燭の灯りで、私はその蝋燭の火に憧れて飛び込む蛾だ。
「ルネ、私は……君にそんな風に思ってもらえる男ではない……」
拒むべきだ、突き放すべきだ、頭では分かっている。ここで私が手酷く断れば、寄る辺をなくした彼女が何の憂いもなく教会に逃げ込めることも、受け入れられることも、救われることも。分かっている。分かっていて、なお……私はこの手を振りほどけない。
「どんなひとも、いらないわ。わたしがほしいのは、トリスだけよ」
すべてが白く無垢な彼女の中でひときわ赤い唇がそう動いて、私の唇にぶつかるように重ねられた。直後に感じる噎せるほどに感じる甘さと、爛れた熱が仄暗い喜びと共に血液を乗っ取って全身に巡る。
震えているルネの唇にブランデーの香りの口付けを返したあとはもう、どんな言葉も必要なかった。
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