第4話 死神様

 祈部六道の部屋は母屋ではなく、南側の離れの一室。隣は兄の四界の部屋だという。


「二番目の兄弟です」


 霜松市松は、四界の事をそう説明した。鍵蔵人はやや呆れたように片眉を上げる。


「どうでもいい事なのかも知れませんが、三男が六道で次男が四界っていうのは意味があるんですか」

「三男でも次男でもないからですよ」


 ハンドル型のノブをひねり、ドアを押し開けながら霜松市松は淡々と解説した。


「祈部の家は代々病弱な家系なのです。豊楽さんの子供も、長男と次男、五男、七男と八男が亡くなっています」

「そりゃまた、随分と子沢山っすね」


 笹桑は部屋の中をキョロキョロ見回している。霜松市松は無表情にうなずいた。


「母親は八人おりますがね」

「……はあ?」


 思わず間の抜けた声を上げた鍵に、霜松市松は言う。


「四界さんと六道さんが同じ母親から生まれていますが、他の兄弟はそれぞれ母親が別です」

「八回も結婚した、なんて事は」


「ありません。つまり、そういう事です」

「それはまた、何とも」


 要するに、あちこちの女に手を出して、生まれた子供を引き取った――と言えばまだ聞こえはいいが――のだろう。あんまり羨ましくない話だと鍵は思う。


 祈部六道の部屋は雑然としていた。ドアから入ってすぐ左にトイレ付きのユニットバスがあり、その向こう側にはキングサイズのベッド、そのベッドに音が向かうようにオーディオコンポが置かれ、右側の壁に設置されている棚にはアナログレコードが詰め込まれている。物の種類は少ないのに、どれもこれも整頓されている気配がない。特にレコードの棚は、いかにも「放り込んだ」感じで、愛好家やマニアの部屋には見えなかった。


「脅迫や恐喝の類いというのは」


 鍵は何枚かのレコードを手に取った。クラシックとジャズが多い。


「学校の同級生、近隣の住民、かつてのこの家の使用人、個人的につながりのある人間の秘密を知ると金をせびり倒し、訴訟沙汰になった事が過去三回あります。大事にならなかった件を含めれば数十に及ぶでしょう。病気のようなものでした」


 霜松市松の言葉に、笹桑が苦笑する。


「そりゃまた、随分と嫌な病気っすね」


 鍵はレコードを棚に戻すと、壁を指先で叩いた。軽い音。


「どうかしましたか」


 不審げな霜松市松の前を通り過ぎ、ドアの開いたままの入り口に立つ。そしてドアノブをつかみ、動かしてみる。


「六道さんは大音量でガンガン音楽を流してたんでしょうか」

「ときどきそういう事もありましたが」


「ときどきですか」

「それが何か」


「壁が分厚いコンクリート、その表面に吸音材を張り付けてある。ドアもこれ、防音扉ですよね。金のかかった防音室だ」

「音楽が趣味の資産家なら、そういう部屋を持っている人もいるでしょう」


 意味がわからないという顔の霜松市松に、鍵は言う。


「防音室というのは、いろんな悪さができる便利な部屋なんですよ。そのまま使ってもいいですが、音楽を大音量で流せばたいていの事は隠れてしまいます。それがときどきあったんですよね」


 霜松市松の顔は相変わらず無表情だったが、いささか青白く見えた。


「その推理は豊楽さんの依頼のためですか」

「もちろん」


 鍵は不意にしゃがみ込むと、絨毯の敷かれた床をじっと見つめた。


「こちらとしては、六道さんの行動は可能な範囲で理解しておきたいんです」

「というと?」


 霜松市松も、つられたように床を見つめる。


「六道さんは長髪でしたか」

「いえ、スポーツ刈りです」


 鍵が部屋の隅から拾い上げたのは、長い髪の毛。笹桑が顔を寄せてじっくり見つめる。


「細い毛っすね。女の人の髪っぽい」

「部屋は雑然としてますが、埃が積もっている様子はない。比較的最近掃除をして、その後に誰かを連れ込んだんでしょう」


 鍵は長い毛を放すと、さも酷く汚れたかのように手をはたいた。


「あなたは六道さんに自殺の可能性があると言いましたが、率直なところ、自殺より殺される可能性の方があるように思えます」

「……もう殺されていると言いたいのですか」


 にらみつけるような霜松市松に、鍵は平然とこう告げた。


「かも知れないし、違うかも知れない。それはこれから調べて行きます」


 そこに、開け放たれたドアの外から「六道か」と声が。鍵が部屋の外に顔を出せば、五十がらみの男が一人、逃げ腰で立っていた。霜松市松は無表情に鍵に紹介した。


「こちらが四界さんです」


 背は低い。頭はいまどき綺麗な七三だが、顔は四角くてやや大きめ、ワイシャツにスラックスにニットのベスト。漫画に出て来そうなお坊ちゃんが、そのまま歳を食った外見の四界は、霜松市松の顔を見て急に元気を取り戻した。


「な、何だ市松かよ。ああアレか。父さんの言ってた探偵ってのはコイツらか。まさか僕の部屋に勝手に入ったりしてないだろうな」


 やたらと見下したような視線で、鍵と笹桑をなめ回すように見つめる。


「こんな訳のわからん連中に金を使うなんて、父さんは何を考えているのやら。だいたい市松も市松だ。父さんに金を使わせるヒマがあるんなら、とっとと借金を返せよ、借金を」


 居丈高な物言いとニヤニヤした視線。しかし。


「四界さんですね、お会いできて光栄です」


 鍵は満面の笑顔で、強引に四界の右手を握った。もちろん相手は動揺する。


「な、何だ」

「あなたには是非お話をうかがいたいと考えていたところなんです、いやあちょうど良かった。早速なんですが、六道さんの行く場所に心当たりはありませんか」


「そ、そ、そんなの心当たりなんてある訳ないだろ! 放せ! 馴れ馴れしいんだよ! ぼ、僕は依頼主の息子だぞ、いわば客も同然だ、もっと丁重に扱え! 放せってば!」


 そう叫んで手を振りほどくと、奥にある自分の部屋のドアへと走った。


「忙しいからな! 忙しいんだからな! 声をかけて来るなよ、いいな!」


 そしてドアを閉じた途端、中から施錠する音。笹桑ゆかりが、ぷっと噴き出す。


「鍵さんって存外に腹黒いっすよね」

「ただの処世術ですよ」


 失敬なと言わんばかりの探偵は、霜松市松へと向き直った。


「借金があるんですか、彼に」

「死んだ父親が豊楽さんに金を借りたのです。まあそれも、ほぼ完済しているのですが」


「なるほど」

「どう思いますか」


 相変わらずの無表情ではあるが、どこか興味深げに霜松市松は問う。鍵は少し間を置いて小さな声で答えた。


「こう言っては何ですが、下手に出れば付け上がり、ちょっと強気に出れば尻尾を巻く。安全圏から人を叩くしか能のない典型的なクズですね。もしかして、六道さんも似たような感じですか」


「血は水よりも濃いですから」

「それは大変だ」


 馬鹿にするつもりなどない。心底からの同情だった。


「とりあえず、家の中を一通り案内してもらっていいですか」

「いいですとも」


 鍵蔵人にうなずくと、霜松市松は前に立って歩き出した。




 直径は十センチほどの白い毛玉。十瑠の眼にはそう見えている。足は見えないが、いつも天井の端から端へ走っている気がする。人間に近付く様子は見た事がない。けれど昔は着物の袖口から出入りさせ、思うままに操った者がいたそうだ。


 その異能は現世利益を導く。すなわち家の外から金を集め、または金にまつわる予言を行う。さらに飼い主の怒りを買った者は取り憑かれ、頭が狂って死に至るという。かつてこの毛玉はおそれられ敬われ、人々からこう呼ばれた。「死神様」と。




「探偵か。聞いてるよ」


 冷たい目だった。見下しているとも感じたものの、四界のそれとは毛色が違う。相応に場数を踏んでいるのだろう。歳は五十一、四界とは二つしか変わらないと霜松市松に聞いていたが、落ち着きは段違いと言えた。六道、四界の部屋とは別の北側の離れで、立派なPCデスクの前に座りながら、祈部の長兄にして三男、三太郎は鍵たちを迎えた。


 ただ机こそ立派だが、それ以外は何とも無機質。部屋の中に目立つ物と言えば、小さなキッチンがあるだけで、家具らしい家具は何もない。机の隣にはワゴンがあり、コーヒーメーカーとカップが一組乗っている。あとはシングルサイズのベッドだけ。


 クローゼットの扉が見えるから、その中にイロイロとあるのだろう事は推察できるものの、居住スペースは六道の部屋よりも狭く、良く言えば整然とした、悪く言えば神経症的な印象を受ける。ピカピカに磨かれたキッチンの蛇口の角度は、間違いなく直角だろう。


「六道を探すのなら、こんな部屋で油を売っている場合じゃない。あいつが殺されないうちに、さっさと仕事をした方がいい」

「殺されると思うのですか」


 少々わざとらしいかと自分でも思う鍵の質問に、三太郎の表情は変わらなかった。無表情っぷりでは霜松市松と大差ない。


「知っているのだろう。あれは人に恨まれるヤツだ。それが急にいなくなったのなら、誰だってそう考える」


 誰だっては考えないかも知れないなと思いながら、探偵はこうたずねた。


「一応お聞きしますが、六道さんの行きそうな場所に心当たりはありますか」

「それを調べるのは君の仕事のはずだ」


 と、つれない返事。まあ確かに。鍵は苦笑した。




◇ ◇ ◇




 来年十八歳になったら免許を取ろう、と僕は常々思っている。でなければ千香が死んでしまうかも知れない。いや、助手席の方が死亡率は高いとも言われている。ならば僕が死ぬ可能性もなくはない。さすがにそれは困るのだ。


 一週間の予定で借りたレンタカーは、外国車の高級SUV。性能は凄いらしいが、運転が雑では意味がない。維持費を考えればレンタカーの方が安くつくと千香は言うものの、年間で合計二週間ほどしか運転しないのは、自分で車を所有していないからだろう。だから当然、運転も上手くならない。いつまでたってもペーパードライバーレベル。なのに何故か本人は自信満々だ。


「ねえ、この先に道の駅があるって。何か食べてく?」


 備え付けのカーナビの情報をいちいち嬉しそうに話す。それよりもちゃんと前を見て運転してもらいたい。遠くの山に日が沈んで行く。この車、ライトは自動で点灯するのだろうか。何とか今夜泊まる旅館まで、無事に到着できるといいのだけれど。




◇ ◇ ◇




「探偵さんは、ご夕食どうされます?」


 女中のななみにたずねられて、鍵は食事をうっかり失念していた事に気付いた。


「あっ……この辺にコンビニありますかね」

「街まで下りればありますけど。あれ、霜松先生と一緒に召し上がるんじゃないんですか。そのつもりで用意してたのに」


 霜松市松もうなずく。


「私もそのつもりだったのですが。何か問題でも」

「あ、私もそのつもりだったっすけど、何か問題でも」


 楽しげな笹桑をジロリと横目でにらむと、鍵は一つため息をついた。


「私はカップ麺で十分なので」

「まーたカップ麺っすか。マジ死ぬっすよ」


 呆れ返る笹桑に、鍵はムッとした顔を返す。


「心配してもらわなくても結構です」

「素直じゃないっすねえ」


 ななみはそれを見て笑いながら「でも、ここのご飯は美味しいですよ」と言った。


「しかしご迷惑では」


 まだ遠慮しようとする鍵に、ななみは首を振る。


「いえいえ、作る手間はたいして変わりませんし」


 ここまで言われてしまってはやむを得ない、根負けしたように鍵も微笑んだ。


「それじゃ、申し訳ないのですが、お言葉に甘えます」

「申し訳なくないですって。慣れてますので」


「なお」


 鍵は内ポケットから小瓶を取り出した。


「コショウは自分のがありますので、お気遣いなく」

「はあ」


 この後、煮魚にまでコショウをかける鍵に一同は絶句するのだが、それはまた別の話。




 かい症は脳の障害であるが、現代においてはそれほど珍しいものではない。心的外傷や虐待などによって発生し、一説には人口の一割程度の患者数はいるのではないかとも言われている。解離の状態は人により様々で、漠然とした曖昧模糊な記憶障害もあれば、明確に別人格が一つの脳に共存している場合もあり、後者を指して解離性同一性障害、俗に多重人格などとも呼ばれる。


 鍵蔵人に解離障害の症状が現れ始めたのは、妻の死体を見つけてから。時折記憶を失うようになったために幾つかの病院で診察を受け、最終的に行き着いた言葉がこれだった。しかしこのとき、鍵は疑惑を覚えた。確かに症状を自覚したのは妻の死後だ。だが自分でも気付かぬうちに、妻の生前からこの障害が存在していた可能性はないだろうかと。


 もしかしたら、自分は知っているのではないか。妻の死の本当の意味を。


 担当医師には否定されたが、鍵にはどうにも納得できなかった。もし自分が知っているのなら。自分のもう一つの人格がすべてを知っているのなら。その思いが鍵を駆り立てた。いや、いまも駆り立てているのだ。




 夕食が終わった後の時間帯、霜松市松は祈部の末弟――つまり四人目の息子――九南の部屋に、鍵と笹桑を案内した。


「六道兄さんの行きそうな場所ですか」


 会社から帰宅したばかりの大柄な九南は、ネクタイも取らずに考え込む。九男だから九南。さすがにここまで来ると、名前もネタ切れになったのかも知れない。


 祈部家が保有する会社を一つ任されている九南は、三太郎とは十歳違いの四十一歳だが、マトモな社会人なようで腰が低く、それでいて押し出しも悪くない。自分が親なら間違いなくこちらを跡継ぎにするだろう、と赤の他人の鍵でさえ思える好人物だった。


 いや、実際のところ祈部豊楽もそう考えているのではないか。何故なら九南の部屋はさほど広くはなかったが、離れではなく母屋にあったからだ。部屋と言うか、書斎という言葉がピッタリ来る。壁の二面を埋める本棚には文庫に新書、ハードカバー。小説からビジネス書、古典文学からスポーツ医学に至るまで幅広いジャンルの本が並んでいた。


「実を言いますと、私は上の兄たちとあまり付き合いがないんですよ。同じ家にいて変だと思われるかも知れませんが」


 まさか「あの兄貴たちじゃ、付き合いたくないのはわかる」などとは言えない。ああそうなんですね、と鍵が適当に相槌を打っていたところ、「ただ」と九南が言い出した。


「いなくなる直前、六道兄さんは散髪をしてたんです」

「はあ、散髪を」


 自分はいま間抜けな顔をしているのだろうな、と鍵は思う。霜松市松によれば六道はスポーツ刈りだったらしいが、散髪が何だと言うのか。九南は困ったような顔で、一所懸命いろんな事を思い出しているらしかった。


「六道兄さんはイロイロと問題のある人でしたけど、あれでげんを担ぐ一面もあったんです。一勝負打とうとするときは、必ず街まで出かけて散髪をしていました。だから今回もまた何かしでかすんじゃないかと気になってたんですが」


「その直後に、いなくなったと」

「ええ」


 何かをしでかそうとした。もしくは、しでかした。そして行方不明。何だ。何をしようとした。脅迫、恐喝の類い。誰かを脅そうとして逆に捕まった。もしくは。


 情報を集めれば集めるほど、自殺の線は遠くなる。それどころか祈部六道は殺されたのではないかと思えてならない。これはちょっと厄介な事に首を突っ込んでしまったか。殺人などに興味はないのに。とは言え、生活するのに金は必要だ。いまさら仕事を投げ出す訳にも行かない。さて困った。鍵は暗澹たる気分になっていた。


「ありがとうございます。参考になりました。また何かありましたらお願いします」


 軽く頭を下げて書斎を後にしようとする探偵を、九南が呼び止める。


「そうだ、娘には会いましたか」

「娘さん?」


 ああそう言えば、祈部豊楽には孫娘がいると霜松市松から聞いていた。十七歳、面倒臭い年頃と言える。果たして六道とマトモな付き合いがあったのだろうか。鍵がしばし躊躇していると、横から口を出したのは笹桑ゆかり。


「お嬢さん、可愛いすか」

「は? ええ、まあ親の欲目かも知れませんが、可愛いのではないかと」


 九南は困惑しながらも、親馬鹿っぷりを発揮している。笹桑は鍵の腕を引っ張った。


「鍵さん行きましょうよ、可愛い未成年の女の子と親公認でお話しできるなんて、そう滅多にないチャンスっすよ」

「何のチャンスですか、何の」


「見たーい、私、娘さん見たーい」

「何故ここで駄々をこねる」


 すると、おそらくは親切心からだろう、九南はこう言った。


「娘は体が弱くてずっと家におりますのでね、もしかしたら何か知っているかも知れません。お会いになりますか」


 もう少し遅い時間なら「また明日にでも」と断るところだが、この時間帯ではちょっと無理がある。


「ご迷惑でなければ」


 鍵はそう言って作り笑顔を見せるしかなかった。




「ご迷惑でしょう」


 京川戸女は顔をしかめた。どうもこの人は最初からこちらが気に入らないらしい。鍵はそう思ったものの、それを顔に出すほど幼くもない。平静を装っていると。


「でもね、戸女さん。六道兄さんを放っておく訳にも行かないじゃないか。十瑠だってこの家の人間なんだし、何か気付いた事があるかも知れない。話くらいはさせてやってほしいんだ」


 この話し方に九南の人柄が出ている。戸女も九南を信頼しているのだろう、そう無下にはできないようだ。やがて鍵をキッとにらむとこう言った。


「間違っても、失礼な質問などされませんよう」


 そして自ら先導して、豊楽の孫娘、十瑠の部屋へと向かった。

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