朱莉 The アンダーテイカー

相楽山椒

周防朱莉

 周防朱莉


「告知事項あり、ええと……心理的……」

 彼女はその後に続く見慣れない単語が読めなかった。

 接客テーブルの対面に座していた営業の山岸は、彼女の身なりを視界に入れながら、仕方ないだろうとややはにかみ、両手を組み合わせる。自分も二年前にこの業界に入って初めて見た漢字だ、普通の人は読めないだろう。

「かし、ですね。一般に言う瑕疵担保責任かしたんぽせきにんといいますのは、家主の管理する物件に重大な欠陥が見つかった場合の責任の所在を明確にするための条項です。この瑕疵に心理的がくっつくとつまり――」

「しんりてき、かしですか?」彼女は机上の物件情報欄を覗きこむように言った。

「ええ、心理的瑕疵。つまりええと、事故物件ってやつですね」

「事故物件?」

 一寸間をおいて山岸は視線を左右に巡らせると、声を落としてこう告げる。

「殺人事件や自殺や孤独死でしばらく発見されなかったケースなど、敷地内で人死にが絡んだ物件のことを指すんです――もちろん大抵は完全清掃されてますし、必要ならばリフォームもされて事件や事故の痕跡を残すことはありませんけどね」


 学生だろうか、自分と同じくらいの年齢にも見えるが、金髪にも近いロングの髪に両耳の大量のピアス、黒々と描きこまれたアイライン、まつ毛はバチバチで、リフォーム前の素顔が想像できない目の前の女性に対し、山岸はおどけるように両手の指先を下にした甲を向けて、そっと引き上げた。

「――気にされます? これ」

 彼女はちらりと山岸を一瞥すると、いささか呆れたように「ああ、アレですか?」と間取りの平面図に視線を落とす。

 さすがに砕けすぎたか、と山岸は彼女の反応に困り肩をすくめると、もう一度確認の意味を込めて続ける。

「もともとこの物件はうちが買い受けたものなんですけど、不動産売買において事故物件の場合、告知する義務がありましてね。相場よりもずいぶん安いのはそういうことです」


「ふうん……つまり住宅自体に欠陥はないけど、出るかもしれない、と?」

「いや、事故物件だからといって必ず出るという訳ではないんですけどね。住宅を購入するなり借りるなりって、ちょっとした人生のイベントじゃないですか。長くそこで暮らすかもしれない住処ですから運勢とか、方位とか験かつぎとか、土地柄とか呪いだとか、家相だとか、そういう類を気にする人は気にしますから、それでこういう告知義務があるんです」

「へえ、そうなんですか」

「そうなんです。ですから即決はなさらず、よくお考えになった方が良いかと……」

「今は中は見られないんですか?」

「あ、いえ? そういうわけではございませんが……」

 これだけの話をしてもなお、狼狽えることもせず妙に落ち着いている彼女を見るにつれ、人の話をちゃんと聞いているのかと山岸は疑う。

「ぜひ実物の部屋を見てみたいのですが、可能ですか?」

 外見に相応しくないといっては偏見以外の何物でもないが、見た目の年齢よりもずいぶんとしっかりした口調に窘められているような気分を覚え、山岸は背筋を伸ばす。

「ええ――まあ、気になさらない方ならば、お得物件には間違いありません。もちろんご覧になっていただけますよ」と、確認するような上目遣いで両眉を引き上げた。


 ずいぶんと入居先の決定を急いでいるようではあったので訊いてみたところ、彼女は来月からの就職のためにこの街に越してくるという。それでこの超格安物件をネット検索で見つけ来店したのだという。

 築三年、地上十八階の最上階、八十平米3LDK南西向きの角部屋、掃き出し口から最上階の住人だけに解放される広々としたテラスでは、近隣に気兼ねすることなくペットを飼うことも、本格的な家庭菜園も、友人らを招いてのバーベキューも自由にできる。こんな好条件なのに六畳一間とままごとのようなキッチンのついたワンルームマンション並みの家賃とくれば飛びつかないほうがどうかしているし、こんな家賃で貸し出す不動産屋もどうかしていると思われるだろう。

 告知事項あり、の一文さえなければ。

 心理的瑕疵物件は特に女性が嫌う傾向にある。もともと迷信や占いやジンクスなどと親和性が高いのも女性という生き物の特徴だ。山岸は今までも、時間を取り散々物件案内をしたにもかかわらず、最終的に妻や同居の女性側の、「なんとなく雰囲気が嫌」という一言で破談になることを嫌い、事故物件はなるべく内覧させるまでの間に、あらかじめ心理的瑕疵についてやや誇張を含めたとしても直接的な説明をし、確約がとれる顧客のみに案内するように心がけていた。

 彼女の髪色とは裏腹に、今回のようにここまで真っ黒な事故物件なら、告知事項を述べれば相手から断ってくるか、本人がよくてもこの若さなら親御さんからの断りが入るかのどちらかで、今回も脈は薄いと踏んでより大袈裟に伝えたつもりだった。

 キャバクラにでも就職を決めたのだろうかと思うような外見であっても、彼女は若い女の子である。明らかに家賃につられてきたことは勘案できるだけに、一人の男として山岸はあまり乗り気ではなかった。

だが彼女はとにかく物件を案内してくれという。

一家惨殺事件のあった物件などと聞けば断ると思っていたので肩透かしを食らった。

稀にいることはいる。そういう事を全く気にしないという人間が。ならば仕方があるまいと山岸は会社方針に従って頭を切り替え、営業車のハンドルを握り締めた。


 面接のときに「君は霊が見えるか?」と最重要項目のように社長から訊かれた意味は就職してからすぐにわかった。山岸の勤める植丸不動産は地元では有名な『事故物件専門の不動産屋』として名を馳せていたのだ。

 どこの不動産屋も扱いたがらないややこしい物件ばかりを意気揚々と格安で買っては、売れや貸せやと、この植丸不動産唯一の社員で営業マンの山岸に押し付けてくる。他の従業員は事務パートの女性が一人いるだけで、先輩社員は山岸が入社した途端、逃げるように会社を去った。

 資産は潤沢にあれど人望のない植丸社長の口癖は「見えないものはないのと同じ」で、入居者が幽霊を見ようが怪奇現象に出くわそうが知ったことではないというスタンスだ。

 会社としては長く居座られるより、さっさと入って出てを繰り返してもらい、保証金やもろもろの諸費用が一か月やそこらで丸儲けできるほうが割がいい。舌先三寸で上手く契約させることができれば上等なのだという。

 実際、植丸不動産の扱う事故物件の七割は、深刻な怪奇現象付きのいわく付き物件であり、入居者の多くは年単位で留まることがない。

 これから案内する物件とて、仮に契約締結までこぎつけたとしたとしても、一か月もしないうちにことごとく入居者が音を上げてきた。

 つまりどうやら出る・・らしいのだが、あいにく山岸にはそういった霊感能力というものがまるでなく、見たこともなければ霊障にあったことすらないので、はっきりと“出る”とは言いにくい。

 商売である限り入居を勧め、賃貸契約を結ばせることが山岸の仕事だ。しかし青い顔をして契約解除を申し出る、かつて希望にあふれていた入居者を見るのは多少なり良心の呵責を感じてきた。


 マンションの管理事務所に詰めている初老の男は、読んでいたミステリー小説から目を離し山岸の顔を見るなり、またかい? という表情をして、差し入れの缶ビールを受け取りはにかむ。

 事件直後に駆け付けたのはこの管理人の男で、植丸不動産が物件を買い取ったことで彼と顔馴染になって、ずいぶんと事件のことを聴かされた。事件後、殺人トリックを悠々と弄する名探偵のように、よくもまあそこまで想像力が膨らむものだと、マスコミが相手にしなかった彼独自の推理を山岸は聞かされている。

 この男からすれば管理するのは建物であってそこに住まう住人ではないし、まして自分がオーナーでもない。管理施設内で事が起これば、それはちょっとした暇つぶしのネタになるだけなのだ。

 山岸は男を見習い、良心を閉ざして挑むと心に決め、社長の言葉を自分に言い聞かせながら、ルームキーを差し込んだ。



 山岸がこの八十平米の暗黒物件に足を踏み入れるのは三十回では済まない。もう各部の説明だって自分の家のように慣れたものだ。ともすればどこでどうやって加害者が被害者を追い回し惨殺したのかという動線すら説明できる。管理室にいる名探偵のおかげで。

 彼女は部屋に入るなりリビングの壁を軽く叩きながら一巡りすると、キッチンやバス、トイレなどの水回りを丹念に見て回る。女性なら気になるところだろうが、事故後にすべて入れ替えたため、どの設備も最新式と遜色がないほどの機能を備えたものばかりで、使用頻度も少ない。

 問題はないはずだ。クローゼットの中を一通り覗くと、次は睨みつけるように天井の隅、這いつくばって床の隅、何もない空間をじっと見つめたかと思うと、ぱっと手を伸ばして空を掴む。掃除は行き届いているはずだが埃でも飛んでいたのだろうか、容姿に似合わずよほど神経質なのか。


「決めます」部屋中をくまなく探索し終えた彼女は言う。

「へっ?」

 彼女が立っている場所、元遺体があった場所に視線を奪われていたせいで、山岸は間抜けな声を出してしまっていた。

「即日入居できるんですよね?」

「え、ええ。まあ……」戸惑いながらも山岸の口角は知らず上がってしまう。

 怪奇現象百パーセント担保の不良物件を、この無邪気でアホそうなかわいらしい女の子に引き渡すことに良心の呵責は少なからずあるが、それよりこの五月の営業成績が満たされる安堵感のバンジージャンプに身を投じることを決意する。

「ありがとうございます、ではすおう・・・さん、早速ですがこちらにサインをいただけますか?」

「これで契約になるんですか?」

「いえ、これはわが社の独自の同意確認書でして。内覧していただいた現状をご承知の上だと後々のトラブルも避けられる訳でして、つまり、その、そういった方針を取らせていただいています」

 彼女はそのA4の用紙に書かれた同意確認事項を読み、すらすらとサインを済ませた。

「ええと、すおう……ええと、すみません――」

「朱莉です」

「失礼しました。すおうあかりさん?」

「はい、周防朱莉すおうあかりと読みます」

 そう言って彼女は、よく日が当たる解放されたテラスに歩み寄りながら、「よくシュリとか読まれるんですよねぇ」と、山岸のことを振り返り、その名のごとく明るい未来を照らすような笑顔で言った。

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