第12話 今さら何を言っている
それから先輩はたまに家に来るようになって、僕は登山やキャンプにあまり行かなくなった。定期的にアウトドアをしないと落ち着かないなんて言っていた気がするがあれはウソだ。定期的にセックスをしたほうが落ち着くに決まっている。
先輩が結局彼氏とどうなっているのかは知らない。二又をかけられているのかも知れない。それならそれで僕は別に構わない。先輩がいつどこで何をしていようと、僕といる時は僕だけを見てくれる。
その日はとんでもなく天気が良く、先輩は何やら忙しそうだったので、何週間かぶりに山に出かけた。それも日帰りではなく、山小屋に泊まる一泊二日。また当分行くことはないだろうから満喫しようと考えた。
大量の落ち葉を踏みながら山道を登っていく。たまに落ち葉の下に木の根や石があるから注意しないと危ない。でも、この季節は靴が汚れなくていい。
もうじき冬だ。この趣味のおかげで防寒具を色々持っているから、冬の監視員の仕事も耐えられるだろうと思っていたけれど、屋内の撃ち方に異動して結局助かった。吹きさらしの高所で立ち止まっていたら、いくら装備で身を固めていても絶対に寒い。
道中、特に何のアクシデントもなく、14時半に登頂。「こんにちは」と挨拶しながら小屋の戸を開けると、顔馴染みの初老の管理人さんが出迎えてくれた。
「いらっしゃい。お疲れ様でした」
「どうも」
「お久し振りですね。最近はどのあたりへ行ってらしたんですか」
「いやぁ、それが、仕事が忙しくて。山自体久々です」
「そうですか。忙しいのはいいことです。こんなご時世ですからね……」
今日は5人の予約があるという。僕が一番乗りだった。
宿泊料と夕飯代、計11000円を支払い、寝室に荷物を置く。外に出て、あたりの山々を見渡しながら、湯を沸かす。静かな山頂にガスバーナーの音が響く。クッカーの中で水泡が生じるのを眺めながら、
(僕の人生は、こんなもんだろう)
と思った。
悪くない。今のところ。
かつて役者を引退した時、SNSで「労って」くれた人たちは、きっと僕に現実世界で苦労してほしかったのだろう。夢なんか追って貴重な時間を浪費したせいで落ちぶれてほしかったのだろう。
申し訳ないが案外のびのびと生きている。
一人暮らし開始時に物価の高さを思い知って少々慌てたけれど、時給を上げて解決した。その仕事も何ら難しくない。作り話ではよく、人を殺すとだんだん狂ったり荒んだりするのが当たり前みたいにされているけれど、実際は――少なくとも僕はそうでもない。
一時期70万を割った残高は次の給料日に90万にまで回復する。年内に100万まで戻るはず。
仕事は簡単で、金はあり、寝る相手もいる。
(これが順調でなくて何だろう)
シエラカップにインスタントコーヒーの粉を入れ、湯を注ぐ。インスタントでも山で飲むコーヒーは旨い。
先輩を山に誘ったら来るだろうか。面倒臭がられる線が強いが、興味を示してくれないとも限らない。今度、聞くだけ聞いてみよう。
◆ ◆ ◆
トラブルは夕飯時に起きた。
17時、山盛りのカレーを食べながら、宿泊者5人で雑談をしていた。全員単独行で、初顔合わせ。お互いの登山暦を話している間は和やかだった。
話題がお互いの仕事から最近の社会情勢に移った時、おそらく5人の中で最年少の眼鏡の青年が、ポケットから紙切れを取り出した。
「皆さん、これに署名していただけませんか」
それは、来年の米豪韓合同軍事演習への自衛隊派遣に反対する署名だった。
場の空気が凍った。
「ご協力いただけますよね?」
青年はさも当然という風に言った。
(いや、何を今さら)
と、僕は思っていた。以前から。
連日のニュースでは、自衛隊派遣は▪️▪️▪️の反発を招き、戦争への道を歩み出すことになると報じられていた。
それはそうなのだろうけれど……いや、何と言うか、戦闘はすでに始まっている。僕が撃っている。
もちろん戦争には反対だ。戦争がいかに悲惨なものか知らないわけじゃない。祖父母が戦後生まれだから直接聞いてはいないけれど、歴史の授業や毎年夏の特集、映画を通じて、戦争はやるべきではないとハッキリ思っている。
ただ、現実として、とっくに領海侵犯を受けており、僕が貧困を免れるには撃つしかない。
「いやぁ、今そういうのは、無しにしましょうよ」
年かさの登山者が穏やかに言って、場にはホッとした空気が流れた。
しかし若者は引き下がらなかった。
「そういうの、って何ですか。じゃあ皆さんは戦争に賛成なんですか」
賛成も何も、もう何隻も沈めています――と言ったら、彼はどうなってしまうだろうか。仕事の話題になった時、僕は本当のことを言っていない。スーパーのレジ打ちということにしていた。
「戦争に賛成でないのなら署名できるはずよね?」
別にまぁ、署名はしてもいい。
確かに戦争には反対なのだ。
しかし他の人たちが沈黙しているのはどういうわけなのだろう。
自衛隊派遣には賛成なのだろうか。そういう意見があってもおかしくない。
僕の「何を今さら」という感情は、「賛成」でも「反対」でもない。ただの感想だ。派遣が適正かどうか評価できるほど情勢に詳しくない――というのは、大多数の一般市民も同じだと思うが。
「え、皆さん、どういうおつもりなんですか?」
若者が刺々しい口調で煽る。論戦も辞さない気配、というか、論戦をしたがっているようにも見える。戦争を支持する人間を炙り出して説き伏せたいのだろう、おそらく。
「橋野さん」
洗い物をしていた小屋主さんが戻ってきて、青年に呼びかけた。
「やめといてください」
「は? どうしてですか」
「うちは、そういうの無しです」
「だから“そういうの”って何ですか」
「皆さんせっかく気晴らしに来てるんですから、ケンカはやめにしましょう」
「ケンカなんかしてないですよ。僕はただお願いしてるだけです。当たり前のことを」
「とにかく、この話はこれで終わりです。一応、宿泊規約にも書いてあるんですよ、演説や勧誘はお断りしますって」
「は? 僕がいつ演説や勧誘をしたんですか。ちょっと意味がわかりません。この山小屋は戦争に賛成なんですか? 僕を妨害するならここは戦争支持者の集まりだとネットに書きますけどいいんですか?」
「どうぞご勝手に」
僕は小屋主さんを応援したくなった。
出ていけ、と言えないのだ。普通の宿泊施設なら迷惑な客は追い出すだけだが、山小屋には登山者の命を守る責務がある。すでに日が暮れている山中に放り出すわけにはいかない。
いい加減にしろ殺すぞ、と言おうとした瞬間、
「わかりました。私が署名します」
と、最初に諌めた年かさの登山者がペンを取った。
「戦争には反対ですからね。署名します。でも、山ではやめときましょうよ」
「もうそんなこと言っていられる状況じゃないと思いますが」
登山者は紙を青年に返して、「星でも見に出ませんか」と周囲に誘った。
「いいですね」
「そうしましょう」
皆、口々に応じて、逃げるように席を立つ。
僕も一瞬遅れて立ち上がる。
青年は着席したまま、聞こえよがしのため息をつく。
夜空はとんでもなく綺麗だった。
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