第6話 辞めるべきかどうするか
バイトが休みの日は山に登ったりキャンプをやったりする。
この手の遊びは道具を揃えるのに初期投資がかかるものだけれど、僕の場合はほとんど父親のおさがりだ。中学まではよく父親が山やキャンプ場に連れていってくれた。役者をやっていた頃は芝居仲間と一緒に行くこともあった。今は専ら一人だ。
「よく飽きないね」
と、鬼嶋先輩に言われたことがあるけれど、自分でもそう思う。
一番楽しかったのは父親の手を離れて一人でやり始めた頃だった。技術を一通り身につけてしまうと、ちょっと落ち着く。景色がきれいだとか空気がうまいというのはあるけれど、ハチャメチャに楽しいわけではない。
どうやら呼吸の一部になっているらしい。休日、自然の中へ行かないとどうも落ち着かない。家にいることに違和感がある。土や草の匂いをかぐと「帰ってきた」と感じる。
役者をやっていた頃は、自分なりの練習方法として、よく野外で台本を読んだ。普段は狭い集会室で稽古をしているだけに、外に出ると想像が広がるような気がした。そのおかげで演出家から褒められる――ということはあんまりなかったから、自己満足に近いものだったかもしれないけれど、それなりに意味はあったと自分では思っている。
精神安定剤みたいなものでもあった。座組に馬が合わない奴がいてモヤモヤしている時も、山へ来れば「まぁ千秋楽まで耐えればいいか」と思えたし、オーディションに落ちた時も、焚き火を見つめていると「まぁ次回頑張ろう」と思えた。
◆ ◆ ◆
気の持ちようで何とかなる問題なら、外の空気がだいたい解決してくれる。
しかし、そうでない問題に対しては無力だ。
(どうしたものか……)
日野が現れた翌日、僕は山道を歩きながら、ずっとバイトのことを考えていた。通い慣れた山だから考え事をしていても迷う心配はないけれど、人生に迷っている。
辞めるべきか。
正直、辞めたい。
青い髪の少年は速攻で決断した。彼のおかげで辞めるという選択肢がより鮮明になった。
バイトは義務教育じゃない。辞めたければ辞めていいのだ。法律的には二週間前、マナー的には一ヶ月前に申告すれば辞めていい。
いくら時給がいいからといって、兵隊をやるつもりはない。日野は僕らに兵隊になることを強いてくる。あの男が現れて、何もかも変わってしまった。
想定できたはずの事態だ。経験がある。同じバイトでも、直属の社員によって働きやすさは大きく変わる。いわば社員ガチャだ。スーパーの店長が良い人なら、毎日の品出しも、時給とは関係なくちょっと丁寧にやろうという気になる。逆も然り。配置換えで一転、クソ環境に転落することはままある。
ノンストレスで時給2000円というフィーバー状態がいつまでも続くわけがなかったのだ。何故か続く前提で考えてしまっていた。引っ越しにあたり家電の必要性を見落としていたことといい、どうして僕はこう間抜けなのだろう。もうすぐ30歳なのに。
責任の軽いアルバイトしかしたことがないから人間としての成長が学生レベルで止まっているのだろうか。だとしたら僕の未来は実に暗い。別段明るい見通しもなかったけれど。
いや、おぼろげながらそれはあった。勢いとは言え、実家を出ることを決意したのは良かったと思っていた。一人暮らしのスキルを身につけ、貯金を100万にまで回復させたら、そこから何かが始まるような予感がしていた。
(おっと)
もう山頂か。
霧が出ていて眺望はない。あまりにも象徴的過ぎる。
普段ならガスバーナーとクッカーで湯を沸かしてコーヒーをいれるところだけれど、湯の前にそんな気力が湧かない。水をそのまま飲み、ビスケットをかじる。遭難者のように。
もともと曇りの予報だったせいか、人影はまばらだけれど、皆無ではなかった。
みんな、どうしているんだろう? 普段はどんな仕事をして、どんな家に住んでいるのだろうか。貯金はいくらある? パートナーはいる? 一人一人、アンケートを取ってみたい。僕より良い暮らしをしている人ばかりだろうと予想はつくけれど確認したい。
日に日に増える失業者にマウントを取って、時給の良いバイトにありつけている自分は勝ち組だと思っていた。馬鹿じゃないのか。フリーターはフリーターだ。脆い。水平線に現れる船影のように、一撃で沈む。
(殺してきた、報いだろうか)
まさか。
だとしたら軽過ぎる。上司が怖い人になったなんていう程度で済むはずがない。
(もとい、殺していない。夢にも見ない)
引っ越しは明日。荷造りはできている。新居の鍵は受け取っている。明後日には注文していた諸々の家電が届く。
一人暮らしが始まってしまう。バイトの状況が変わったからちょっと待ってくれなんて言えない。
もし辞めてしまうと、かなりキツくなる。普通の仕事では時給1000円少々。自分一人生きていけないことはないだろうけれど貯金を増やすのは難しいだろう。
再び100万貯まるまで我慢して続けるか? 続けられるのだろうか? 国家斉唱は無心でやり過ごせばいいとしてもイヤホンなしでの勤務があまりにもしんどい。寝るか狂うかしそうな気がする。
無理なら、辞める? でも辞めたら……
堂々巡りを繰り返しながら、僕は下山を開始する。
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