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 その日の最後に、1から100までの整数をそれぞれ二乗して足し合わせた合計を求めるという問題を、桂木君は出題した。図を使って考えるとわかり易いよ、というアドバイスをしてから、桂木君は僕にやる気を起こさせようとしたのだろう、いつもなら決して口にしないようなことを冗談めかして言った。

「これが自力で解けたらホント凄いと思うな。これが解けたら数学者の資質があるよ」

 僕はこの言葉にやる気を起こし、寝ても起きてもこの問題を考えた。だが、どれだけ時間をかけて考えても、問題解決の糸口すら見出せなかった。

 高校入学の日を迎えても相変わらずで、入学式の間中ぼんやりと問題を考えていたが、ホームルームになり、一人ずつ自己紹介することを知らされると、僕は急に緊張し始めた。廊下側の列の人から順に起立し、名前と出身中学のほか、趣味や中学時代に熱中していたことなどを話していく。話が終わる度に疎らな拍手が起こった。僕の番となり、緊張し、上ずった声で出身中学と名前を言った後、少し間をおいて(このとき既に拍手をするために両手を向かい合わせていた生徒も数人いた)、一言つけ加えた。

「好きな食べ物は、はっさくです」

 全く予期していなかったことだったが、これがクラス中の笑いを誘い、僕の最後の言葉はかき消された。

 その後も自己紹介は進んだが、最後の方で一風変わった自己紹介をする生徒がいた。キツネ目の男子で、名前を呼ばれると勢いよく立ち上がり(椅子が後ろの机にぶつかった)、ガッツポーズするように右の拳を握りしめて前後に揺らしながら、

「宮下智仁です!」

 と、怒鳴りつけるように名前を発すると、ぐるりと教室を見回し、

「よろしくお願いします!」

 と、大声でつけ加えてさっさと座った。

 それまでわいわいと騒いでいた生徒たちが黙り込み、教室が静かになった。

 誰もが緊張し、それを緊張に見せまいと陽気を装って自己紹介しているなかで、その生徒だけが異質だった。何かに本当に怒っているとか、世の中に反発している少年といった風ではない。何でそんな大声を張り上げるのか? こんなことを真面目ぶってやっている同級生や教師を馬鹿にしているのか? よくわからない。よくわからないから消化することもできず、教師もきょとんとしていたが、すこしして軽く咳払いをし、呼吸を整えるとやっと気を取り直したのか、次の生徒の名前を呼ぶのだった。

 明日からの予定の確認も終わり、その後、担任の長い話(自分の高校時代を振り返り、青春の素晴らしさを説く、ありきたりなものだった)がチャイムで打ち切られ、号令が終わっても生徒たちは帰ろうとしなかった。他のクラスの生徒も入ってきて、同じ中学出身者同士でかたまって、それぞれのクラスの情報を交換し合ったり、積極的な生徒は、自己紹介を手がかりに新しい友達を作ろうと話しかけたりして、自分の感じている興奮を分かち合う相手を求めていたし、また、この特別な日に、クラスの誰もが話題にするような出来事が起こるような気配を感じて、クラス全体に何かを待ち受ける雰囲気が漂っていた。

 そんな周囲には構わず、僕は帰ろうと支度をしていたが、同じクラスになった出身中学が同じ二人の生徒が寄ってきた。僕の自己紹介について、あんなネタいつ考えたんだよ? とか、お前って面白い奴だったんだな、全然知らなかったよとか語りかけてきたけれど、彼らは中学時代に僕と親しくしていたわけではなかった。実際のところ、一人の生徒とは話したこともなかった。僕は適当に返事をすると、机の前面の視界を塞ぐ二人を見上げるように顔を上げたまま、二人の合間からクラスの様子をうかがった。僕の席は中央最後尾で、クラス全体を見渡すことができる位置にあった。左前方窓際の方から、女子が騒がしくしゃべっているのが聞こえてきた。早くも仲良くなったのだろうかと思い、そちらに視線を向けると、その中の数人がこちらを見て微笑みかけてきた。恥ずかしくなってすかさず窓際後方に顔を向ける。と、キツネ目の男がこちらを見ていた。だが、僕と目が合うと窓の方に顔を向けた。再び正面を向くと、二人は僕そっちのけで話していた。今の隙に帰った方が良さそうだ。だけど、二人に一緒に帰ろうと誘われたら面倒なことになる。一緒に帰っても当たり障りのないことをしゃべっていればあっという間に家に着くだろう。そもそも二人とは方角が違うはずだから、五分くらい我慢すればまた明日ってなことになるはずだ。だけど一度一緒に帰ると、明日以降も一緒に帰らなければならないかもしれない。僕はもう一度二人の様子をうかがい、おもむろにリュックサックからノートを取り出すと、桂木君から出題された問題を考え始めた。数日前からアドバイス通りに図を描いてみて、何らかの面積の和が、求める各数字の二乗和になっていないかと考えて、何か掴めそうなときもあったが、しばらく考えてみると、全く見当違いなことが明らかになるのだった。桂木君ががっかりする様子が浮かんできて、ため息がでた。

「どうした? 悩んでんの?」

 見上げるとさっきまでそこにいた二人はいなくなっていて、智仁という例のキツネ目の生徒が立っていた。教室を見回すと数人の生徒しか残っていなかった。

「いや、別に」僕はそそくさとノートを閉じてリュックサックにしまい、目の前の相手に視線を向けることができないので、机を見つめた。数学の問題に取り組んでいる姿を見られたことが、何だか無性に恥ずかしかった。馬鹿にされると思った。有名大学を目指して、入学初日からガリ勉してると思われたかもしれない。自分は桂木君から受け継いだ学問としての数学に取り組んでいるのであって、受験数学に取り組んでいるわけではないんだ。そう主張したかったが、そんな主張が理解されるはずがなかった。

「すげぇねぇ。気合いはいってんねぇ。数列だろ。塾で出たことあるよ、あんな問題」

 思わぬ言葉に僕が顔を上げると、想像の中での反り返り、顎を上向きにし、薄ら笑いを浮かべた姿とは違って、彼は真っ直ぐに僕を見ていた。微笑も浮かべていない。それどころか表情が硬く、口元の動きにも硬さが見られる。意外なことに緊張しているようだ。人見知りなのかもしれない。それで僕の緊張が緩んだ。

「塾ってずいぶん進んでんだね。凄い奴とかいた? めっちゃ頭がいい奴とか」

「まぁーね。うーん。俺ぐらいじゃないか?」

 智仁は両目を見開き、真顔で真っ直ぐに僕を見た。本気なのか冗談なのか分からない。僕が反応に困っていると、智仁はのどの奥から鼻に抜けるような声で、ふぅはっはっはぁー、と笑い、ジョーダンジョーダン、と言った。

 智仁のつかみ所のなさに参って僕が黙っていると、気まずく感じたのか、智仁はまた硬い表情に戻って口を開いた。

「でも、一人であんな難しそうな数学やってるなんて凄いね。学者にでもなんの?」

「いや俺なんて全然、やり始めたばっかだよ」智仁のおだてに気をよくして、僕は慣れない口調でぺらぺらとしゃべった。「中学に桂木って奴がいて、そいつが数学の鬼でさ、そいつが出題した問題なんだ。桂木は大学の数学をやってんだよ、一人で。うちなんて公立中学でろくな数学の教師もいないし、生徒も大したことないのばっかしなのに」ここで言葉を切り、僕は笑いながらつけ加えた。「あっ、俺みたいに」

 先ほどの沈黙が嘘みたいに話す僕を見て、智仁も気楽に話し出した。智仁がしゃべると前歯が目立ち、赤く染まった両頬は熟れた果実のような艶を帯びる。そしてときおり、のどの奥から鼻に抜けるような声で笑うのだ。

「お前の自己紹介。あれ最高だったな。いや、汚ねぇーよ。全部もってちゃってよ。あの自己紹介の後じゃ、俺の自己紹介なんて何のインパクトも残せなかったよ。反則だよ、あれは。汚ねぇーよ、汚ねぇーよ、汚ねぇーよ」

 智仁は頭を振り、身を捩らせて嘆いた。

 自己紹介の話を持ち出されて、こいつも先ほどの二人と同じかと思い、僕は一瞬身構えたが、智仁が自分の自己紹介への影響を気にしていたのを知って、面白い奴だと思った。まさか自己紹介で目立とうということだけで、あんな大声を張り上げていたとは。僕は必死で笑いを堪えたが、ついに吹き出してしまった。

 こうして智仁と知り合い、二人とも帰宅部で帰りの方向が同じだったため、それから毎日一緒に帰るようになった。真っ直ぐ帰れば二十分程の道のりを、放課後の教室でだらだら過ごしたり、ハンドボール部の練習をぼけっと眺めたり、公園のベンチで話し込んだりしていて、別れるときにはいつも日が暮れかかっていた。

 帰り道で二人が話すのは大抵、海外のロックのことだった。父が好きでよく聴いていたから、僕は六十年代や七十年代のロックには詳しかった。だが智仁が語る、八十年代や九十年代のハードロックやヘヴィーメタルには疎かったから、そっち方面の話になると、智仁が一方的にしゃべり、それに僕が合いの手を入れる感じだった。

 ある日の帰り道で智仁の中学時代の話になった。

「中学のときに友達がライブするっていうから観に行ったんだよ。ポイズンって知ってる?」僕が一瞬で答えられないと、智仁はすぐに続けた。「まあ知らなくていいけど。ともかく、けぇっばい化粧してさ、カヴァーしてんのよ、ポイズンの。で、ガラガラの客席で俺がヘッドバンキングしまくってたら、D・D・ダイアモンドがさ、あいつやベーんじゃねぇーかって」

 智仁のマシンガンのようなしゃべりに被せるように僕が、D・D・ダイアモンドって何? と訊くと、智仁は一瞬黙ってから、「そのバンドのボーカルがD・D・ダイアモンド。ギターがD・D・デーモン。ベースがB・B・ブラックで、ドラムは忘れた。もともとポイズンのギターがC・C・デヴィルって名前で、ギターが、」と一気にまくしたて、右手で握り拳を作り、その拳をゆっくりと振り上げたと思ったら、ハンマーを地面に叩きつけるように振り下ろしながら、「俺はデヴィルよりすげぇーからデーモンだ!」と大声を出して、のどの奥から鼻に抜けるような声で笑うと元の調子で言った。「で、まあ、スカウトされて、コーラスをやってたね」

 僕は智仁の挙動に一瞬ぎょっとして黙り込んでから、おずおずと尋ねた。「コーラスって、ハモったりするの?」

 智仁はすぐさま上体を反らせて胸を張り、叫んだ。

「アァー! オォー! ヒィー! アァー!」

 僕は周囲を見回した。両側に住宅が建ち並ぶ真っ直ぐな道で、幸い人通りが少なかった。少し前にすれ違った中年の女性が軽く振り返ったほかは、三十メートルほど先を歩いていた女子の一団が、こちらを振り返って笑っただけだった。

「いきなり叫ぶなよ、驚くじゃん。どうしたんだよ?」

 智仁は僕の質問に答えなかった。両膝と両手を地面につけ、下を向いてゼェーハァーゼェーハァーと苦しそうに呼吸をしている。

 すこしして、うつむいたまま絞り出すような声で智仁は言った。

「駄目だね。コーラスやってたときには、もっと高音に伸びがあったのに。西中のロブ・ハルフォードと呼ばれた、この俺が!」

 下を向いて心底悔しそうに頭を振ってから、智仁は顔を上げた。「お前もやってみ」

 僕は一瞬やりたい気持ちにもなったけれど、微笑んで首を左右に振った。

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