虚無の乗客
椰子草 奈那史
#1 虚無の乗客
「次は■■病院前、■■病院前。お降りの方は足元、忘れ物にご注意ください。次の停留所は、○○三丁目になります」
車内放送が終わり、バスは停留所の前に停車した。
ドアが開くと数人の乗客が降り、また数人の乗客が乗り込んできた。
やがてドアが閉まり、バスは再び走り出す。
まだ夕刻前の時間帯のせいか、車内は空席の方が目立っていた。
僕は車窓から外に目を向けた。
今日もいつもと変わらない街の風景が流れていく。
――いつもと?
本当にそうかと言われれば自信はない。
そもそも、「いつも」とは何と比較してのことだろう。
僕は毎日このバスに乗っている。しかし、いつから乗っているのかは思い出せない。
とても昔からのようにも思えるし、それほど前でもないような気もする。
それに、僕はどこからバスに乗り、どこへ向かおうとしているのだろうか。
バスの終点が▼▼駅前なのはわかっている。
僕は毎日終点までこのバスに乗り続けているのだが、終点の▼▼駅前が近づいてくると何故か意識が遠くなってしまい、気がつくとまたこのバスに乗っているのだった。
思い出せないことはそれだけではなかった。僕は自分の名前も、年齢も、住んでいるところすらも憶えていない。
ただ、一つだけはっきりしていることがあった。
それは、僕が「生きた人間ではない」ということだ。
それに気づいたのは最近――いや、やっぱりわからない。もしかするとずっと前だったかもしれない。
僕はいつもバスの車窓から外を眺めているが、車窓のガラスに僕の姿は一切映らない。窓だけではなく、前のシートに座った女性のコンパクトの鏡にも、運転席から車内を見るための鏡にも映らなかった。
試しにバスの乗客の目の前で手を振ってみたこともあるが、ひとりとしてまばたき一つしない。
つまり、僕は誰にも見えていなかった。
こんな有様だから、僕は自分の顔さえわからずにいる。
仕方なく、見える範囲で僕は自分のことを観察してみたことがあった。
服装は、白いワイシャツに、グレーのスラックス。靴は黒い革靴だ。
制服、スーツどちらにも見えて確証はない。
腕や手の感じからは、少なくとも年をとっているようには見えない。
十代後半か……二十代前半というところだろうか。
結局、それ以上のことは何もわからず僕は今日もバスに乗り続けているのだった。
※※※
ある日のことだった。
その少女は、途中の停留所からバスに乗り込んできた。
毎日バスに乗り続けていると同じ人を見かけることも多いが、その少女を目にしたのは初めてのような気がした。
もちろん、一度しか見かけない人など他にも大勢いるが、その少女に視線を奪われたのは他の人とは違う、柔らかく清浄な空気をまとった佇まいとその美しさのせいだった。
背中までかかった長く美しい黒髪、雪のように白く一点の曇りもない肌、そして、神秘的とも思える深い緑の瞳。
制服に身を包んだその少女は、バスに乗り込むと片手で吊革を掴み、もう片方の手で持っていた文庫本に目を落とした。
僕はしばらくの間、少し離れたシートからその少女をみていた。
やがて、いくつかの停留所を過ぎたころ、少女が停車ボタンに手を伸ばす。
文庫本を鞄にしまい、少女が降車ドアに向き直るその時、少女の視線が僕の方に向いた。
一瞬、少女の目が大きく見開かれ、すぐに視線を外すように俯く。
えっ……。彼女には、僕が見えてる?
バスが停留所に止まり降車ドアが開くと、少女は足早に降りて行った。
あ、待って。
僕も慌てて降車ドアへ向かい外へ飛び出る。
……あれ? そういえば今まで試したこともなかったけど、バスの外、出られたんだ。
僕がポカンとしている間にも、少女の姿はどんどん遠ざかっていた。
僕は急いで少女の後を追いかける。
少女はしばらく表通りを進んだ後、細い横道へと入って行った。
僕が横道への角を曲がると、すぐそこに少女の背中が見えた。
ねぇ、君――。
僕が声をかけようとしたとき、少女の硬い声が響いた。
「これ以上、付いてこないでください」
少女は、背を向けたまま、微かに肩を上下に揺らしている。
『あ、ごめんなさい。僕は怪しいものでは……いや、怪しいかもしれないけど、決して君に何かしようというつもりはないんです』
僕は少女から離れるように後ずさる。
少し落ち着いたのか、少女はゆっくりと振り返った。
「あなたは誰なのですか?」
『それが、名前も年も、自分の顔さえも思い出せなくて……』
「記憶がないということですか?」
『そう……なります。毎日、僕はあのバスに乗り続けているんですけど、理由も、いつからそうしてるかもわからない有り様で』
少女は、小さく溜め息をつくと横道の奥を指差した。
「この先に少し大きな公園があります。そこで話をしましょう」
『あ、ありがとう!』
僕は歩き出した少女の後ろについて路地を進んだ。
※※※
少女は、広い公園の片隅にあるベンチに腰を下ろした。
僕も少女の1つ隣のベンチに座る。
少し離れたところにある遊具には小さな子供と母親らしき女性が見えるが、僕たちの周囲には誰もいなかった。
なるほど、誰にも見えない僕と話してたら彼女自身が奇異な目で見られるだろうから、ここを選んだのか。
「それで、あなたのことはなんと呼べばいいのでしょうか?」
『すみません。本当に何も覚えていないので、好きに呼んでください』
「そうですか。……では
『あ、なんかカッコいい名前をつけていただいてすみません。ええと――』
「私のことは
『それでは、汐里さん。よろしくお願いします』
「では、あなたの毎日の行動を詳しく教えていただけますか? 覚えていることは残らず全て」
『は、はい――』
僕は汐里さんに、毎日のバスのことと、覚えていることをできる限り詳しく話した。もっとも、覚えていることはほとんどなかったのだが。
「んー、今の話だとあなたがここに留まる理由まではわかりませんが、向かおうとしている▼▼駅に何か関係があるような気がします。何か心当たりは?」
『……』
汐里さんは再び小さく溜め息をついた。
「……ですよね。わかりました、少しお時間をください。それは私の方で調べてみます」
汐里さんが荷物を持って立ち上がった。
「レイさんはいつもあの時間のバスに乗っているんですか?」
『はい、毎日、同じバスです』
「そうですか。もしかすると何日か掛かるかもしれませんが、わかり次第またあのバスに乗りますので待っていてください」
『それはもちろん! どうか、よろしくお願いします』
僕は去っていく汐里さんを見送った。
……そういえば、僕はこの後どこへ行けばいいんだろう。
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