23話


 薄い膜のように広がった沈黙を振り払うように、昧弥まいやの手が緩やかに持ち上がる。


 見せつけるように掲げられた手の内で、ジャラッと鎖の擦れる音が鳴った。

 そのあまりの弱弱しさに道祖みちのやは弾かれたように顔を跳ね上げた。


 視線は鎖越しに昧弥の黒玉の瞳に吸い込まれ、その口から生まれる呪詛は容易く道祖を飲み込んだ。



「いいか。そこらに転がっている有象無象共は、まぁいい。そもそも私が焚きつけ、それを許したのだ。刹那的な戯れであり、状況的に流れたものとはいえ、確かに私の言葉だ。反故にする気もない……だが、こいつらは違う」



 人工精霊タルパの頭を踏み躙っていた足がその背に滑り、同時に鎖が引き絞られる。

 首輪を吊り上げられ、無理やり持ち上げられた顔は恐怖に歪み、喉から苦しげな呻きが漏れていた。



「こいつらはたまさか通りがかっただけにもかかわらず、しゃしゃり出て手を突っ込んできたのだ。

 自分たちのをひけらかすためだけに、河川敷に捨てられた猥本わいほんをその場で広げ、使用するのを見せつけるような下劣さでだ。

 ――笑えんな……ああ、笑えんとも」



 人工精霊タルパは指を首輪の隙間に潜り込ませようと足掻き、何度も首を引っ掻く。しかし拘束が緩むことはなく、むしろ足掻けば足掻くほど、より強く食い込んでいった。


 呼吸を必要としない人工精霊タルパが、何に苦しんでいるのか……それは定かではない。ただ、彼女の目はすがるものを探すように、忙しなく動いていた。


 その瞳が……何もできず、ただ呆けたように事態を見つめる道祖の目を捉えた。


 針の穴のように絞られた瞳孔が、助けを求めて伸ばされる手のような切実さで、道祖に訴えかけてくる。


 ――死にたくない。


 あまりに痛切な目の色に、道祖は身をつまされる思いがして、無意識に自分の肩を抱いて後退った。

 闇夜の底、吹雪の中、たった独りで打ち捨てられたような恐怖が、我が物のように思えて……その痛ましさに体が震えて仕方なかった。


 ……しかし、それでもなお、道祖はその求めに答えることはできない。


 この島で……このどうしようもないゴミ溜めで、教師であることを自分に誓ったのだ。


 ここでカルマに頼り、力で事態の収束を計れば、自分は立つための寄る辺をなくしてしまう。

 教師でなくなった自分は、昧弥の言うように欲に呑まれた獣に堕ちるだろう。それを自分自身で確信してしまっていた。


 故に昧弥の一挙一動を、結紀ゆうきの、人工精霊タルパの一苦一憂を、見つめるしかなかった……。


 ……しかし、そうと覚悟を決めてもなお……道祖の心は千々に乱れて止まなかった。



 ――本当に……本当に、これでいいのだろうか……?


 ――仕方ないと切り捨て……その後でも、私は私だと胸を張って言えるだろうか?


 ――果たして、教師として、それ以上に人として……私は……正しく……。



 ぐるぐると体の内で渦巻く苦悶は泥のように溜まり、足元に底なしの沼を広げていく。その泥が重たく絡みついて、一秒ごとに心も体も身動きが取れなくなっていった。


 足先から闇に沈んでいくような感覚――。


 一筋の光明すら消え失せていく中……人工精霊タルパの瞳だけが月明かりに瞬く夜露のようにきらめいて見えた。


 その濡れた玉のような輝きが、まるで自分を責めているように感じられて……。



 ――ああ、でも……肉体を持たない彼らが、涙を流すことはない……そのはずだ。


 ――けれど、だとしたら、あの今にも瞳から零れ落ちそうな雫は、いったい……。



 泥の底から浮かんできた泡のように、思考は形になる前に崩れ、弾けて消える。


 泥はもう喉元まで迫ってきているようで、首を締められるような息苦しさに道祖は喘いだ。

 それまるで人工精霊タルパの苦痛が乗り移ったようで……頬を濡らしたのが誰の思いだったのかも分からず、顔をぐしゃぐしゃに歪めた。


 それでも、目を反らさなかったのは教師としての矜持か……はたまた場を治める術を持たない自分への罰なのか……。なんにしても、逃げることだけはしなかった。


 故に、道祖はどうあっても、心を切り裂くような昧弥の言葉を正面から受け止めるしかなかった。たとえそれが、酷く傷を抉るものだと知っていても。



「その手前てまえクソまみれたケツを向けられるだけでも我慢ならんというのに……ことの末に横槍を入れてきた貴様は、それをのたまった。

 ――可哀想だから慈悲を恵んでやれと、しもの世話をしてやれと。……なんだそれは。死に際に祈る無神論者でも、ここまで図々しくはない。

 ――実に不愉快だ」



 言葉が一つ重なるたびに、体温が一度下がっていくような思いだった。


 心臓が早鐘を打ち、呼吸が浅く早くなり、視界が暗く狭まっていく。目に映るすべてが闇に覆われていく。

 その中で、ゆっくりと持ち上げられる昧弥の右腕だけが、スポットライトを当てたようにハッキリと浮かび上がって見えた。


 まるで吸い寄せられるように、自然と目が腕の動きを追ってしまったのは、動くものがそれしかなかったから……ではなかった。


 まっさらな白紙の上に、一滴、墨を落としたように――じわり、と昧弥の白い腕に悍ましい黒色が不規則な斑紋はんもんで滲みだしていた。


 その黒い何かは円状に広がり、まるで穿たれた穴から溢れるように、ごぽっ、と詰まった排水管から汚水が逆流するのに似た濁った音を立て、中心からより濃い闇を吐きだした。


 吐瀉としゃされたタールのように粘ついたそれは、まるで生きているかのようにザワりと身を震わせて這いずると、瞬く間に昧弥の腕を覆う。


 傷はあれど、確かに女性の手であり、腕であったはずのものを、それは白地しらじであることは許さないと犯し抜くように、桜色の爪先まで余すことなく塗り潰す。


 その腕は、まるで重度の黒死病に侵され腐り落ちる寸前の病床者のそれで――。


「――ヒッ!?」


 人の形を根底から崩されるような恐怖を目の当たりにして、道祖は悲鳴を飲み込むことができなかった。


 それは、あまりにも冒涜的で……。生きとし生けるものすべてを、愚弄し凌辱し、蹂躙する。生き物への底知れない悪意だけを凝縮した――何かだ。


 アレに触れたが最後、人も人工精霊タルパも、生き物としての形を保ってはいられないだろう……それをまざまざと分からせてくる。


 あまりに暴悪なカルマ


 その悪意を、挨拶でもするような気軽さで昧弥は振り上げていた。



「ああ、そうとも。最悪だ。まるで明け方に無理やり叩き起こされ、バターオイルを直接胃に流し込まれたような気分だ……反吐が出る。

 この今にも胃の中身もろともブチ撒けたくなる気分を放置しては、腹の虫が治まらない――落とし前はつけてもらう」



 振り上げられた腕は、落とされる寸前の断頭台の刃のようだった。


 空間が、時間が、断ち切られる寸前の縄のように軋み、張り詰める。

 あと数秒と待たず、あの刃は落とされる。

 もはや避けようのない現実が目の前にあった。


 ――もう……自分にはどうしようも……。


 道祖は泥に沈み、現実から目を閉ざそうとした――その時、闇よりもなお暗い昧弥の眼孔と目が合った。

 偶然か、はたまたより深い絶望をくれてやろうとしたのか……分からない。分からないが、その瞬間、道祖は弾かれたように顔を上げていた。



「故に、貴様の取引とやらに対する答えは……」


「――ッ! 待て! 待ってくれ! やはり――ッ!」




「――『クソ食らえ』だ」


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