眠れる龍の宮殿

赤魂緋鯉

前編

「ここが伏龍フーロン城……」


 道の悪さのせいで、大きく左右に揺れる牛車のほろをめくって、苺麗メイリーは前方にあるこぢんまりとした城壁を見上げてつぶやく。


 城の周辺は緩やかな山岳地帯で、国境からも遠く、ひたすらガラ山があるだけで、戦略上も交易上も全く重要ではない。


 河川も小さいものしかなく、領民と城の関係者を養う以上の農業生産力もない。


 ろくに塗装もされていない質素な城門をくぐると、似たような見た目の角楼が、中央の第2城壁の上にあった。


 その壁の後ろには、いくつかの建物が集まった、これもまた質素な伏龍城の庁舎がある。

 

 碁盤の目のように建つ周辺の建物は、ほとんどが軍事関連で民家はあまりない。


 計5台の牛車が入りきると門が閉まり、止まったそれに番兵達が集まって、苺麗が乗っているそれまで満載された荷の下ろし作業を始めた。


「お持ち致しますよ」

「ああいえ。これぐらい自分で」

「これは失礼」


 番兵が幕を開けると、自分の荷物が入った木箱を手に苺麗は牛車を降りた。


 さっさと積み替えられていく荷を横目に、彼女はそこまで長くもない大路に佇む。


 やっぱりギリギリで通ったから、ここなのかなあ……。


 ふう、とため息を吐いていると、庁舎の方から苺麗と同じ、鮮やかな緑色の官吏の服を着た、人の良さそうな丸っこい男が駆け足でやってきた。


 先頃都で行なわれた官僚登用試験で、苺麗は山を外してしまうも、詩歌部門で挽回してなんとか最下位で合格していた。


「やーやーやー、苺麗くんだね。ようこそ伏龍城に!」


 彼女が懐から出した書簡を読んだ男は、すさまじくとっつきやすい言動で苺麗を歓迎した。


「あ、はい……」

「じゃ、早速庁舎を案内させてもらうよ。じゃあ君、彼女を乗っけてあげてー」


 書簡を懐にしまった男は、追いかけてきた自身専属の車夫にそう頼むと、また忙しく庁舎の方へと戻っていった。


「お乗りになればいいのに……」

「あの方、私の負担が心配だから、と乗っていただけないんですよね」


 目を丸くしてそうつぶやきながら彼を見送る苺麗へ、車夫は苦笑いしながら梶棒かじぼうを下げて答えた。


「な、なるほど」


 苺麗が挨拶をしてから、荷物を座席の下に収めて乗り込むと、人力車はゆったりと大路を進み始めた。


 案外、活気がある……?


 城主はともかく、庁舎内には乱心を起こした、前皇帝である女帝・龍芳ロンファンが幽閉されているため、


 空気が殺伐としてる、かと思ったんだけど、そうでもないんだ……。


 そう思っていた苺麗は、兵士に至るまで穏やかな表情をしている事に、内心拍子抜けしていた。


 龍芳は即位前日に側近を全員粛正して、その家臣までをも、というところで義兄の龍文ロンウェンに捕らえられ、現皇帝である彼によってこの地に幽閉されていた。


「官吏殿、案外緩やかな空気で驚かれたでしょう?」

「あ。ええ、まあ……」

「龍芳様はここにいらしてから、うわさではすっかり外界への興味と気力をなくされたとか」

「なるほど。それで牧歌的というか……」

「その上に人心も離れ、権力も持ち合せていないですから、暗殺される心配もないですしね」


 そう言いながら、真っ直ぐ庁舎門を見る彼の背中は、どことなく哀しげだった。


 彼の様子が、元とはいえ恐怖の皇帝への態度とは、苺麗には到底思えなかった。





 庁舎内にたどり着き、汗だくの恰幅かっぷくの良い官吏は、苺麗の住み処となる南西の角にある官舎に送り届けると、庁舎内の案内を官吏長である老齢の女官へ引き継いだ。


 荷物を置いた苺麗は挨拶もそこそこに、彼女に連れられて、早速中心部にある領主の執務へと移動する。


 その道中にすれ違う官吏は女官だけで、ほぼ武官のえんじ色の官吏服を着た者ばかりだった。


 苺麗とは出会わなかったが、召使いの数も数人で、苺麗を含めて文官は5人、武官は15人程度と、元とはいえ皇帝の居城としては閑散としている。


 執務室の前に立ち、官吏長が名乗って入室の伺いを立てるが、城主の天狼ティエンラン州公海狼ハイランは不在で返答は無かった。


「では、先に龍芳様の所へ参りましょう」

「は、はい……」


 自分が側仕えする前皇帝の名を聞いて、苺麗は背筋を伸ばし、ガチガチ状態で唾を飲み込んだ。


「そこまで緊張せずとも、あの方は今は穏やかであられますよ」


 そんな彼女を見て、官吏長はいかめしい表情を少し緩め、必要以上に緊張する苺麗へそう言ってそれをほぐそうとする。


「そ、そうなんですか……」


 しかし、あまりその効果は無く、官吏長は苦笑いを浮かべた。


 そんな苺麗を連れて、執務室の壁を挟んで向かいにある、龍芳の居所へとやって来て、先程と同じ様に官吏長が伺いを立てると、入ってくれたまえ、と返答があった。


 龍芳の声は、声変わり前の少年の様な声で、事前に分かっていなければ勘違いするのもやむなしだった。


 頭を下げたまま、苺麗は緊張で汗をにじませつつ官吏長と共に入室した。


「本日より側用人そばようにん兼文官として着任いたし――」

「ああっ! 君が苺麗だね?」


 挨拶しきる前に、窓際にいた龍芳が駆け寄ってきて、苺麗の両肩をがっしと掴んで弾むような口振りで訊ねた。

 

「顔を見せておくれよ」

「は、はひぃ!?」


 竹のようにシャキッと顔を上げた苺麗の視界に、ふにゃ、っと笑いながら、まじまじと自身のやや赤黒い目を見つめてくる、龍芳の少年の様な顔が目に入った。


「――うん、間違いない」


 顔を両手でそっと持った龍芳は、二度三度と頷いてそう半ば独り言の様に言う。


「ええっと、その……」

「あっ。……失礼した」


 心臓をバクバクいわせて顔を赤くし、目を忙しく動かす苺麗に、龍芳はハッと我に返って少し離れた。


「し、失礼なんて、とととと、とんでもないデス」


 軽くパニックになりつつ、苺麗はどもりまくりながらそう言って、改めて頭を下げて名乗った。


「うん。よろしくね。ああ、ばあやは下がっていいよ」

「かしこまりました」


 軽いノリで言う龍芳に、官吏長は恭しく礼をして、ススス、と退出していった。


 ……えっと。もしかして、そういうことを、するのかな……?


 戸の閉まる音で、自分と龍芳の2人きりになった事を意識し、苺麗は手を合わせたまま、ソワソワと落ち着かない様子で唾を飲込んだ。


「ああ。流石にいきなりはしないから安心してほしい。あと、前皇帝じゃなくて、1人の友として接してくれると嬉しいな」

「しっ、承知……、あっ、分かりましたっ」


 命令通りにしようとしたが、苺麗の育ちの良さが邪魔をして、友人よりはやや格上、という塩梅あんばいになった。


「うんまあ、それで良いや」

「申し訳ありま……、ないです……」


 自分の意向になんとか沿おうとする苺麗を見て、龍芳は満足そうに笑って頷く。


「時に苺麗」

「はい」

「ボクの事、覚えてるかい?」

「それはもちろん――」

「本当かい!?」

「書物とかで、その……」

「ああ。それかあ」


 表情を輝かせて、前のめりになった龍芳だが、苺麗が言っているのは前皇帝の自分の事だと気付いて、スン、としょげた。


「あっ、ああああのそのどうかお命だけは……」

「いやいやいや、取らないから! 取らないから落ち着いて!」


 それを見て、顔を真っ青にして焦る苺麗は、素早く跪いて即座に震えはじめ、龍芳もわたわたと慌てて気分を害していない事をアピールした。

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