4話 オープンマイハート


その翌日の雨の朝。姫野は痛い頭で会社に向かった。車好きの彼は愛車、黒のフェアレディZで石狩街道を東に走っていた。昨夜は良く眠れずいつもよりも早く家を出た朝の道。渋滞も無くあっという間に会社に着いてしまいそうだった。

……謝った方がいいのか……いや?でも……。

そんな考え事をしていた彼の前の信号が黄色になったので、彼は停止した。

……ごめんなさい……、か。

窓を穿つ車のフロントガラスの水の玉。これが昨日の清掃員少女の涙に見えた姫野は、ワイパーでこれを消した。

やがて青のシグナル。会社への足が重い彼はゆっくりと車をスタートさせた。



「おはようございます」

「「「おはようございます」」」

夏山ビルの正面玄関。入ると左手にある宿直当番の部屋にいた三人の営業マン達が姫野に挨拶を返した。医薬品総合卸の夏山愛生堂は、会社の営業時間外も緊急医薬品に対応すべくこうして会社に泊まり込み、医療機関からの電話当番の夜勤をしていた。

「お?姫野。ちょうど良かった!お前に聞きたい事があるんだべさ」

三人の中の一人は姫野と知ると窓越しの部屋から出てきて声を掛けてきた。姫野も立ち止った。

「竹野内?お前……髪が跳ねているぞ」

爆発ヘアの竹野内。そんな事を気にせずまだ他の社員が出社していない静かなフロアで姫野に興奮しながら話しだした。

「このレベルは普通だべさ!あのさ。さっき、見たこと無いくらい綺麗で可愛い女の子が入って行ったんだけど、あの子ってなんだべ?」

姫野が仲良くしている豊平営業所の竹野内はそういって缶コーヒーをプシュと開けていた。姫野は苦しそうに答えた。

「……もしかして、背がこれくらいで、長い黒髪で、色の白い小顔のスレンダー体型で、花の香りのする清楚な娘か」

「それだべさ!あの子って何者なんだよ」

「俺の方が聞きたいよ……」

「へ?」

大きく溜息を付いた姫野は、竹野内に彼女の事を話すこと無く、そのまま中央第一に入って行った。この日の朝の中央第一営業所の清掃。これは正社員の吉田がやってきて清掃をしていった。その間、誰も一言も話さない重い空気。この無言の圧されたに姫野は、益々苦しんでいった。

そんな午後の1時。事件が起きた。

「鍵が開かない?」

「はい。先輩。午前中に会議をしたじゃないですか?あの時、メーカーさんが忘れ物をしたって連絡があったので俺が会議室を開けようとしたら、開かないんですよ」

「見せろ、これか?」

一階の廊下。風間が指す営業所の隣接の会議室の電子キーは、エラーを表す真っ赤に点灯していた。姫野は彼を向いた。

「お前、何かしたのか」

「何もしてないですよ?ただ暗証番号を間違えたんで、適当に押したら変な音が鳴っただけで」

「十分何かしてるじゃないか?お前のせいだろう」

興奮する姫野。風間は悪びれた様子も無く、姫野に首を傾げて言った。

「先輩……。何を言っているんですか?今は原因追求している場合じゃないでしょう。まずはここを開けるのが優先です」

「係長。お説教は後でいいですから、とにかく開けてください。先方は困っているんですから」

背後にいた松田は、そう風間に援助攻撃をして腕を組み姫野を見上げていた。が、風間はしれっと話し出した。

「でもね先輩、俺、総務の人に開け方聞いたんですけど。この鍵は新しいから総務の人もわかんないみたいらしいです」

「そんな鍵を設置するなよ!……しかし、そうなると、鍵の110番とかに頼むのか?でも、これは電子キーだもんな」

松田は組んでいた腕を解き、イラッとして目で二人を見た。

「そんなの待っていられないわ。ねえ、風間君?清掃員の人なら開くと思わない?毎日掃除をしているんだもの」

「でも松田さん。無理ですよ?吉田さんは婆ちゃんだし、小花ちゃんは出入り禁止だし」

「忌々しいわ……」

二人の冷たい視線。これにうなった姫野は、とうとう風間の腕を掴んだ。

「……呼べ」

「誰をですか?」

「清掃員だ」

「へえ?いいんですか?」

意地悪く腕を組む風間を、姫野はキッと睨んだ。

「いいから呼べ!俺が……謝るから」

姫野の降参の体裁。松田が営業所に素早く戻り始めた。

「姫野係長……私が呼んでみます。でも、来るかどうかわかりませんけどね」

こうして内線電話で清掃員を呼び出した松田。営業所内に姫野を呼び、受話器を彼に渡した。

「ほら係長。ちゃんと謝って下さい」

「わかっています!あ、もしもし」

何気ない顔で受話器を耳に当てた彼の心筋細胞。声とは裏腹に過去に経験した事のないくらい激しく動いていた。さらに彼の鼓膜は彼女の言葉を決して漏らすまいと異常なレベルで研ぎ澄まされていた。

『あの……エラーと言う事ですが、横のリセットボタンを押していただけないでしょうか』

受話器の向こうから聞こえる鈴の転がるような声。姫野は動揺したが、これを必死で隠し指示を出した。

「おい!風間。横のリセットボタンを押せ!」

「どこですかー?わかんねーです」

廊下から風間の叫び声。姫野は再び小花に訊ねた。

「おい……リセットボタンの場所はどこだ」

『右の上に、隠れてあるんです……ポチとした突起がありませんか』

「右上だ!風間。ポチとした突起だ」

「先輩!全く見えませんよ……本当にここにあるんですか」

「姫野係長」

姫野の背後にいた松田。姫野の肩をむんずと掴んだ。

「風間君には無理です」

腑抜けの男達。我慢し任せていた松田は、苛立つ気持ちを押さえず、はっきりと言った。「場所が高いので姫野係長が見て来てください。電話は私が代わりますので」

使えない部下に頼るよりも自分が行った方が良いという松田の話はもっとも。だが、姫野は松田に待った!と手で制し、電話を続けた。

「申し訳ないが、風間では開かない。君がここに来て、鍵を開けてくれないか……」

昨日彼女を傷つけて自らも傷ついていた姫野。まるで胸に刺さったナイフを自ら抜くように、痛みを伴いながら彼女に気持ちを打ち明けた。

『……でも顔を出すな、とあなたがおっしゃいましたわ』

「う」

サラリと素直に話す彼女。自尊心の高い姫野は拳をデスクにドン!と置いた。

「だから謝る!緊急なんだぞ!」

この偉そうな口調。彼の背後にいた二人は聞えるように話し出した。

「先輩のその態度。俺には全っ然、謝っているように見えないんですけど」

「そうですよ。何様のつもり?」

呆れながら話す風間と松田のつっこみ。姫野はうるさいと言わんばかりに片耳を塞ぎ小花のか細い声をじっと待っていた。

『承知しましたわ。私これから伺います。あの……それでは中央第一の皆さんは、お部屋に待機して下さいね。私、誰もいないことを確認したら参ります』

「あのな……」

律義に姫野の約束を守ろうとする小花。彼のいらだちは限界に達した。

「だから。それもう良いと言っているじゃないか?いいから、来い!今すぐだ!!」

そしてガチャと電話を切った姫野は、風間と松田がじっと自分を見ている事に気が付いた。

「……聞いた?自分が来るなって言い出したくせに……。今度は今すぐ来い、だって」

「松田さん。デスノート持っていませんか?」

「今は無いわ。藁人形にして」

「じゃ、それで」

 二人の憎まれ口。これを甘んじて受けた姫野は目を伏せた。

「……とにかく。ここを開けてもらいましょう」

営業所内。落ち着かなくうろうろ歩く姫野と風間。呆れる松田が待つ中、廊下の奥から足音がした。

「来た!俺行きます」」

「私も行く。顔出しオッケーだもの。係長。すいませんがここで待機でお願いします。絶対に来ないでくださいね」」

嬉しそうな風間と松田は廊下に顔を出した。そんな二人は廊下で彼女を待っていた。

「小花ちゃん!ありがとうって……それ、何?」

階段を駆け降りて来た彼女は、帽子を目深にかぶりサングラスにマスクを付けていた。

「あの……怒りんぼさんに顔を出すなと言われましたので。極力隠して参りましたの」

そういうと小花は背伸びして電子キーに手を掛けた。

「電子キーってそれなの?俺のいじっていたのって防犯カメラだったのか」

「……同じ黒ですもの、間違っても仕方ないですわ。あの……。はい、開きましたわ」

ピ――――ッという音と供に、小花はドアをサッと開けた。

「さすが!あ、あったわよ、風間君。メーカーさんの忘れ物の上着」

松田の声に会議室へ入った風間は、椅子に掛けられていた上着を手に取った。

「サンキュー。小花ちゃん、あれ?」

「……小花ちゃん?なしたの」

彼女はすっとドアの後ろに隠れ、怯えるような声を出した。

「どうか。私の姿はご覧にならないで」

「待ってな。今すぐ悪党に謝罪させるから」

「ほら係長!早く来てください。グスグズしないでキビキビ歩く!」

松田女史に背を押されてやってきた姫野は、ドアに隠れている彼女の前に立った。

「君」

「ううう……」

ドアの向こうの彼女は怯えて震えていた。姫野は優しく声を整えた。

「小花君と言ったな。あの、今回は非常に助かった」

「お願いです……私を一人にして下さいませ」

彼としてはやんわりと言ったつもりだった。が、彼女は必死にドアに隠れていた。姫野は容赦無くドアを開いた。

「ふん!」

「きゃあ?」

ウサギのように怯えていた小花はぶんぶんと首を横に振り後ずさりをしていたが、姫野はその手首を掴み彼女を背後から抱きしめる格好でマスクの口もそっと塞いだ。


「ばか?……悲鳴を上げるな!ここは会社だぞ」

「むぐむぐ?……はい」

 姫野は優しく彼女を解いた。そして深呼吸をした。

「いいか?君には感謝している!だから、その……。もう姿を隠さなくていい」

自分をそっと抱きしめている姫野の優しい囁きに、小花はマスクとサングラスのまま彼を見上げた。

「どういう意味ですか?姿は見せても近寄らなければOKと言う意味ですか?」

「あのな………」

「あ?」

まだ自分の言った事を守ろうとしている律儀な小花。苛立った姫野は、彼女が目深にかっていた帽子をさっと取った。長い黒髪がくるんと流れ出た。

「お嬢さん。これからは普通の社員と同じ待遇で頼む。……これでお分かりか?」

「……わかりました」

頭から聞こえる怒りを押し殺し優しく囁いた姫野の声。小花はサングラスとマスクを外した。

「ふふふ。暑かったわ」

「う」

覆面を取った彼女。白い肌にさくらんぼ色の唇。黒い瞳は輝いていた。そのぱっと蕾が開いたような笑顔に、姫野は思わず息を飲んだ。この嬉しそうな小花に風間と松田はそっと駆け寄った。

「小花ちゃん……良かった!」

「はい。お陰様で顔出しがOKになりましたわ」

「俺もこれで堂々と話ができるよ。ね、松田さん」

「ええ。こんなに汗をかかせてごめんなさいね。うちの係長コンクリート頭なのよ。私は事務の松田よ。ほら、コラーゲンドリンクよ、一緒に飲んでもっと綺麗になりましょうね?」

そういって松田は真っ赤なルージュで微笑んだ。小花は頬を染めていた。

「……こちらこそ宜しくお願い致します。これからも私にできる事がありましたら遠慮なくおっしゃって下さいね。風間さん、松田さん!」

気のせいか。姫野を無視するかのように小花は笑みを見せた。

「もちろんさ、小花ちゃん!」

「ええ、こちらこそ。楽しくやりましょうね」

こうして小花と風間と松田女史は仲良く手を繋ぎ、嬉しそうにブンブンと振っていた。そんな仲良し三人組に背を向けた姫野。密かに微笑んでいた。





◇◇◇


「先生。雨の中、ご足労ありがとうございます」

「いいえ。こちらこそ、遅くなりまして申し訳ありません」

金曜の夜。夏山慎也は弁護士の御子柴みこしばを自宅のマンションに招き入れた。

「……ここに、一人でお住まいですか?」

「はい。私だけです。たまに叔母が掃除にきてくれますが」

仕事帰りでまだスーツ姿の慎也は疲れた顔で御子柴をリビングに通した。そしてワインを取り出した。

「私は結構ですよ」

「では失礼して私だけ」

対面キッチン。慎也は赤ワインをそっとグラスに注ぎながら弁護士に向かった。

「すみません。まだ落ち着かなくて」「そんなに緊張しないで下さい。今日は確認だけですし」

御子柴は革の鞄から書類を取り出し、テーブルに置いた。慎也は目で見ていた。

「まずは、御依頼の内容を確認させていただきたいのです。ええと、慎也さんのご依頼は、義母である夏山真子さんの消息と、亡くなったお父様の俊也さんと結婚されるまで経緯の調査、の二点でよろしいのですね?」

慎也はグラスを片手に御子柴の対面に座った。まだ封筒に触らなかった。

「そうです。父の再婚については、事後報告のみで何も聞かされていないんですよ。それに義母とはあまり話をしたこともありませんでしたし」

「承知しました。ではこの二点について、今後調査致します。進展がありましたら随時、報告に上がります」

「先生!あの……」

「何でしょうか?」

大きく息を吐き、彼は言葉を選んだ。

「……まだすぐには分からないと思いますが、私が義母を捜している事を、義母には分からないようにして欲しいのです。その……彼女を追い出したのは、私ですので」

内容の深さに御子柴は小さく頷いた。

「分かりました。この件は慎也さん以外には、決して洩らしませんのでご安心を」

この時。慎也の安堵した顔を見た御子柴は席を立った。

こうして弁護士が帰った夜。慎也はワインを片手にピアノの部屋を開けた。月明かりに照らされた白いピアノは、とても美しかった。

……義母さんか……。


彼はピアノに触れる事なく、家族社員をそっと眺めた後、静にドアを閉じた。




つづく

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