第3話 立ち入り禁止

「おはようございます」

「おはようございます!」

初夏の札幌、雨の朝。清掃員の彼女はモップを片手に爽やかに挨拶を返していた。


北海道には梅雨が無いとされているが、ここ数日は雨が毎日続いていた。しかし関東地方のそれとは違い、蒸し暑さは無く、冷たい雨が街を濡らすもの。北に住む人達はこれを『リラ冷え』などと称するのだった。

そんな札幌にある夏山愛生堂本社ビルの玄関。社員達が濡れた靴でやってくるので、彼女は床をモップで丁寧に拭いていた。

「小花ちゃん!おはよう」

「おはようございます。まあ、風間さん。肩が濡れていらっしゃいますわ」

小花は持っていたふわふわのタオルで、風間の肩をポンポンと拭いてくれた。風間は嬉しくてニンマリしていた。

「ありがとう。あのさ、今日の昼休み、部屋に行っても良いかい?今日は俺も弁当なんだ」

「まあ、大きな声ですね?ウフフ。では!お待ちしています」

新人の風間の背を優しく見送った小花は、次々に玄関にやってくる社員に笑顔で挨拶をしながら掃除を進めていた。



「先輩。おはようございます。雨、結構降っていますね」

中央第一営業所に入った風間は笑顔である。小花に元気をもらった風間は、実に爽やかに姫野と松田に挨拶をし、自分の席にドカと座ると、いつものようにパソコンを起動させていた。

「ああ。おはよう。なあ。風間……」

「なんですか、姫野先輩?」

昨日。会社を辞めると騒いでいた部下を一晩気に病んでいた姫野は、今朝は何事もなかったように平気な顔してやってきた後輩に対し、怒りを殺して彼のデスクに歩み寄った。

「昨日の清掃員の件だかな」

「ああ。彼女が何か?」

「何が彼女だ!あいつは外部の人間だろう。あんまり親しくするんじゃない」

「……それほど親しくないですよ?」

そう言って風間は立ち上がり、コーヒーサーバーに向かった。

「二日前に逢ったんですけど……俺が先輩に意地悪を言われて落ち込んでいたんで、話を聞いてくれただけです。そしたら手土産買ってくるって言い出して……それだけです。先輩も飲みますか?」

「もう飲んでいる!とにかくどうでもいいが、親しくするんじゃない。お前はもっと仕事をしろ」

「ふあーい」

この後。午前中は素知らぬ顔でデスクワークをしていた風間は、うざい姫野の眼を盗んで小花のいる五階の立ち入り禁止のドアを開けた。

「失礼しまーす。小花ちゃーん!」

「……また来た。風間の坊っちゃんめ」

そこには小花ではなく、同じ清掃員の吉田が畳に太い足を投げ出していた。

「あれ?小花ちゃんは?」

「今くるよ。あんたはここに座って、って。もう座っているし?」

ちゃっかりしている風間。吉田は呆れた顔をしながら、溜息を付いた。

「そういう調子の良い所は本当に親父さんにそっくりだ……」

「うちの親父を知っているんですか?」

吉田は残念そうにうなづいた。

「ああ。あんたの親父さんもこの会社で修業してから薬局を継いだんだよ。まあ、あんたの方が親父さんよりも男前かな」

「良く言われます!」

ビタンとウィンクを決めた風間。その頭を吉田はコツンと叩いた。

「痛?」

「まったく。奥さんが美人だったものね……でも親父さんはトップセールスだったから。男としては向こうが上だね」

そんな話をしている時、部屋のドアがゆっくりと開いた。

「小花ちゃん!お疲れ」

「本当にお疲れ様ですわ……」

掃除セットを満載しているワゴン。これをよろよろと押しながら部屋に入ってきた小花はへとへとになりながらドアを締めた。こうして集まった三人は仲良く弁当を広げていた。

「……へえ。吉田さんが正社員で、小花ちゃんは派遣社員なんだ?」

「そうです。今は清掃員としてここに配属なんですよ」

小花は大きなおにぎりを食べた。吉田が話を補足した。

「風間君。本当はこのビルは私一人が担当で清掃するんだけど、今このビルは耐震の改修工事をしているだろう?何かと慌ただしいから小花ちゃんは今だけ応援に来てくれているんだ」

そういって沢庵をバリバリ食べている吉田。これを無視して風間は隣の小花に訊ねた。

「ところで。小花ちゃんって。これ、下の名前なの?」

「ふっふふ。名字です。良く間違われますが」

「そうなんだ?アハハハ」

お気楽で仲良さそうな若い二人。中年女子の吉田は慌ててフォローをした。

「……坊っちゃん、駄目だよ?小花ちゃんを誘惑するのは。まあ。あんたじゃ無理だけどさ」

「どういう意味ですか?あ、又電話だ……くそ」

風間のスマホが鳴る音。これを無視しようとした彼は吉田に出なさい、と即され、しぶしぶこれに応じた。

「ったく面倒。はい、先輩、何の用ですか??どこにいるって。昼休みだからいいじゃないですかどこにいてもフリーでしょう?……わかりました。後十五分したら戻りますから。はい……」

ものすごく嫌そうな顔をして風間は電話を切った。

「……うちの先輩。滅茶苦茶うるさいんすよ」

吉田は痩せるお茶をグビと飲みながら話した。

「姫野君だろう。イケメンのくせに神経質なんだってね。見栄えは社内で一番だから結構憧れている女子社員はいるんだよ」

吉田の話。ミニトマトを食べていた小花は顔を上げた。

「でも。風間さんの事を全然心配しない冷酷人間じゃないですか。私、許せないです」

怒り顔の小花。風間はニンマリした。

「小花ちゃんは嬉しい事を言ってくれるね……。あ。連絡先交換しない?また相談に乗って欲しい事があるんだよ」

ここで吉田が間に入った。

「ダメダメ!いいかい?風間の坊っちゃん。用事がある時はここに来ればいいだろう。さあ。もう職場にお帰り!ほれ!」

弁当を食べ終え吉田。追い出された風間は、仕方なく自分の職場に戻った。営業職が面倒な風間。重い足取りで職場に戻った。

「戻りました……」

「……風間。お前、またあの清掃員の所にいたんだろう」

一階の中央第一営業所。戻った風間に姫野はパソコンから目を話さずに言った。風間はしれっと嘘を言った。

「違いますけど」

「そうか?お前から洗剤の匂いがするな」

姫野の不思議顔。風間は思わず袖の匂いを嗅いだ。

「うそ?そんなわけないですけど」

慌てた風間。姫野はニヤリと笑った。

「引っかかったな」

「……先輩。俺を騙したんですね」

「お前だろ?それは」

姫野は座ったまま足元の屑かごをバーンと蹴り倒した。中身の紙屑が床に散らばった。

「何をしているんですか!係長?」

驚く女子社員の松田優子三十六歳。姫野は眉を上げた。

「いいんです。松田さん、今すぐ清掃員を呼んでください。ここを清掃させます」

驚く松田が内線電話で呼び出した数分後、雑巾とバケツを持って彼女がやってきた。


「清掃員です。あ、お洋服は汚れませんでしたか?」

「……」

腕を組んで立ち上がり仁王立ち。彼女を待ち受けていた姫野を、彼女は心配そうに掛け寄った。

「そんな事はどうでも良い!君が生意気な清掃員か。名前は?」

「……小花と申します」

雑巾を握りしめ、きょとんとした目で見つめる彼女。姫野は腰に手を当て応戦した。

「下の名前など聞いていない!」

「先輩。この場合、名字に決まっているでしょう?」

風間の突っ込み。頷く松田。姫野はかるく咳払いをした。

「君は外部の人間だろう?勤務中は風間に近寄らないでもらいたい」

「近づくな?それでは掃除が」

「いない間にしろ。いいか?風間だけでなく、この中央一の営業所にも顔を出さないでくれ」

「先輩」

風間は彼女を背にした。

「彼女は不出来な俺を庇っただけです」

「そんな事はどうでもいい!」

姫野は容赦なく続けた。

「それに、君。君は清掃員だろう」

「はい」

 長身の風間の脇。ここから彼女は姫乃を覗いていた。

「それならば。清掃員として業務に専念してもらいたい。こいつが金持ちのボンボンと知っているのかもしれないが、そういう営業は勤務時間外に行ってくれ」

「係長。それはちょっと」

「先輩。言い過ぎですよ!」

松田と風間の制止。しかし姫野は怒りを抑えられなかった。

「うるさい!とにかく姿を見せるな。仕事の邪魔だ」

怒れる姫野。これを止める風間。彼女は雑巾を持ったまま悲しそうにうつむきながらようやく風間の背から出てきた。

「……いいんです、風間さん。あの、お怒りの方……」

「俺か?」

「そうです。あの、私の行動でご迷惑をお掛けして申し訳ありませんでした。どうか、お許し下さいませ」

悲しげにすっと頭を下げた小花。髪を乱した姫野は眉をひそめ身を整えた。

「私、勤務時間は金輪際、こちらの営業所には参りません。本当にごめんなさい」


そう頭を下げた小花。顔を上げた時。眼には涙が溜まっていた。姫野は思わず動揺した。

「わ、分かればいいんだ」

「はい……」

首に巻いたタオル。これで涙を拭いた彼女は、床に散らばったゴミを手で拾い雑巾で拭いて綺麗にした。一同が静かに見守る中。一礼してから部屋を去って行った。悲しげ小さな背。これを何も言えずに三人は閉まったドアを見ていた。

「……先輩、ひどい」

「サイテーね」

「うるさい!さっさと仕事をしろ」

自分を冷たい眼で見る風間と松田。必死で言い訳した姫野は、彼らに背を向けて窓の外を見ていた。

その後。普段通り仕事をしている姫野は、気分が重かった。清掃員の女に言った自分の言葉のせいだった。

……あんなに若い女だと思わなかった。しかも、俺の言葉で涙ぐむとは……。これでは俺が悪者じゃないか?

ぼんやりしている中、松田が自分を見ていた。

「あの、係長。時計台クリニックの先生からお電話ですけど、切っていいですか?」

「は?駄目に決まっていますよ?!はい、代わりました、姫野です」

こんな松田の冷たい視線を浴びながら仕事をしていた姫野。彼はだんだんこの空気に耐えられなくなり、ふと廊下に出た。すると人影がさっと消えたような気がした。姫野の背後にいた風間がつぶやいた。

「あ~あ。先輩が意地悪言うから、小花ちゃん、隠れちゃった」

風間は肩を落とし、姫野にそう呟いた。姫野は必死に応戦した。

「風間……それが上司に言う言葉か?」

「姫野先輩こそ、かよわい清掃員に言う言葉でしたか?……別に、俺はもう辞表を預けていますから。気に入らなければどうぞ首にして下さい」

「くそ……」

生意気な部下に立腹の姫野。この夕刻は二人で得意先の病院へ向かった。



◇◇◇


「先生。新薬の件ですが」

「それよりも、姫野君。今度楽しい所に連れて行ってくれよ……」

患者を待たせているドクターはそういいながら、コーヒーを飲んでいた。

基本、薬は必要なもの。夏山愛生堂のライバル会社は小規模であるので、何もしなくても薬は売れる。彼らのとって大切な仕事とは、医者と仲良くすること。ここで話が詰まってしまった姫野に、風間は生き生きとドクターに話し出した。

「先生!最近流行りの『ナイトプール』って知ってますか?キングホテルでやっている大人向けの夜のプールなんですよ。若い女の子がいっぱい来てますよ」

「……風間君。そういうのを早く言ってよ?今度の木曜日はどう?」

「OKです!迎えに来ますので、一緒に行きましょう先生!」

仲良くハイタッチする二人。これを姫野は作り笑いをするのに必死だった。

薬の知識は豊富な姫野だが、遊びにかけては風間に全く及ばなかった。真面目に勉強してきた姫野には、医者達が満足するような遊びを提案できない。マージャン、飲み会、女遊び……。どれも姫野が勉強してきた科目では無かった。風間はススキノにある老舗の薬局の息子。私立の薬学部出身の彼は、遊びに掛けては社内一で、『ススキノプリンス』と呼ばれているほどだ。

風間の父親から一年は会社員をさせて欲しいと頼まれている会社側は、この御曹司のお目付け役に堅物姫野を抜擢したのだった。

この日の帰り。風間と別れて乗った地下鉄南18条の駅を降り、ライラックの香る夜道を歩きながら姫野は自宅マンションに入った。交際していた彼女とは半年前に別れており、今だ独身。そんな彼は部屋に入り、スーツを脱ぎハンガーに掛けた時、ふと小花の心配そうな顔を思い出した。

……『お洋服は汚れませんでしたか』か……。あの時、俺の心配をしてくれたのか……。

この夜、風間の『サイテー』という言葉のリフレイを消す様に、姫野は必死にシャワーを浴び初夏の一人夜を過ごした。




つづく



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