第一章 清掃員あらわる

第1話 心の汚れを綺麗にします


「ダメです!」

オレンジ色に染まる北の街札幌の夕刻。屋上のフェンスの前でぼうとしていた風間諒かざまりょうの背後から誰かが彼をギュウと抱きしめた。バランスを崩しそうになった彼はそっと振り向くとそこには南風の中、必死に自分にしがみつく清掃員の作業着姿の女の子がいた。

「ねえ……君。何してんの?」

「お願い、死なないで……」

「は?俺が?違うよ!あの、ちょっと離して。この方が危ないよ」

札幌駅東方面にある五階建のビル。洗濯された白いぞうきんがたなびくビルの屋上のフェンス前。夏の西空に夕日が沈む風の中、風間は彼女に抱きしめられたまま後ずさりした。

「え?違うんですか?」

冷静な彼の言葉にようやく手を緩めた彼女は、そっと不安そうな顔を上げた。風間はその顔を見て理解した。

「まさかさ。君、俺が自殺する思ったの?」

「はい」

「違うよ。確かに考え事はしていたけどさ」

風間が呆れたような目で見下ろすと、彼女はほっと溜息を付き、胸を手で押さえた。

「良かった……。あの、ここではなんですので、下の階に参りましょう。私、お悩みを伺いますから」

「え?いやそんな事」

「ほら。早く!」

否応なしに彼女に腕を取られた風間は、彼女が開けた重い鉄のドアに入った。下へ続く階段を手を引かれて降りた。



やがて。五階の廊下に進んだ彼女は給湯室横の関係者以外立ち入り禁止のドアをすっと開けた。

「ささ、どうぞ、こちらへ」

「ど、どうも……へえ、こうなっているんだ」

プレートのイメージと違い室内は畳の小上がり。殺風景であるが小さなキッチンのある小綺麗いな休憩室になっていた。畳にはもう一人の清掃員の中年女性が釈迦の涅槃像のポーズでこちらを向いてごろんと横になっていた。彼女は怪訝そうな顔で風間を見つめた。

「なんだい、この僕ちゃんは?」

もうすぐ還暦を迎える恰幅のよい吉田梅子。この部屋にやってきた男に眉間にしわを寄せて見据えた。彼女は吉田に目で謝った。

「吉田さん。御休みのところすみません。この方、何か思いつめていらっしゃるようなのでお連れしました。はい、どうぞ。ここへおかけ下さいませ……」

彼女に肩を掴まれた風間は古びたソファに座った。そんな風間を吉田は大あくびをしながら話しかけた。

「ふわ?お前さんは中央第一営業部の新人だろう?また石原部長に下らない事を言われたのかい。あいつなんかの話、まともに聞くこと無いのに……」

吉田はものすごく嫌そうな顔をしながら身体をどっこいしょっと起こした。

「それもありますけど、はあ」

悩める青年。彼女は優しく背後に立った。

「では。いかなる理由で屋上にいらっしゃったのですか?……これ、どうぞ」

目の前の小さなテーブル。優しく置かれた湯のみの湯気。これを見ながら風間はつぶやいた。

「俺、そんなに落ち込んで見えました?自分ではそんなつもり無かったんだけど」

向かいのソファに腰掛けた清掃員の小花すずは、首を傾げて風間を見つめた。

「ええ。あの背はかなりそう見えましたわ……。何か、心を痛めておいででしたら、赤の他人の私達に遠慮なくお話し下さいませ」

「君に?」

ええと彼女は微笑んだ。

「話すだけでも気が楽になることもございますし。ね、吉田さん?」

「ほら、早く話しなよ。私はトイレに行きたいのだから」

風間は自分を心配そうにみつめる小花を見て、ふうと溜息を付いた。




「俺、先日失恋したんですけど。まだそれを引きずっていて……。ぼんやりしながら仕事していたら受けた注文を間違えたんです」

「うっかりミスですか。それは誰でもある事ですよね」

小花も小さな湯飲みのお茶をすっと飲んだ。吉田は頭をかきながら尋ねた。

「あんたがしっかりしないせいだけど。それで?」

「俺……今夜の七時に相手先のクリニックに先輩と謝りに行くんですけど、手土産を買ってこいって部長に言われて。なんかもう何もかも嫌になって……辞表を書こうと思って屋上にいたんです」

そう言って脱力した風間は眼をつぶり、ソファに背持たれた。

「では……死ぬつもりは無いわけですね?」

「アハハハ。心配しないで!悪いけど俺は仕事なんかで死ぬ男じゃないから」


笑顔でソファに背持たれて足を組んで小花にウィンクをした風間。小上がりにいた吉田は靴を穿きながら呆れて言った。

「何をカッコつけて話しているんだよ!とにかく相手に謝りにはいかないと。あの石原はねちねちうるさいよ?あんた一生この事言われるよ」

「そんな事は分かってますよ。でももう、どうでもいいかなって……」

「お気持ちは察しますが……そうだ?私。手土産買ってきます!」

嬉しそうに手を叩き立ち上がった小花を、風間は驚き顔で見上げた。

「え?君が」

ウキウキ顔の小花。風間の気持ちをよそに早口で進めた。

「ね。そしてきちんと謝罪をしてから辞表を顔でも机にでも叩き付ければ良いじゃないですか?ああ、そうよ……その方がカッコいいわ?」

 どこか楽しそうな彼女。風間は制止しようと身を起こした。

「あのさ、君」

しかし。小花は話を聞かず、動き出した。

「ウフフ。憧れだったんです、そういうシーン。吉田さん、私、ちょっと行ってきます!」

「あの、そこまでしなくても」

しかし。彼女は風間の返事も聞かず、お財布片手に部屋を飛び出して行った。そんな部屋はシーンとなった。残った風間に吉田がため息をついた。

「……あんた名前は」

「風間です」

呆れ顔の吉田。風間に向かった。

「風間君。うちの小花こはなちゃんは言い出したら聞かないからさ。手土産だけ受け取ってやってよ」

風間は腕時計を見た。今は夕方の四時だった。

「あの部長にはさ、車の中で頭を冷やしていましたって言い訳してあんたは部署に戻ってなよ。だって、どうせ会社を辞めるんだろう?それなら少しくらい嫌みを言われても平気だろう?」

 ベテランの彼女の貴重な意見。風間は力強くうなづいた。

「はい。全然平気っす!イヤホンあるし」

爽やか親指をビシと立てた風間を吉田は冷ややかに見つめた。

「大した太い神経だこと……じゃ。手土産は届けるから。待っていなさいね」

こうして吉田に背を押された風間は、一階にある自分の職場である中央第一営業所へ向かった。



◇◇◇

「戻りました!」

何事もなかったように自分のデスクにすっと座った風間。彼の先輩は密かに眉をひそめて見た。

「……風間。お前、今までどこに行っていたんだ」

パソコンを前に仕事をしていた先輩上司の姫野岳人ひめのがくと。彼はそんな風間に怒りを抑え何気なく声をかけた。

「はい?ああ……ちょっと頭を冷やしていました」

自分が説教をした後。黙って部署を飛び出した後輩の風間。これを心配していた姫野は、笑顔で爽やかに戻ってきた彼の心理を全く理解できなかった。この気持ちを悟られぬように平気な顔をして尋ねた。

「それに。お前、手土産はどうした?」

「……今、届きますよ」

「届くって。お前、買いに行ったんじゃなかったのか」

反省の色どころか、先ほど怒られていた形跡が一切無い風間。姫野は怒りを通り越して自分の方がおかしくなったのではないのかと錯覚しそうになった。そこに事務員が声をかけた。

「お話し中すみません。姫野係長。ライラック病院からお電話です。内線2番です」

「分かった!風間、話しは後だからな」

事務員の電話に救われた風間はそっとパソコンを覗き仕事をしている振りをした。こうして時間を費やしていた。そんなズルズルの夕刻。開いたままの営業所のドアから、鈴が転がるような可愛い声が響いてきた。

「失礼します。清掃です」

お辞儀と元気な挨拶を決めた小花はモップをよし!と携え会釈して入ってきた。長い髪を一つに結び頭には清掃員用のブルーの帽子を被った彼女は、目深にしたままモップで床のゴミを集めながら屑かごのゴミを手早く回収し始めた。

そして風間の隣にやってきた彼女は、誰にも見られないようにそっと彼に紙袋を手渡した。

「例のブツですわ」

「サンキュ」

受け取った風間にウィンクを決めた小花は、いつものように清掃をし、中央第一営業所を出て行った。

「……おい。風間、そろそろ行くが、手土産は?」

電話を終えた姫野は、鼻の下にペンを挟んでいる部下に声を掛けた。

「ここにあるっす!」

紙袋をどうだ!と見せつけた風間。姫野は風間の上機嫌にイラとしながら立ち上がった。


「いつの間に?まあ、いい、行くぞ」

やけに手際の良い部下。不思議に思いながらも、車のキーを持った姫野は風間を連れて、得意先へと向かった。



◇◇◇

「大変申し訳ございませんでした!」

夕刻のクリニックの院長室。頭を下げる姫野に倣い風間も頭を下げた。

「……いやいや。そんなに気にするなよ」

白衣のドクターは笑いながら椅子を二人の方に回した。

「すみません。これはほんの心ばかりのものですが。おい、風間!」

姫野に横腹を突かれた風間は、看護師をしている院長夫人に紙袋を渡した。

「奥様。自分のせいですみませんでした!これ受け取って下さい」

「あらあら風間君。こんなに気を使わなくても良いのに……」

「いいえ。気持ちですので」

そういいながら手を出し受け取った院長夫人。高校時代にミスター札幌に選ばれた事のある風間の爽やかな顔と声が近かったせいもあり、顔を赤面させて受付の奥へ引っ込んだ。

「しかし。マスクの1万個って凄い数だね。何事かと思ったよ」

そう言ってメタボの白衣の院長は楽しそうに微笑んだ。今回の風間の誤り。百枚入りのマスク箱一つつという注文を、一万個としてしまった事だった。これを届けにきたトラックを思い出し、院長は笑っていた。しかし笑えない姫野はさらに頭を下げた。

「全くお恥ずかしい次第です。これはすぐ返品伝票で取り消しまして、お一つだけお届けしましたので」

申し訳なさそうに説明をする姫野。隣にいる風間は、反省しているような顔を心がけていた。こうしてギャクにしてくれた院長に、再度詫びを決めた二人は病院を後にしていた。夜空には月が浮かんでいた。

「風間。ここはまあ良いとして。うちの倉庫にはお前が取り寄せたマスクが9,999個在庫になっているから……それをどうするか問題だぞ」

コイン駐車場まで歩く宵の狸小路商店街。ススキノへと歩く社会人達が足早に過ぎる中、姫野の足取りは重かった。

「姫野先輩。俺、責任取って辞めますから。そんなに落ち込まないで下さいよ」

笑顔の風間。姫野は肩を落とした。

「……あのな。辞めるとか簡単に言うな!俺はお前の親父さんから一年は続けさせてくれと頼まれているんだぞ?お前はまだ入社して三カ月なのに」

冷たい夜風。姫野は怒りを押し殺し、風間を見つめた。

「アハハハ。大丈夫ですよ。親父の事なんてほおっておいて」

「何をバカな事を……」

余裕綽々な風間は、歩きながら夜空を仰いでいた。

「でも俺、今日謝ってホッとしました……。入社して姫野先輩には迷惑しか掛けてないですけど。やっぱり明日、辞表を書いてきます。俺には営業は無理ですよ」

「風間……」

立ち止った姫野は後輩の勇ましい背を見つめた。彼は振り向き笑顔を見せた。

「ほら先輩。そんな顔しないで下さいよ?いいじゃないですか問題児がいなくなるんですから。大丈夫ですよ、これでも勘当されるのは慣れているんで」

笑顔の風間に励まされた姫野は、頭を痛くしてこの日を終えた。



快晴の翌朝。出社した風間は五階の立ち入り禁止の部屋をノックし、そっと開けた。

「……おはようございます」

「お。昨日の僕ちゃんか」

風間はなぜか芸能人の寝込みをインタビューするどっきりレポーターのようにこそこそと入ると、そこには掃除用具を満載したワゴンで出動しようとしていた吉田がいた。

「あの。小花ちゃんは?」

「今の時間は……四階かな。会議室に行ってごらんよ」

「ありがとうございます!」

まるで犬のように素早く階段を下り四階に行った風間は、廊下で掃除機を掛けている小花を見つけた。掃除機の音で彼女は気が付かない様子。風間は大きな声で挨拶した。

「小花ちゃん。昨日はありがとう!」

「あ」

小花は掃除機を止め、風間を向いた。

「おはようございます。今朝はお顔の色がよろしいですね」

帽子のツバを上げて彼を見上げた小花の優しい笑顔。風間は眼を細めた。

「夕べは良―く眠れたんだ。これも君のおかげだよ」

「それは何よりですわ。辞表は、今日お出しになるのですか?」

「うん。善は急げと言うからね。それよりも……どら焼き代を。はいこれ」

笑顔の風間は封筒に入れたお金を小花の手に渡した。

「確かに受け取りました。ところで風間さん。よろしかったらお昼を一緒に食べませんか?ささやかですが、送別会をさせてくださいませ。食事はこちらでご用意しますので」

「え?さすがの俺も。そこまで甘えるわけにはいかないよ」

この遠慮。彼女はちょっと寂しそうな顔をした。風間は返って胸が痛んだ。

「……そうですか。ではお茶だけでも飲みに来て下さい。待っていますね」


小花は掃除機を持ち会議室へ行ってしまった。心が軽くなった風間は札幌狸小路商店街の曲を口ずさみながら中央第一営業所へ向かった。

「おはようございます!」

元気な彼の一声。デスクに座っていた姫野は立ち上がった。

「……おい。風間、昨日の件だが」

「はい。先輩。これ辞表です!自分で云うのもなんですが、俺にしては巧く書けたんですよ、会心の出来です!」

しかし、こんな物!と姫野は風間が机上に置いた封筒に眼もくれず、風間に詰め寄った。

「……あのな。今はそれどころじゃない!お前、あのどら焼きをどうやって手に入れたんだ?」

「は?」

「これを見ろ!」

姫野は風間の肩を強引に抱き、机上のパソコンの画面を見せた。



つづく





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