第11話 現実の世界
シャワーの音だけが浴室に反響する。
夏だからか三十八度に設定されていたが、勝手に三十七度に変えさせてもらったシャワーだ。
深い意味はない。熱かったのだ。大学のアパートではガス代節約の意味も込めて三十七度なわけなのだから。一度という僅かな違いも、大きく感じる。
「あんだけ熱い思いはしたのにな」
誰に言ったわけでもない言葉は、滴り落ちる水と一緒に排水溝に流れていく。
最後に朱音さんに蹴り飛ばされたところに触れれば、焼かれる様な、とまではいかないが未だに熱いものは感じるのだ。
それでも。
そうだとしても。
正髄の言っていることも、理解、できてしまう。
間違ってはいないと思ってしまう。自分がそういう輩を理解しがたいだけかも知れないが、面白いから楽しいからと言うだけで人を傷つけられる人は、居ても居なくても良い気がするのだ。自分の快楽だけで他人を貶める人は、むしろいない方が良いとまで思ってもいる。
現に、小中学校時代の同級生の半分以上は、死んでも自分は何も感じないだろう。
居なくなって、迷惑を被る人が減るのなら、それは良いことではないか。
そうは思うが、一方で正髄の傍に行くと言うことは自分で手を下す、と言うことだ。
死んで欲しいと思ったことはあるが、死ねと思ったことはない。ずるいかも知れないが、自分が手を下す、あるいは殺人のほう助をすることと自然に死ぬことは別だと思っている。
各種あるトロッコ問題などの思考テストでも、自分は切り替えや突き落とすことなどはしない。それで多数が死のうと天命であり、個人が操って良いことではないと思っている。
だから、正髄の言う『二十一世紀のノアの箱舟』は最終手段も良いところ。是正を、反省と教育を放棄した先の決断だと思う。
かと言って、かと言って。
彼の理想を実現させるための代案が思い浮かぶわけでもない。
期限は設けられていないが、あの名刺がこちらの位置を逐一正髄に知らせる物であるとすれば、答えが出ないも話にならないだろう。
警戒レベルは低そうだが、最悪消されると言うことまである。
「消されたくは、ないな」
死にたくない。
死にたくはない。
自分が生き延びるためなら、生き残れるならば見知らぬ他人、それも『クズ』と断じられるような奴が何人犠牲になろうと構わない。
『クズ』達と同じ発想のレベルに落ちるとしても、自分がどちらを選ぶかなど明白だ。
そう。明白なのだ。
持ち帰ったところで、答えは決まっている。
手を伸ばして、シャワーの放水を止めた。髪から滴り続ける水音が、浴室に響く。
「あいつの元に行けば、就活はしなくて良いかもな」
そんな阿呆な、とは重々分かっているともさ。
髪の毛を後ろに撫で付け、水気を切る。後は滴るままに任せて、浴室の扉を開けた。バスタオルに手を伸ばすと、堂々と鎮座しているゴケプゾが目に入る。
本の見た目をしているが、これは凶器だ。人を簡単に殺せる凶器なのだ。
向こうの世界に居なくても能力を発現できることは、帰ってきてすぐに試した。本の中にいた時よりも何かを多量にもっていかれたような気はしたが、黒い棒は創造できてしまったのだ。
ゴケプゾが使えた、ということは正髄の禁書も使えるのだろう。あの怪物が、正規の攻略法を用いなければ死なない怪物が解き放たれればと思うとゾッとする。正髄にとっての『クズ』を殺しつくすことも現実的であると理解できてしまうのだ。
朱音さんのような力があれば、怪物に対しても有効なのだろうけれども。
ゴケプゾを使っても、正髄が本気になれば自分は大事な人すら守ることは出来ないだろう。
朱音さんへの対策と言ってはいたが、あの土の拘束を壊すことは出来なかった。怪物に対しても、囲まれれば勝てる気はしない。
だから、正髄の提案を受け入れるしかないのだ。
「別に、悪い話じゃないさ」
誰かの理想郷で、その誰かが他人の意見に耳を傾けるならば。
あの場で殺すこともできたはずなのに返した、と言うことは無益な殺生もしないのだろう。誰にとっての益かは、一考の価値があるが。
手を伸ばして、ゴケプゾに触れる。
手は多分に濡れていたが、ゴケプゾは他の本のようにふやけることもなく綺麗に開かれていく。古書の見た目は変わらず、ページだけは新しいもののようにしっかりと。生気に満ち始めたようにも見える。
開いて、流れてくるイメージを否定せずに受け入れる。様々な木々。植物。実際に見たことがあるようなものから、まったく見たことが無いものまで。自分が知らないだけで世界のどこかに自生している植物かもしれないが、違うかもしれない。
少なくとも、世界中の植物は枝が伸びて巻き付いたりはしないだろう。
イメージの中で触れ、別の植物をイメージすれば、手の中でその植物に変わる。桜にも、コスモスにも、向日葵にも、沈丁花にも。
沈丁花は毒を持った果実を結実させる。朱音さんが沈丁花ならば、正髄が手にしようとした瞬間に毒として作用したり、は、ないか。薬にもなる植物であるし、何より自分が勝手にイメージ付けただけ。本当に神と呼ばれる存在なら、人間如きが助けようとするのが間違っている。
だから、自分は悪くない。
悪くない。
燃えて、煙を立て始めた植物群を見ても、悪くない、仕方がないと言える。
イメージが燃え始めたのは脅しのためか、何のためかは分からない。ゴケプゾが神に近い書物なら、見捨てるなと怒ったのかもしれない。それでも、これは仕方が無いことなんだ。
自分如きが、助けには行けない。自分の失態で捕まったのだとしても、正髄の手に渡る禁書が増えるだけかも知れないのだから。
「
母さんの声にイメージが霧散して、意識が洗面所に戻ってくる。
「私も風呂に入りたいんだから」
そっか。もうパートだかアルバイトだかから帰ってくる時間か。
「今出るよ」
乱雑に体を拭い、服を着る。
「どうぞ」
母さんに道を譲ると、母さんが目を僅かに開いた。
別に、道くらい譲っていたと思うけど、そんなに自分は傍若無人だったか?
今もすぐさま台所に行って麦茶を入れているけどさ。
「もうちょっと待ってくれたら私のも一緒に洗えたのに」
洗面所から母さんの声がやってきた。
洗濯機が今動いているから、だろう。
「泥汚れがついたから先に洗ったんだよ。母さんが帰ってくる時間も知っていたわけじゃないし」
「泥汚れって。あんた、まさか朱音ちゃんまで泥だらけにしたわけじゃないでしょうね」
滑り落ちそうになったコップを左手で素早くを掴んで、両手でゆっくりとシンクに置く。
「そう言えば朱音ちゃんは? 部屋?」
「部屋って、どこの」
「客間か、誠ちゃんの部屋」
「なんで俺の部屋に」
「客間を片付けるのが面倒でねえ。帰ってくるまでなら良いかって。どうせ年に二回しか帰ってこないんだから片付いているでしょ?」
「まあ、別に問題はないけど」
エロ本も持っていないし、AVも無い。
野球道具や教科書の類が残っているかも知れないが、特に面白みのない部屋のはずだ。
「もしかして、友達が見つかったからその子と一緒?」
「……さっさと風呂入れよ」
蛇口のひねり加減を間違えて多量の水が飛び出て、着たばかりの服を濡らした。
締めなおして、緩やかにする。
いや、その前にコップを洗わなきゃだったな。
「あ、もしかして寂しいの? そうよねえ。朱音ちゃん可愛い子だったもんね。そっかそっか。誠ちゃんはああいう子がタイプか」
冗談じゃない。
「息子となんつー話をしてんだよ」
「良いじゃない。少しくらい。娘が居たら恋愛相談もできたかもしれないけど、全員男だったから誰も何も言わなくて母さんは寂しかったんだから」
「兄貴とすれば良かっただろ」
「本当にね。
「はいはい」
なんつーアドバイスをしているんだか。
「少し心配なのは
話したことはないけれど、まあ、バレるよな。そりゃそうだよな。
「まあ、誠ちゃんの場合はやめといた方が良いんじゃないって子とも噂が合ったりもしたけれど。朱音ちゃんなら大丈夫。朱音ちゃんは娘にしたいぐらい良い子だから。たまに不思議ちゃんみたいなところもあるけれど、そこも可愛かったでしょ?」
「知るか」
「あ、照れてる?」
「俺は朱音さんと付き合う奴は苦労するなとしか思わなかっただけ。それに、母親とこんな話をして照れない奴の方が少ないんじゃないか」
「惣ちゃんは真面目な顔で「兄貴たちはどうやって彼女を作ったんだ?」って聞いてきたことがあったよ」
「息子とそういう話ができてんじゃないか!」
完全にからかわれた。からかいやがったな。
「気が付いたらできてたよって返したけど」
相談に対する答えになってない!
仕方ない。兄ちゃんが可愛い弟のために頑張ろうじゃないか。
「優は険しい顔して惣三郎にはまだ早いって言っていたけど、お父さんには聞かなかったみたいね。誠ちゃんには? 何か言ってた?」
「女性を理解できると思うな、とだけは言っといたよ」
「朱音ちゃんと同居するにあたっては良いアドバイスだったかもね。流石だね。誠ちゃんは、優ほど真摯でもないし、惣ちゃんほど真面目じゃないけど、昔から大事なところは間違わないのよね」
「居候だろ?」
「成人しているみたいだったから、家族と思って過ごして良いのよって言ってあるの」
家族。
家族ねえ。
神様を娘にするなんて聞いたことが無い。いや、あるか。娘ではないけど、処女懐胎は神話では良くある話な気がする。
「どんな話をしたのかはわからないけど、誠ちゃんが決めたなら母さんは心配してないよ。一番放置しておいても大丈夫な子だから」
……どこまで、気づいたんだろうな。
詳細は分からないはずだから、何だ? 警察に保護されたとか、実は朱音さんが犯罪者だったとかか?
何はともあれ、くだらない会話で気を紛らわそうとしてくれたのなら、その気持ちはありがたい。何物にも代えがたい。
「普通はそういう言葉は長男にかけるんじゃないの?」
「誠ちゃんがテスト勉強しないでいても放置していたでしょ?」
バスタオルで隠して持ってきたゴケプゾを、つい見てしまった。
「おっしゃる通りで」
どこまで知っているのやら。流石に、ゴケプゾは知らない、と思うけど。
母親はすべてを知っていてもおかしくないと思ってしまう。
同時に、話題を変えないとぐいぐいと来られる気もしてしまう。
「そういや、正髄さんって知ってる? 近くにいとこが住んでるって言ってたから」
「正髄さんと、何かあったの?」
「言って」のあたりで言葉がかぶりながら母さんが勢いよく洗面所から出てきた。
惣三郎を困らせた朱音さんの振る舞いは、母さんを見ての物じゃないかと、険しい顔になった母さんを見て出てきた冷静な部分が突っ込んだ。
「正髄さんを知ってるの?」
とは言え、口調は深刻そうにしておく。
「知ってるも何も、行方不明になった一家は『ショウズイ』さんのとこじゃない」
は?
え?
あ、うん。
「とりあえず、母さんは風呂入りなよ」
あと冷静に考える時間をください。
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