「来るだろうとは思っていたさ」

「王は和平を結ぶことを決意した。それは先日の【国王の為の】会議で伝えられたはずだ。マイセル」

「ああ、聞いたさ」

 手を握るミズガルドがわずかに震えていることに気づいた。どうして。問いかけは呑み込んで、トスティナはただきゅっと握る手に力を込める。

 自分がどうしたいのかなんて判らない。どうすべきかも判らない。地の民であること。ミズガルドの弟子であること。いろんなことが頭を過るが、今はただ、願いははっきりしていた。

(アグロア)

 人であるミズガルドとも仲良く、地の民である自分とも変わらず接してくれている。彼のあんな声は聞きたくない。彼に、あんな思いはさせたくない。その為の術は――どうしてだろうか、はっきりと理解していた――今、ミズガルドが握っている。

「それなのにこんな騒ぎか。風の村を襲って何になる」

「反乱だ。判るだろう?」

 ふっと、マイセルが鼻で笑った。襟元にある印章をもぎ取り、ミズガルドの足元に投げ捨てた。

「【国王の為の七人キングズ・セブン】? 私はあんな若造に忠誠を立てた覚えはない。和平など――前王が聞いたらどう思うか」

「もう聞くことはない。死人はな」

 ミズガルドが発した言葉に、マイセルの眼の色が変わる。

「なあ、ミズガルド。お前は忘れたわけじゃないだろう」

 不意に静かな声で呟くと、マイセルは一歩、こちらに歩を進めてきた。

「あの冬の日だ。俺たちの誕生日だった。母さんが作った料理を食べて寝床に入った。その夜中だったな。不意に大地が揺れた。無造作に街中の地面から木が生えた。建物は崩れ、悲鳴を上げた。橋もなにもかも崩れた。父さんと母さんは衝撃で川に落ちた。真冬だった。凍るほど冷たい水に流されて行ったな」

「やめろ」

「聞け!」

 叩きつけるようにマイセルが叫んだ。

「聞け。ミズガルド。風の民。地の民よ。いいか、地の民よ。これがお前らのやったことだ」

 怒りをたたえた黒い瞳が、視界いっぱいに広がるような錯覚に陥る。それでも――聞かずにはいられなかった。

「俺は逃げた。逃げる最中にミズガルドとは一度はぐれた。死んだと思ったよ。弟すら亡くしたとな。無我夢中で街を出るときに俺は見たんだ。街の外で手を繋ぎ、おぞましい目付きで睨んでいた地の民の集団をな。お前のその目と同じものでな」

 カチカチと歯が鳴る。音が耳障りで、トスティナはぐっと奥歯を噛んだ。込み上げてくる熱を無理やり嚥下する。

「判り合えるはずなどないんだ。民よ。――なあ、ミズガルド。その民につくのか? 俺よりも、その民たちを選ぶのか?」

「マイセル」

「それでも止めたいというなら――俺に魔法を使えばいい。民を守るために、人に狂気を向ければいいさ」

 言うなり、マイセルが身を翻した。強く大地を蹴り、飛び上がった。そのまま右手を一文字に薙ぐ――その瞬間、大地に炎の線が走った。

「やめろォ!」

「――水、風、大気!」

 凛とした声がした。瞬間的に、炎が消えた。ミズガルドだ。額に汗を浮かべている。

「ティナ」

「……は、はい」

「俺は確かに、地の民に家族を殺された」

「……せん……せ」

「だが、俺は君の家族を……殺した」

 搾り出すような声だ。何も言えずにトスティナはミズガルドをただ見つめた。

「俺は君がどうしたいのかも判らない未熟な師だ。君は俺を憎んでいい。でも、今、俺は君を守る。……君も、アグロアも、この村も。後でなら俺をどうしても構わない。だから、離れるな」



 光が弾け合う。風が吹き荒れる。幾重にも音が重なる。

 眼の前の攻防は、トスティナの理解の範疇を軽く凌駕していた。判るのはただ、マイセルとミズガルドが攻防を始めてしまったということだ。お互いに何かを呟いてはその度に光が弾けている。いつだったかミズガルドは、魔法がある程度使えるようになると、他人がどんな式を展開しているのかも判ってくると言っていたが、とてもじゃないが判りようもない。

 それを横目にアグロアが飛び上がった。

「ア、アグロア……!」

「でェじょうぶサァ、ティナ。オイラだって風の端くれだ。皆をあつめてくらァ!」

 言うなり、アグロアの姿が消えた。風が吹き抜けていく。

 銀色の草原は徐々に色付いていく。それは優しさではない――暴力的に、色付いていく。

 赤くなり、黒くなる。余波で傷ついていく大地を、家々を、ミズガルドは横目で見ては合間を縫って火を消していく。

 この二人の攻防が尋常じゃないことくらいはトスティナにも判った。判るからこそ、その合間を縫って消火までしているミズガルドの腕を理解せざるをえない。

(すごい……すごいんだ)

 ドレスの胸元を握り締める。ふと、背後で小さな泣き声が聞こえた。振り返り、トスティナは慌てて駆け寄っていた。

 そこにいたのは小さな男の子だった。風の民の子だろう――銀色の髪に藍色の瞳。容姿は少しアグロアに似ている。まだ五つにも達していないかもしれない。そんな子が泣いていた。しゃがみ込んで、視線を合わせる。

「大丈夫ですか?」

「おねえちゃ……」

 ひしっと抱きついてきた。そのまま大声でママ、ママ、と泣きじゃくり始めてしまう。

(あ……ああ――)

 小さな体を強く抱きしめた。そのまま、男の子が歩いてきたであろう方向を見やる。

 魔法師団だろか。その一部だと思えた。赤い制服が数人隊をなしている。なんとなく、理解した。マイセルを慕い、マイセルの考えに強調した者たちが王に反旗を翻したのだろう。これは、全身からの拒絶と主張だ。民と人とは判り合えない。我々は判り合わない。和平には納得しない。その、叫びだ。

 その気持ちが、全く判らないわけじゃない。自分だって怖い。師と手を触れることすら、安堵したり震えたりと忙しいぐらいに感情が制御できないのだ。それでも。と、トスティナは思った。

 それでも、こんなのは哀しいだけだ。

 火が揺れている。目の前で全てを燃やし尽くしていこうとしている。背後でも熱が上がる。ミズガルドもさすがに全てを消すのが難しくなってきたようだ。異臭が辺りを占めていき、膨れ上がる熱に肌がぴりぴりした。男の子抱きしめながら、景色を見つめ続ける。赤く燃える風の村。


(あ……か)


 どくっ――と心臓が大きな音を立てた。男の子を抱きしめて、トスティナは強く目を閉じた。頭が痛い。何か、何かわたしは知っている。

 赤い色。炎の色。あの夜の色が体中を駆け抜けていく。

(赤。赤は――ああ――)

 目を見開いた。知らずに涙が溢れていた。声もなく、トスティナは泣いていた。

(思い……だした)

 姉の言葉が蘇ってきた。そう。そうだ。赤は――


 火はいずこ

 地は絶えた

 水はまだある

 風はやまない


 ――古くからある伝承歌。その本当の意味。


 火はいずこ。

「ティナ!」

 耳元で叫び声が聞こえた。驚いて振り返ると同時に、全身を衝撃が襲った。弾かれるように吹き飛ぶ。男の子をお腹のあたりでかばうように倒れてから、トスティナはちかちかする目を無理やりこじ開けた。黒が見えた。瞬きをしてからもう一度目を凝らす。男の子は火がついたように泣いていたが、怪我はなさそうだ。

「離れるなと、言ったはずだ」

 黒い頭だった。呻くような声がした。血の気が引いていく。そうだ。いつの間にか師より離れていた。

「先生!」

「怪我はないか」

「わた、わたしは大丈夫です。でも」

 声が掠れる。自分を庇ったのだろう――それで師は、覆いかぶさってきたのだ。だとすれば、怪我は自分じゃない。多少ドレスは破れたが、怪我は全くない。怪我の心配をするべきは師のはずだ。

「なら、いい」

 低く平坦な声で呟いて師が身を起こす。その腕から赤い液体が滴ってきてトスティナは目を見開いた。

「せんせいっ!」

「騒ぐな。大したことはない」

 ふらりと立ち、ミズガルドがこちらに背を向けた。その背中すら、服が破れて傷ついた肌から血が滲んでいる。

「無様だな、ミズガルド」

「俺はいつでも無様だよ、マイセル」

 師の前。マイセルが嘲るような目をして立っていた。その瞳を見た瞬間、頭に血が昇っていた。

「――いいかげんにしてくださいっ!」

 叩きつけるように叫んで、立ち上がっていた。ミズガルドがぎょっとした顔で振り返ってきている。男の子も背後でひくっと泣き声を引っ込めるのが判った。その全てを無視してトスティナは破れたドレスを引きずって前に出た。マイセルの目が細まる。師の隣に並んでから、もう一度唇を濡らしてから、告げた。

「どうして、ご兄弟でここまでやるのですか」

「民は滅ぶ必要がある。その為なら、致し方ない」

「あ、なたは馬鹿です……っ!」

 喉が震えた。マイセルは何も答えない。

 それは知らないからだ。そう思うと、哀れみすら覚えた。トスティナは静かに続けた。

「民が滅ぶ必要があるのなら、貴方たちだって滅びなければいけないんですよ」

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