遠出をしましょう
その日から、トスティナとミズガルドの奇妙な生活は始まった。
朝はアグロアが起こしに来た。水場はまとめて家の外にあったので、顔は外で洗う。トスティナ自身、朝は早いほうだと思っていたが、ミズガルドも同じらしい。まだ空気が朝の清涼感を保つ頃にきちんと起きてきて、てきぱきと食事の準備を一緒にやってくれた。
朝食は毎朝同じ献立だった。焼いたパンと、ベーコンと卵。それから、あたたかい紅茶だ。食料は何日かに一度、まとめて配達を頼んでいるとミズガルドは言っていた。紅茶はミズガルドが好きなようで、何種類も葉が並べられていた。その日の気分で選ぶらしい。
朝食を済ますと、ミズガルドは仕事部屋にこもり仕事をしている。薬の調合を生業としているとのことだった。魔法使いはこういったことも、得手としなければならないと言われた。
その間、トスティナは部屋の掃除をしたり、洗濯をしたりと家事を一手に引き受けた。実のところ、カーラに連れて来られた日、家に置いてもらう為の対価を稼ぐために何日かは外に出て仕事がしたいと申し出たのだが、それは頑なに拒否された。金銭的なものは一切受け取るつもりはない。そういった身の回りの世話も含めて弟子をとるということだ。と、何度も言われた。結局、それ以降言葉に出すとミズガルドが不機嫌になるので、トスティナは甘えることにした。その代わり――と言えるのかどうかは判らないが、家事を担うことにした。これには、ミズガルドも反対はしなかった。
洗濯物はよく乾いた。アグロアが戯れに風を吹かせてくれるのだ。ぱたぱたと白い森の中ではためく洗濯物が、トスティナは好きだった。
「アグロアはすごいですね。風を吹かせるのが上手です」
「んー、お嬢とっきどきズレてンなァ」
「そうですか?」
「オイラ風だぜェ? オイラが気持ちよッくなればァ、風はどこにでも吹くさァ」
「そっか。それも魔法ですか?」
「どうかねェ。オイラたち風の民は、あんま考えなくても風なら吹くからなァ」
お昼になると、ミズガルドがのそのそと部屋から出てくるので一緒に簡単な昼食をとった。
午後になると、ようやく講義の時間だった。とはいえ、最初で懲りたのか、理論的なことはほとんどやらなかった。森へ出て薬草を調べたり、式を描いては練習したりの繰り返しだった。その時々で、休みながらトスティナはミズガルドに色々な質問をした。
「先生はアグロアと仲良しですね。いつから仲良しなんですか?」
「……仲良し、かどうかは判らんが、そうだな。ここに住み始めてからはよく顔を出す」
「いつぐらいからここに住み始めたんですか?」
「二年ほど前だ。その前は、しばらくあちこちを放浪していた」
相変わらずの渋面だったが、ほとんどの場合きちんと答えを返してくれた。それが嬉しくて、トスティナはまた質問を重ねていった。
質問し、学び、知る。
そこに楽しみを見出し始めた頃、気づくと一月が過ぎようとしていた。
◇
「トスティナ。今日は少し遠出をしよう」
昼を終えたミズガルドがそう言ったとき、トスティナは最後の果実を頬張ったところだった。このまま咀嚼を続けていいのかどうか判らず、そのまま固まってしまう。
「……食え。いいから」
促されたので頷いた。酸味の強いスルラの実を咀嚼し、嚥下する。
「えと、遠出ですか?」
「そうだ。まぁ、言うほど遠くはないんだが、君、あまりこの家から離れたことがないだろう」
静かに頷く。「なら、行こう」とミズガルドが決めたようだったので、食器を片付けて、慌てて準備をした。――といっても、持つものは水筒くらいなのだが。
ミズガルドは相変わらず、この季節には暑そうな長衣のまま、いつもの本を携えていた。
ミズガルドとアグロアとトスティナと。三人でゆっくりと白い森を進んでいく。
「ここって、昔は緑だったっておじいちゃんが言ってました。先生とアグロアはご存知ですか?」
「オイラはあーんま覚えてねェけど、ま、知ってはいるかなァ」
「先生は?」
ふ、と一瞬、ミズガルドの歩が遅くなった。が、問いかける間もなく、また同じ速さで歩き始める。
「綺麗だったのは覚えている」
硬い声に、トスティナは僅かに首を傾げた。ミズガルドの横顔を見上げるが、いつもどおりの眉間の皺では、考えのひとつも読めなかった。
しばらくは歩いた。しかし、あの日のようにならないようにと気をつけてくれているのか、休憩は多く挟んでくれた。
やがて、森の中にぽっかりと空いた空間に出た。
「わ……」
思わずトスティナの唇から声が漏れた。
木々の合間に広がった草原は、青々とした夏草を湛えた美しい場所だった。頭上には白い葉が、しかし足もとには深い緑が鮮やかな絨毯が広がっている。木漏れ日を受けて、輝いて見えた。
何よりトスティナが驚いたのは、そこにちいさな湖水があったからだった。
川のような水脈がないところを見ると、湧き水なのだろう。ミズガルドを見上げると、ちいさな頷きが返って来た。ここだ、ということだ。嬉しくなって、湖水の傍に駆け寄る。それほど大きくはないが、透明な水はたっぷりとあった。袖をまくり、手を浸す。
「つめたい」
熱を奪い取っていく涼やかさに、トスティナは頬を緩めた。
「先生。素敵なところですね」
「……そう、だな」
「? どうかしたんですか?」
「いや」
短く首を左右に振り、ミズガルドは傍の木陰に腰を下ろした。本を、手近な岩の上に置く。
「ここなら、少々派手な失敗をしても問題ないだろう。水の魔法も練習が出来る。俺はここで見ているから、存分に試せばいい」
「お。練習かィ? ンじゃァ、オイラは暴走お嬢の被害受ける前にどッか行っておくぜィ。へへッ」
「あっ、アグロアひど……」
言い切る前に、風の少年は姿を消してしまった。ぷ、と頬を膨らませていたトスティナの耳に、微かに抑えた笑い声が聞こえてきた。
「……先生、もしかして笑ってますか……?」
「……いや。その。すまない。気にしないでくれ」
俯いて右手で口元を覆うミズガルドに、ぱたぱたと左手を振られ、トスティナは釈然としないまま師を見つめた。
が、すぐに取り直して、笑顔を浮かべる。
「じゃ、わたし、練習しますっ」
暮らし始めて一月。
初めて、ミズガルドの笑い声を聞けたのが何だかとても嬉しかったのだ。
◇
魔法は、一式二式、と式数があがるにつれて難しくなっていく。ひとつの式――図案だけで出来るのが一式。その上に別の図案を重ねるのが二式、となる。トスティナはまだ基礎の一式も満足に出来ないが、ミズガルドにどの程度出来るようになるものかと訊ねた時に、無造作に七式、と返って来て絶句した。
そうなるまでに果たしてどの程度掛かるのか。想像も出来なかったが、まずは基礎と言われた一式からだ。トスティナは魔法式辞典を凝視しながら、地面にひとつ、ひとつ、と描いていく。
まず覚えろ、と言われたのは基礎の一式が五つだ。明かりを灯すもの。火を熾すもの。水をもたらすもの。風を吹かせるもの。そして、草を生やすもの。
どれもまだひとつとして、きちんと出来はしない。何とか形にしたくて、トスティナは繰り返し繰り返し描き続けた。描いて、唱え、失敗する。何度か繰り返したとき――
「……あれ?」
ふと、トスティナは気づいた。木陰の傍で、ミズガルドが座ったまま、うっすらと寝息を立てている。
そっと、足音を忍ばせて近づいてみた。覗き込む。俯いているのでよく見えなかったが、前髪の隙間から見えたのは、しっかりと閉じられた目蓋だった。
(こうしていれば、眉間の皺ないんですねぇ)
こっそり胸のうちだけで呟く。ほんの少し、眺めていたい気もしたが、起こしては可哀そうだと思って距離をとった。数日に一度、朝方ミズガルドは悪夢でも見るのか呻いている。今朝もそうだった。本人は気づいていないようだが、悪夢が疲労を残していくことをトスティナはよく知っていた。だからきっと、うたた寝してしまっているのだろう。
もう少ししてから起こそう。それまで、自分は自分のやるべき事をしておけばいい。
頷いたトスティナは、少し考えてから場所を移すことにした。自分の下手な魔法で大きい音を立てでもしては、師の眠りを妨げてしまうかもしれないと思ったのだ。
◇
湖水から、ほんの少し先。広場、とまでは行かないが木々の合間を見つけてトスティナはそこに決めた。ここまでなら、まだ視界に湖水も見えるし、迷わずに帰れるだろうと判断したのも要因のひとつだ。
顔を上げる。
ぬけるように青い空に、薄い雲がさらさらと流れていた。チチチ……と鳥の鳴く声がする。目を細めて風を感じる。綺麗だ。胸いっぱいに森の空気を吸い込み、トスティナは手にした木の枝を地面に突き立てた。
本来魔法に、式を描くという手順は不要だ。ただ、描いてそれを見たほうが集中しやすいので初心者は描くのが基本だと教わった。
(よし……草の魔法にしましょう)
一式の中でも少々風変わりだ、とミズガルドは言っていたが、魔法書の中でそれを見つけたときに何だかとても心が惹かれた。トスティナは村にいたときも、家の周りを花で埋め尽くすほど、植物は好きだった。
(そうだ。魔法書を見ないで描いてみようかな……?)
ふと思いつき、魔法書に伸びていた手を引っ込めた。何度も何度も描いたので、さすがに覚えているはずだ。決心して、何も見ずに描き出す。なんとか、記憶の中にある式と同じものが描けたあたりで、トスティナは大きく深呼吸を始めた。息を整え、意識を研ぎ澄ましていく。
過ぎていく風の肌触り。降り注ぐ陽射し。揺れる影。耳をぬらす葉擦れの音。草いきれ。微かに流れてくる水の匂い。身を包む暑い空気。それら。世界を象るすべてを感じていく。すべてを受け入れること。すべての理を理解し受け入れて始めて、世界は自分の理を受け入れてくれる。ミズガルドが何度も言っていたことだ。
ゆっくり、ゆっくり深呼吸を繰り返していくと、やがて聞こえていた音も感じていたすべても判らなくなっていく。ただ、地面に描いた式だけが大きくなっていくように見える。
そして、トスティナはゆっくり唇を開く。
「萌える草」
刹那――
ドンッ! と派手な音が集中を吹き飛ばした。目を見張るトスティナの前、式を描いた地面から巨大な樹木が生えてきた。鮮やかな緑の葉をつけた樹木が、青空へ向かって伸びていく。
「うえ……ええ」
声にならない声が漏れた。こういう時、式を解けばいい――ようは意識の中から式を消せばいい――と教わってはいるが、どうしてかいつも上手く解けない。それどころか、まるで脳裏に焼きついてしまったかのように、地面に描いた式が強く印象に残る。
「うわ」
(……へ?)
耳慣れない声が聞こえた気がして、トスティナは目を瞬いた。ただ、それ以上は動けなかった。ずずず、と振動する地面と伸びていく木の幹のおかげで、視線が地面に固定されたままでも、樹木の成長が止まっていないのが判ったからだ。
(ととととめなきゃでとめるにはとめて……ええええと)
すっかり混乱したトスティナの肩が、ふいに、ぐっ――と後ろに引かれた。同時に、誰かの足がざっと乱暴に式を消した。
(あ)
その瞬間、脳裏に焼きついていた式も同じように消され、それはつまり、式の解除を意味していた。ぴたり、と揺れが収まる。
ふはぁ、とトスティナは大きく息を吐いた。そのときになって、自分が今まで無意識に呼吸を止めていたことに気づく。心臓がどくどくどく、と早打っていた。
振り返る。
「先生ごめんなさ――」
言いかけて、言葉を呑んだ。トスティナの後ろ。肩に手をかけて立っていたのは思い描いていた師ではなかった。
陽光に照らされ輝く金の髪。水色の緑柱石のように、鮮やかな蒼緑の瞳。すっと通った鼻梁も、柔らかに笑みを象る淡色の唇も、驚くほど整った顔立ちの青年だった。身長はミズガルドと同じくらいだろうが、受ける印象はずいぶんと違った。黒髪に黒い長衣のミズガルドが夜ならば、彼は明らかに昼だろう。衣装も見るからに高級そうな布地に、細やかな刺繍が刻まれている。さりげなく首から下がっている宝石飾りも、トスティナには一生触れることも叶わないだろうと思わせるほどの輝きを閉じ込めていた。
「お怪我はないかい? お姫様」
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