第二章:時代の歯車

呪詛

 少年は走っていた。

 疲労が確実に溜まっていく足は重くなる一方で、前へ進んでいる確証すら持てなくなる。もつれ、何度となく転びかけながら、それでもただ走っていた。

 悲鳴が背後から、まるで追いすがるように聞こえてきて、それが怖くて、それから逃げるように、彼は走っていた。

 時折、思い出したかのように地面が突き上げられた。踏み出す足の先、夏草がぬるりと溶けているかのような感触を伝えてくる。地面が突き上げられ、あるいは横に揺さぶられ、その度に地面に手を付き身を屈めて何とか耐えた。幾度か。数えることも出来なくなった頃、林を抜けた。

 ――ミズガルド!

 聞きなれた声。顔を上げた。見慣れた顔がそこにあり、彼は安堵の息を吐いた。駆け寄る。

 ――無事だったか。

 見慣れた顔の少年が、強張った顔でこちらを見つめてくる。その表情がふいにぐにゃりと闇に溶けたバターのように歪んだ。それはすぐに消え、先ほどより幾分大人びた、けれどまごうことなき同じ少年の顔がそこに浮かぶ。しかし、その表情は強張りはしておらず、多分に嘲りを含んでいた。

 そして、彼は気づいた。

(夢だ)

 いつもの、夢だ。理解する。そうであれば、この先もいつもどおりの展開だろう。考えるまでもなく、夢はいつもどおり進んでいく。

 嘲りを浮かべたその人物は、伸ばしたこちらの手を無造作に払いのける。

 ――哀れだな、ミズガルド。

 ――五月蝿うるさい。

 ――もういない。誰もいない。父も母もいない。誰が殺した、誰のせいで死んだ、何故そこから逃げる、過去から逃げる、逃げて何になる哀れな自分を自分で慰めるだけの時を歩むのを選ぶか――

 堰を切ったように溢れ出す、呪詛のような言葉。強固な蔦のように自らを絡め縛り、動けなくしてきた声。払いのけたくても、逃れられない。だから彼はいつも夢の中で、悲鳴を上げる。

 ――やめろ!


「――せんせい!」


 覚醒は急速だった。闇の中に、金色の光が割り込んでくる。それが、覗き込んでいる少女の長い髪だと理解して、ミズガルドは腹腔から短く息を吐き出した。寝汗がひやりと首筋を冷やす。

「先生、大丈夫ですか?」

 先生。

 呼ばれなれない言葉に思わず軽く身じろぎした。見下ろしてくる少女は、宝石のような緑玉の瞳を、不安げに揺らめかせている。一繋ぎの服は、年頃の少女にしてはレースやフリルといった飾り気もなく、ただただ麻の味気のないものだ。純朴な少女は、無言のまま見上げるこちらに不安を抱いたのか、もう一度「先生?」と呼びかけてきた。

「入ってきたのか。鍵は閉めていたはずだが」

「え、あ。ごめんなさい! あの」

「どうやって入った?」

「あ……アグロアが開けてくれました」

「へっへェ、可愛いお嬢の頼みごとは、オイラ断れねェンだなァ」

 声の方向に首を向けると、いつもの白髪の風が、いつもの調子で浮かんでいた。舌打ちし、身を起こす。

「だだだ、大丈夫ですか」

「何がだ。君は落ち着きがないな」

「だ、だって、うなされてました」

 そう言われ、ミズガルドは眉を顰めた。

「うなされていた。俺がか」

「です」

 こくん、と無造作に頷かれ、ミズガルドは髪を掻き揚げた。声に出ていたということなのだろう。それを心配して入ってきたというのなら、咎めようがない。

「判った。悪かった。何でもない」

「大丈夫ですか?」

「大丈夫だ。……出て行ってくれないか。着替えたい」

 告げると、少女ははっと顔を強張らせる。頬を紅潮させながら、一度ぺこんとお辞儀をして慌てた様子でアグロアと共に出て行った。見送って、ようやく安堵する。

 寝台から抜け出し、板張りの床へと裸足のまま降り立つ。窓辺で、にゃあ、と声がした。若干立て付けの悪い窓を開けると、張り出た一階の屋根に黒猫がいた。最近よくやって来る一匹だ。白い森と降り注ぐ朝日の中で、際立って艶やかな黒い毛並みに目を細める。

「おはよう」

 にゃ、と短く鳴いて、猫が部屋に入ってきた。そのまま、ミズガルドは衣装を着替える。寝間着を脱ぎ、いつもの長衣に袖を通す。黒く重い雰囲気の長衣は、いいかげんやめたら? と何度かカーラに言われている。が、不自由もないのでこのままだった。

 鏡代わりに、窓に自分の姿を映す。眠そうな、不機嫌そうな男の顔だった。襟元にあの頃のような印章は見当たらない。あれは、自分が引いた後の空席を埋めた、カーラの襟で今は光っている。

 宮廷魔法師ミズガルド。かつては、そう呼ばれた。もうずいぶん昔のことだ。歴代最年少で宮廷魔法師に選ばれ、一時期は騒がれもした。しかし、過去のことでしかない。

 自問する。

 あの印章すら手放し、時折舞い込む薬の仕事程度で生計を立てている自分に、いまさら魔法使いを名乗る資格はあるのか。あまつさえ、弟子をとるなどと、暴挙が過ぎるのではないか。

 そうは思っても、結局のところこの事態は変えられはしないだろう。嘆息を飲み込み、ミズガルドは寝室をあとにした。

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