第17話

 色々なことがあったので、早朝帰宅したエドガーはぐっすりと眠った。

 またしても妹に揺り起こされたのは、午後2時過ぎ。昨日よりは多少眠れたから良しとしよう。目を擦りながら起き上がったエドガーの前に妹とヒューが立っていた。

「おはよう、お兄ちゃん! 今日のヒューのお土産はカスタードクリームがたっぷりかかったトライフルよ!」

 満面の笑顔の妹の横でヒューは厳かに告げた。

「おはよう、エド、今日はこれから3カ所ばかり行きたい場所がある――」


 まず最初の一ヶ所、それはグッドヴィル屋敷だった。

 屋敷はいつにもまして静まり返っていた。門の前にキース・ビー警部が配備した警護の警官が立っている。ヒューとエドガーは玄関から入らず、左脇の小道から庭へ向かう。

 ボーダー花壇の前に膝を折ってエメットが花殻はながらを摘み取っているのが見えた。

「エメットさん。もうお加減はよろしいんですか?」

「まぁ、メッセンジャーボーイの皆様! ようこそ」

 嬉しそうに立ち上がる。一緒に腰の鍵束もシャラシャラと優しく鳴った。

此度このたびは取り乱してお見苦しい振る舞いをしてしまい、皆様にもご心配をおかけして申し訳ありませんでした。私はもう大丈夫です」

「動転して当然ですよ。怖い思いをするのは書斎での侵入事件に続きこれで2度めですものね」

 まずヒューが、続いてエドガーが慰める。

「エメットさんは本当にしっかりしています。普通の女の人だったらこんなに連続して死体を見たら半年は寝込んでしまいますよ」

「いえ、私はもっともっと強くならなければなりません。お坊ちゃま方を守るために」

 ここでエメットは申し訳なさそうに声を低くした。

「お坊ちゃまと言えば、せっかくいらしていただいたのに、今、リチャード様もジョージ様もお昼寝なさっているんです」

「二人とも疲れていると思います。どうぞ、ゆっくり休ませてやってください。僕たちはまた来ますから」 

 そう言えば、昨日会ったジョイスが『兄様はお葬式のことでモルガンと難しい話をしている』と言っていたのをヒューは思い出した。

「何より、リチャードは嫡男だから、大変でしょう?」

「そうなんです。でも、アンソニー様のご葬儀に関する細かい手続きや差配は執事のモルガンがやってくれることになりました。ケネスも」

 エメットは両手を頬に当てる。

「ケネスは私のせいで警察に叱られてしまいました。私があんまり怖がったので、警察が来るまでそのままにしておくべきアンソニー様のご遺体を勝手に池から引き上げてしまったんです」

「キース・ビー警部に聞きました。でも、警部は褒めていましたよ。流石、元船乗りだって。遺骸を片手で引き上げたって本当ですか?」

「そうなんです。落ち着いて片手だけで丁重にそれを行いました。そんなことをさせてしまい無暗に怖がって取り乱した自分が恥ずかしいです。それなのにケネスはその後で親切にも私のためにフランス風スープまで作ってくれました。あの、どうかしました?」

 じっと自分を見つめているヒューを見つめ返してエメットが訊いた。瑪瑙メノウのような瞳が揺れる。池よりも深くて吸い込まれそうだ。しかも――

(なんだ、この輝き。染み渡る哀しみと、激しい怒り。怒り? まさかな……)

 ヒューは目を逸らした。

「リチャードとジョイスによろしくお伝えください。では」

 身を翻したヒューを驚いて追いかけるエドガー。

「どうしたのさ、ヒュー? あのままもっとエメットさんに訊きたいことがあったんじゃないのかい?」

「もういい。次に行くぞ、タルボット薬屋だ」

 この言葉にまたもや吃驚するエドガー。

「えー、嘘だろ? あそこは昨日行ったばかりだろ? しかも君、あんなに嫌がっていたじゃないか。2度と近寄りたくないってカンジだったぜ」

「長居はしない。唯どうしてもあいつに確認したいことが出来たのさ」


 〝薬皿をくわえた蛇〟と言う、いかにもそれらしい看板のタルボット薬局――

 おまけにこの看板には謎めいた銀の鎖が巻き付けてあるのだ。その下の重い扉を押し開くとちょうどアシュレーは接客中だった。二人はカウンターの反対側、壁全体が薬の抽斗になっているその前で暫く待っていた。

「ありがとうございました、マダム。またのお越しをお待ちしています」

 丁重にお客を送りだした後、二人を振り返って店主の青年はニヤリとした。

「まさか、そちら様・・・・も、こんなに早くご来店いただけるとは!」

 開口一番、ヒューは訊いた。

「黒猫は何処だ?」

「さっき外へ出てったよ。日課の町内巡回中さ」

 見た目にも元気溌剌としてヒュー、

「それは良かった! 聞いてくれ、興味深い情報を仕入れたんだ。あんたの意見が聞きたい。簡潔に答えてほしい。『ある男が死体を水中から片手で引き上げた』この男の職業と出身は?」

「職業は船乗り。出身は低地地帯ローランド

 パチン、ヒューが指を鳴らす。

「あんたもそう思う?」

「それ以外ないだろうね」

「ありがとう、じゃ、これで」

 ヒューは薬屋から飛び出した。

「なんなんだよ? 君たち、一体何について話していたのさ? 僕には全然チンプンカンプンだ」

「説明は後だ。次のご婦人が詳しく教えてくれるかもな。行くぞ!」

「行くって、今度は何処へ?」

「三番目の場所、リジー・アッシャーの家だ」

「リジー・アッシャーって誰? あ!」

 ヒューの後を追って走りながらエドガーは思い出した。

「それ、エメットさんを推薦した遠縁の、グッドヴィル屋敷の前のメイド?」


「チャリングクロスの交差点から西へ伸びるザ・マル通り……トラファルガースクエアから西へ向かうペル・メル通り……それに挟まれた一画……ミュール街と警部は言ってたから、この辺のはずだ」

 同郷の同じ苗字の人と結婚したリジー・アッシャー。

 住所探しはメッセンジャーボーイになって獲得した技術のひとつだ。いかにも元はうまやだった一帯らしく凸凹した石畳が続いている道沿いでエドガーが耳と鼻をヒクつかせる。美味しそうなシチューと赤ん坊の泣き声――

「見つけた、こっちだ、ヒュー!」

 果たして棟割の集合住宅の壁に〈アッシャー〉と表札プレートが下げられていた。

「アッシャーさんのお宅ですか?」

「あら、家を間違えてるわ。ウチはテレグラフ・エージェンシーとは契約していないわよ?」

 赤ん坊を抱いた若妻がドアを開けて言う。ゆったり結い上げた栗色の髪、快活そうなハシバミ色の瞳。一目でヒューもエドガーも思った。こんな奥さんが待つ家に毎晩返って来る男は何と幸せ者だろう!

「メッセージの配達ではありません。僕たち、お話を伺いたくて。グッドヴィル屋敷からやって来ました――」

 言い終わらないうちに大きく扉は開かれた。

「どうぞ入って!」


「いきなりの訪問をお許しください」

 帽子を取って台所のテーブルに座った二人。

 リジーは抱いていた赤ん坊を窓際の揺り籠に寝かせると美味しいお茶を淹れてくれた。 

 流石、由緒ある貴族の屋敷に長年勤めたメイドだけのことはある。お茶は物凄く美味しかった。流行の色鮮やかな〈チャペルの窓クッキー〉の皿を置いて、漸く腰を下ろしたリジー・アッシャー。

「こちらこそ、嬉しいわ。だってお屋敷のこと、とても気になっていたの。毎日、夫が買って帰る新聞を読んでいるわ。リチャード坊ちゃまが襲われてその襲撃者が死んだり、ご親戚の逗留客がまたお庭の池でお亡くなりになられた……」

 チラっと揺り籠を振り返る。

「心配で居てもたってもいられなかったんだけど、この通り――赤ちゃんがいるので私は中々外へ出られないのよ」

 一呼吸置いて、元メイドは訊いた。

「アン・エメットは元気でしょうか?」

 ちょっと声が震えている。後任に自ら推薦した、しかも同郷の身内とあっては心配するのは当然のことだ。安心させるべくヒューとエドガーが声を揃える。

「エメットさんはお元気です」

「凄く優しくて気丈で、素敵な方ですね」

「良かった! その、私には責任があるから……」

「実は、僕たちが今日やって来たのは、エメットさんに頼まれたのではなくて、僕たちの勝手な意思からです。僕たちはメッセージを届けたことが縁で、リチャードやジョイスと仲良くなりました」

 元メイドは現メイドと同じように喜びの声を上げた。

「ああ、なんて素晴らしい! 坊ちゃまたちにお友達が出来たなんて! 特にリチャード様は同年齢のあなた方と知り合いになれてどんなに嬉しくてお心強いことでしょう。どうぞこれからも坊ちゃま方のことをよろしくお願いいたします。ぜひお力になってあげてください」

「僕たちはそのつもりです」

 ヒューは決然とした声で言った。

「僕たちにできることなら、なんでもしようと思っています。だから、こちらへ伺ったんです」

 間髪入れずに申し出た。

「お屋敷について、あなたがご存知のことをぜひ教えてください。現在あそこで働いておられる方々は、ご多忙な上に、直接話を聞き辛いんです」

 短い沈黙。リジーは胸に下げていたロザリオをギュッと握ると顔を上げた。

「わかりました。坊ちゃま方と、エメットを守るために私の知っていることを全てお話しします」


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