第24話
二人と別れてから一人、ビル階段を上って、初がいるバーへと目指す。バーなんて生まれてこの方行ったことがない。
高校生である身分で、そんな場所へ出入りしてはいけないという分別は付いている。
もし、学校の誰かに見られたら大問題だろう。風紀委員副委員長が新宿二丁目のゲイバーに通っているなんて、娯楽を求めている高校生の格好の餌になってしまう。
同性愛者というだけで、あの狭い世界ではつるし上げられ、晒し者にされてしまう。だからこそ打ち明けられずに、こうして二丁目で自分の気持ちが分かる人がいる所へ来たくなってしまう初の気持ちは、何となくだが分かる気がした。
少し重たい扉を開けば、薄暗い店内が視界に広がる。スタンディングで立っている人もいれば、少し高めな位置にある椅子に腰を掛けている男性もいた。
思ったよりも落ち着いている雰囲気で、普通のバーと違うのは客層だけのように思えた。
「お兄さんこんばんは。うちはキャッシュオンだから、先に飲み物頼んでね」
メニューを渡されて、真っ先に目に入ったグレープフルーツジュースを注文する。
「お兄さん下戸?結構飲めそうなのにね」
はい、とドリンクを渡されて受け取るが、内心どこか複雑だった。先ほど紅葉も、岳のことを老け顔だと言っていた。あれは場を和ますためのジョークかと思っていたが、もしかしたらあながち間違っていないのかもしれない。
ドリンクを片手に、店内をぐるりと見渡す。楽し気に談笑する人もいれば、隅でスマートフォンを弄っている人もいる。
「あ……」
いた。壁にもたれ掛かって、一人ジョッキを煽っている。また酒を飲んでいるのだ。けれど、あまり酔っている様子は見受けられず、まるでジュースを飲むかのようなハイペースさだった。
かなりお酒は強いのだろうか。だとすれば、あの晩駅でうずくまっていた彼は、一体どれほど飲んでいたのだろう。
高校生が泥酔するまで飲むなんて、ただ事ではない。よく、大人は飲酒をしたことばかりを咎めるが、どうしてそこまで酒を飲んでいるかにもちゃんと向き合ってあげるべきなのだ。
ただ、大人ぶって飲酒をしているのなら、若気の至りとして叱ることができるが、酒を飲まないと平常心を保てないほど心が傷ついている可能性だってある。
その場合、ただ叱りつけるだけでは、絶対にその子供は改心しない。
受けた傷を癒す方法が酒なのであれば、その傷を癒してあげない限り、根本的な解決にはならないのだ。
「玉那覇さん」
「え、は?おまっ……相川?」
声を掛ければ、驚いたように初は飲んでいた酒を詰まらせた。
お互い、紅葉を介して名前と顔は認知しているが、ちゃんと向き合って話すのは初めてだ。口を開閉して言葉を詰まらせている初に対して、シッと口元に人差し指をあてる仕草を見せた。
「静かに、身分がバレるとまずいのはお互い様ですよね」
「まあ、うん……」
初の隣に立って、同じように壁にもたれ掛かる。ここからは店内の様子が一望出来て、何となく、彼にとっては特等席のような場所なのだと思った。
どう切り出そうかと考えていれば、意外なことに先に声を掛けてきたのは彼の方だった。
「そういえば、この前ありがとうな。うちまで運んでくれたって、めいから聞いた」
「お気になさらないでください……あの、同居人の方、心配していますよ。帰ってあげないんですか」
「……めいに会ったの?」
「すごく心配そうにしていました。自分が余計なことを言ったからだって」
ここに来るまでの途中、紅葉の初に対する想いは聞かされていた。
友達でも、恋人でも家族でもないけれど、心の底から大切な存在。そんな風に思ってくれる存在がいたから、きっと二人はギリギリのところで踏ん張ることができていたのだ。
「……本当、めいは馬鹿だな。俺みたいなの心配して」
「俺みたいなのでも、鈴木さんにとっては掛け替えのない大切な存在だったんですよ。二人で支え合ってきたんでしょう」
「……相川、どこまで知ってんの」
「大体のことは聞きました」
その言葉を聞くや否や、初は一気にグラスを傾けて中身を空にしてしまった。彼の体内に消えていくアルコールたちを、何とも言えない感情で見つめる。
「……そっか」
「蛙の子は蛙って、嫌な言葉だと思うんですよ。勝手に決めつけるなよって思うんですけど、側から見たら結局はそう見えるのかなって」
「お前から見たら、俺らはそうだって言いたいわけ?普通側の人間からすれば、DQNの子はDQNだって」
「僕も、どちらかというとあなた方側の人間です。家庭環境で言えば、どんぐりの背比べですよ」
正直に告げれば、意外そうに「まじか」と初が呟いた。きっと、彼も紅葉と同じように岳は変哲もない家庭の子供だと思っていたのだ。
彼らだけではなく、多くの人がそう思っている。真面目でがり勉の相川岳は、学習環境の整った富裕層生まれなのだろうと。
しかし、実際はそんなことはない。シングルマザーの家庭は決して裕福とは言い難く、おまけに家に帰ればヒステリックな母親が待っている。
そんな家で勉強ができるはずもなく、岳は高校受験の時だっていつも図書室に缶詰めになっていた。
夏期講習だって、岳がアルバイトで稼いだお金で通っているのだ。
「……はじめてあなた方を見た時、すごくショックだったんですよ。あなた方みたいにグレたくないから必死に勉強して良い高校に入ったら、グレた典型みたいなあなた方がいて」
「お前、結構言うな」
「なんでこんな人たちがうちの高校に入れたんだろうって、ずっと不思議だったんですけど、簡単なことでした。……中学時代にちゃんと、勉強したんですよね」
「……それは」
「自分の運命に、抗おうとしたんじゃないんですか。学歴を持てば何かが変わるかもしれないって、幼心に悟っていたんじゃないんですか」
ちらりと初の様子を見やるが、俯いてしまっているためその表情は分からない。それでも、何かを感じ取って欲しくて、続けて言葉を紡いだ。
「周囲から偏見の目で見られて、自己肯定感が低くなってしまう気持ちも、理不尽な社会に対して反抗したくなってしまう気持ちも……少なくとも、他の人よりは理解できているつもりです。僕も周囲の人に相談しても誰も助けてくれなかったから」
「お前が……?」
「信じられませんか?」
「だって、お前凄い奴じゃん。風紀委員やって、勉強もできるんだろ。それなのに……」
「はい、家庭環境は最悪ですよ……玉那覇さん、親ガチャって言葉知ってますか?」
不思議そうに、初は「親ガチャ?」と言葉を復唱した。聞き馴染みのない言葉だが、初めて聞いた時、岳はあまりの皮肉に笑ってしまったのだ。
「子どもは親を選べないから、どの家に生まれるかはガチャガチャと同じだっていう皮肉から生まれた言葉だそうです。僕らは、間違いなくハズレを引いた子供ですよね」
「まあ、当たりではないよな」
「RPGでいうと、スタートからマイナスなんです。不利すぎてやる気もなくなりますよね」
ゲームで例えてやれば、初が少しだけ笑っているのが分かった。
きっと、同じ境遇の同年代でなければ、この皮肉を聞いて笑うことはないのだろう。
彩葉あたりに言えば、心配そうに同情する姿が目に見えている。
「マイナスからのスタートなのに、リセマラもセーブも効かないんです。どんな無理ゲーだよって、世の中を恨みたくなる。けど……これだけは、覚えておいて欲しいんです」
初の方へ向き直り、真剣な声色で語り掛ける。恐る恐るあげた彼の顔は、どこか不安な色が滲んでいるように見えた。
どうすればいいのか分からずに困っている子供のように、虚ろな瞳をしている。
誰も頼る大人がいない中で、何が正解か分からない中でもがいていたのだ。
「子どもは親の所有物ではないんですから、おかしいと思ったら反抗していいんです。声を上げて、自分の意見を主張して、あの人たちと同じ道を歩む必要だってない。あの人たちのせいにして逃げることは簡単だけど、どうかこれは自分の人生であることを忘れないで」
「俺の人生……?」
「あの人たちと同じレールを辿った先に何があるのか、知っているでしょう。自分の道は自分で決めるんです、考えることを放棄しないで。僕らの代で、この連鎖を断ち切ってやるくらいの気持ちでいましょうよ」
「連鎖ってなに」
「貧困の連鎖です。少なくとも、僕の母親は貧しい育ちでした。そして、それは今も続いています」
貧困家庭の子供は低所得を理由に、学習機会を逃すことが多い。
学習塾などから、学校の学費と、勉強をするにもお金は掛かる。
最近は高校の学費無償化が行われたが、それでも制服や修学旅行費などいろいろと費用はかさむのだ。
習い事の格差に、進学の格差。そして、所得の格差。貧困家庭はそのスパイラルから逃れることが酷く難しいと言われている。
「蛙の子だって、なんにでもなれるんです。どうか……玉那覇さんを大切に思ってくれている人がいることを、忘れないで上げてください。その人を悲しませて……もし失うことになったら、きっといつか後悔するから」
脳裏に浮かんだのは、鈴木紅葉の心配そうな表情だった。邪な感情を抜きに、あんなにも大切に思ってくれる人なんて中々いないだろう。
「お願いします」
未だ彷徨っている瞳をジッと見つめれば、初の瞳とようやく焦点があったことに気づいた。
いまだ少し不安そうだけど、そこに一本芯が通っているのが分かる。
「俺の名前さ……」
「はい」
「お袋、出産直前まで決めてなかったらしくて。初産頑張ってねって看護師に言われたから、初にしたらしい」
黙って、彼の言葉に耳を傾ける。その声はどこか震えていて、こみ上げている感情を抑え込んでいるのが分かった。
本当はずっと、彼も誰かに助けて欲しかったのだ。
「最初聞いた時、安直すぎるだろって……馬鹿にしてたんだけど、やっぱ大嫌いになれなかった。大好きにはなれないけど、大嫌いにもなれなかった。けど……あんな風にはなりたくないって、思うよ」
その言葉が、初の真意であるように感じた。大嫌いになるほどひどい親でもなく、かといって大好きだと胸を張って言えるほど素敵な親でもない。
上手く飴と鞭を使い分けられて、彼自身、自分の気持ちがよく分からずに、ずっと戸惑い続けてきたのだ。
「俺……まだ、間に合うかな」
「もちろん」
力強く頷けば、ほっとしたように気抜けしているのが分かる。
幼い時から色々なものを見せられて、周囲との違いに自分は普通にはなれないのだと思ってしまう気持ちは痛い程分かる。
だけど、その気持ちに囚われていては前に進めな
い。
自分の環境を言い訳にする癖をやめて、マイナスからのスタートでもプラスに追いつける努力をしないといけないのだ。
人一倍、努力を強いられて、どうして自分ばかりこんなに苦労しないといけないのだと思う時だってある。
それでも、前を向かないといけない。自分の人生を変えられるのは自分だけで、その努力ができるのも、また自分しかいないからだ。
きっと、今の彼ならもうそれを理解できているはずだ。先ほどとは違う初の瞳をみて、岳はそう確信していた。
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