(7)虚しい爆発
見慣れた部屋のドアを開ける頃には、空の色がほんの少し明るくなっていた。
おそらくカズは眠っているだろうから静かに部屋に入る。が、起きていたのか起こしてしまったのか、カズがふらりと玄関に姿を見せた。
「があ、おかえり……あ、」
おれの背後に立つアオイに目を止めて、カズが固まる。
「友達のアオイ。お手洗い貸したいから中、入ってもらっていい?」
「あ、うん。どうぞ」
「すみません、お邪魔します」
アオイにトイレの場所を案内して、おれは部屋の奥に入った。
振り向くと、無表情のカズと目が合う。
「……カノジョ?」
「違うけど」
答えながら、そう思われても仕方がないなと反省するようなどうでもいいような、投げやりな気分になった。身体の関係はあっても、誤解を解かなければいけないような間柄でもないのだ。
おれが急に恋人を連れてきたらカズがどんな反応をするのか見てみたい、といったほの暗い感情も燻っている。今のおれは心の中が色々と正常とは言えない。
目の前に立っているカズは、はあとため息をひとつこぼした。
「最近、帰ってくるの遅い日が多すぎ。子どもじゃないから大丈夫だとは思ってるけど。こんな時間に女の子と戻ってきたりしたら、一応心配になる」
「別に心配しなくていいから」
「は?」
カズの向こうでトイレのドアが開く。
「すみません、ありがとうございました」
中から出てきたアオイがカズとおれにぺこりと頭を下げた。
「今日ありがとな。お茶飲んでく?」
「ううん、大丈夫。もう始発動いてるから帰るね。お邪魔しました」
部屋の外までアオイを見送ってから中に戻る。カズはじっとおれを凝視したままつっ立っていた。
おれはわざと尖った口調で、もう一度言った。
「心配しなくていいよ。おれがどこで何してようと、カズには関係ないから」
「関係ないわけない」
穏やかなカズが珍しく怒っている。そんなことで興奮してしまうおれはどうかしている。
おれは軽やかな足取りでベッドに腰かけた。
「関係ないよ。カズのことだっておれには関係ない」
「何言って……」
「カズが大学でどんな勉強して、どんな奴らと音楽について語り合って一緒に練習して、どんなコンクールで優勝しても、おれには関係ない。カズが知らない雑誌に載っていても、知らないうちに有名人になっていても、関係ない。カズの行動を制限する権利なんかおれにはないんだ」
目を見開くカズに、おれは微笑みかける。
「カズだって同じだろ。おれの大学での人間関係や夜の遊び方に口出しする権利なんかねえよ」
一瞬、カズの表情が醜く歪んだ。苦しかった平穏で閉塞感のある共同生活から抜け出せたような達成感に酔いしれていると、目の前の景色がぐるんと動いた。
天井と、泣きそうに瞳を細くしたカズの顔が見える。一拍遅れて押し倒されたんだと気づいた。カズが喘ぐように言う。
「俺たち……幼なじみじゃん」
「だから何」
「セックスもするよね」
「するね」
「それでも関係ないとか……」
「……るせえ」
「があ、」
「うるせえ!」
おれの中で苛立ちの小爆発がいくつも起こる。
「おれもよくわかんねえんだよ! でもとにかく最近むかつくんだよ、カズがピアノやってんのが!」
カズがどんな顔をしているのか怖くて、目を瞑る。次にカズが何を言うのかも怖くて、自分がわめくことで会話を拒否する。
「むかつく! むかつく! むかつく! ピアノのせいでカズがカズじゃなくなってく! でもカズはカズだし! ああもうよくわからん!」
音楽がカズを遠くに連れて行ってしまう。有名人にしてしまう。おれの知らない彼の交友関係が広がって、山田和臣はおれのよく知る「カズ」じゃなくて「ピアニスト」になってしまう。
カズであることとピアニストであることは両立可能なのに、それを嫌がるおれがいる。なんて我儘な独占欲。おれは音楽という得体がしれないものに嫉妬している。
「寂しい……」
ぽろりと漏れた一番強い本音。おれが黙って一瞬、沈黙が落ちる。
唇に、慰めるようにカズのそれが重ねられた。寂しくないよ、と伝えるかのように。
だけど、今までのように触れることで満たされないものが埋まる感覚がない。虚しいだけだ。
どんなに愛撫されても愛撫し返しても、優しくされても身体を繋げても。
その日の交わりは、ぽかりと開いた心の穴みたいなものが、どんどん大きくなるだけだった。
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