(5)おれにはわからない景色
「あ、楽にい。いたんだ」
「いたよ。てか急になんだよ。来るなら連絡しろ。いなかったらどうすんだ」
秋物のコートを羽織った少し大人っぽい雰囲気の妹は、小さく首をすくめた。
「いなかったらいなかったで、まあいっかと思って。先週、修学旅行だったからお兄たちにもおみやげ。いなかったらポストに入れとこうと思ってた」
「お、おお。さんきゅ」
やたらとでかいリュックから出てきたちんすこうの箱を手渡される。
とりあえず部屋の中へ迎え入れると、皐月はそのリュックからどんどん物を出してきた。
「あとこれ、お母さんからの佃煮。早めに食べなだって。えーとこれは、圭にいが社割で安く買った新作のお菓子。食べた感想教えてほしいって。そんで、こっちは愛莉に渡しといてって言われたブルーレイ。和臣くんに貸す約束したんだって」
エミリア姫となんちゃらかんちゃらとかいうタイトルの妙にファンタジックなデザインのディスクを押し付けられて戸惑う。カズ、こんなもん見るのか……?
というか、おれがいて良かった。さすがにこの量はポストに入らない。
しかも最後に、と言いながら皐月はまだ何かを取り出している。
「これは和臣くんに借りてたCDなんだけど……今日、和臣くんは?」
「出かけてる」
「そっか。じゃあお兄返しておいてくれる?」
皐月が持っていたのは、クラシック音楽のCDだった。
なんとなく、妹の顔を見つめる。おれは音楽が全然わからない。おれがわからないあいつのことを、全てではないとしてもそれなりに一番わかっているのは、血の繋がった美蘭や愛莉よりも、同じように楽器ができる皐月なのだろう。
黙り込んでしまったおれに、皐月はきょとんとした目を向ける。
「ど、どしたの? 元気ない?」
「そういうんじゃねえけどさ……」
自分でも何にもやもやしているのか判断しかねる。口を開いて再び閉じると、皐月は二、三度まばたきをしてから、すぐそばのピアノの椅子に腰かけた。
「やっぱりそれ、自分で和臣くんに返すよ」
「え?」
皐月はにこっと笑って足をぶらぶらさせる。
「和臣くん、何時に帰ってくる? 待ってる」
「……時間は、わかんね。午後は大学で練習っつってた。遅くなるかもだぞ」
「そしたらお兄がバイクで送ってよ。お兄、和臣くんがいなくて暇そうだから、それまでわたしが一緒にいてあげる」
彼女なりに、ひとりで寂しそうにしている兄を気遣ってくれているつもりらしい。小さな暖かさを感じて、ふっと頬が緩む。
「そんじゃ、昼メシはご馳走してやるよ。近所におすすめのラーメン屋あるから」
「おお! やったね。ネギがいっぱい乗ってるやつがいい」
「トッピングも好きにしろ」
会話しながらちらちらとピアノとおれを見比べているから「別に弾いてもいいんじゃね」とカズの代わりに許可を出す。
皐月はいそいそとピアノの蓋を開けて、鍵盤の上で指を動かし始める。
軽快に響く猫ふんじゃったにおれは思わず噴き出した。
「なんで笑うの」
「や、普段カズの難しい曲ばっか聞いてるから、ギャップが」
「世界一の演奏と比べないでよ……わたしは中学でピアノやめちゃったんだからさ」
「でも、中学まではカズと同じことをやってたんだよな、お前も」
「……お兄」
おれの声のトーンが暗いのを敏感に感じ取った皐月は、少し眉を下げておれを見た。
羨ましい。おれもピアノ、習ってたら良かったかな。でも少年だったおれはサッカーに夢中だったから。
「カズと同じ景色が見えてるのって、どんな感じ?」
「わたしじゃあ、和臣くんと同じ景色は見えないよ……。世間はコンクールの一位が想定外って騒いでるけど、それでもやっぱり和臣くんは、小さなピアノ教室の生徒でいるのはおかしいくらいの才能がある人だったから。平凡なわたしとは違う」
「でもおれには、皐月みたいにあいつに才能があることも、どのくらいすごいことをしてるのかも、わからない」
「別にいいじゃない。そんなことお兄たちの間には関係ないでしょ」
今まではそう思っていた。カズのピアノが上手でも下手でも、評価されてもされなくても。おれの幼なじみの山田和臣に変わりはない。でも、今もそうだとは思えない。
わからないことがあるのが嫌だ。全部おれのものにしたくなる。
最近のカズはものすごい勢いで遠ざかっていっているような気がする。どんどん、おれの知らない人になっていく。
メディアで言われている、イケメンの現役音大生ピアニストなんていう肩書きは誰のことを指しているのだろう。カズはぼんやりしているように見えてしっかり者で、アニメオタクでピアノが上手な優しい幼なじみだ。それだけだ。
いつまでも高校生の妹に気を遣わせているわけにもいかない。
気分を切り替え外出して、新しい服がほしいという皐月の買い物に付き合い、約束通りラーメンを奢って、適当に近くの観光スポットを案内してやったりした。
といっても特別有名な施設があるわけでもない。地元の人間が遊びに行く大きめの公園と、小さな美術館があるくらい。
美術館に行ってから公園に移動する。スワンボートに乗ったのはまあまあ楽しかった。カップルに混じってなんで兄妹で乗ってんだと一瞬疑問に思ったものの、気心が知れた家族とぎゃあぎゃあ騒ぎながら遊ぶのも悪くないものだ。
ひとしきり騒いだ後、近くで営業していたキッチンカーでチーズドッグやアイスを食べた。
そんなことをしているうちに夕方になり、おれたちはアパートに帰った。皐月のおかげで味気ない日曜日を回避できたのは感謝だ。
部屋のドアを開けると、妙に賑やかな話し声がした。中に入るとカズの他にも数人、彼の友人らしき奴らがいて談笑していた。
おれに気づいたカズが、パッと目を見開いて立ち上がった。
「があ、おかえりー。どこ行ってたの。えっ、皐月もいる!」
「こんにちは。お兄と遊びに行ってた」
皐月がおれの背後から遠慮がちに挨拶する。そういやこいつ、人見知りだったっけ。知らない若者が何人もいるから緊張しているのか、さっきまでのはつらつさがない。
「そうだったんだ。あ、えっと。今日一緒に練習してた大学の友だち」
カズに紹介された彼らは、愛想よくおれと皐月に話しかけてきた。
「お邪魔してまーす」
「君が噂の同居人さん……とその妹さん? あー、確かに目元が似てる」
「N大の法学部なんでしょ? あそこ賢いじゃないですか、すごいですね」
「ねえねえ、小さいときの和臣ってどんなだった?」
一気に様々な言葉がおれに降りかかってきて混乱しそうだ。皐月ほどじゃないけどおれだって初対面の相手はそれなりに緊張する。
なんとか当たり障りなく返答しているうちに、皐月のほうもカズに借りていたものを返し終えた。
半分逃げるような気持ちで帰宅する皐月を送りに部屋を出る。
カズはあまり友人を家に連れてこない。珍しい事態に、なんだか心がざらざらする。何がこんなにおれを嫌な気持ちにさせるのだろう。別に、恋人を連れ込んでたってわけでもないのに、友人数人くらいで。
たん、たん、と狭い階段を下りながら小さくため息をつくと、数歩先を行っていた皐月が足を止めて振り向いた。
「お兄」
「なんだよ」
「無理しないでね」
「無理って……」
してるつもりないけど。皐月はもどかしげに首を傾げた。
「うまく言えないけど、あの部屋にいるお兄はちょっとだけ苦しそうに見えるから」
思いもしなかった指摘にひゅっと息を飲む。
おれは苦しいのだろうか。自分の家なのに。カズとも揉め事や衝突なく、うまく生活できているのに。
……だからだろうか。ふと思い至った考えに不安になって皐月を見るけれど、もちろん彼女もおれの知りたい答えを持っているわけではなくて。数秒、無言で見つめ合う。
もしかしたら、カズと一緒に平穏に暮らしていることが、苦しいのかもしれない。
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