第29話 閑話 兄への頼み
大学生というのは暇なのかと問われれば、人によるとしか言いようがない。
そして直史は間違いなく、忙しい人間である。
そんな直史に対して、時間の必要なお願いが出来る人間というのは、それほど多くない。
お願いされた直史は、小さく溜め息をついたが了承した。
ついでに樋口にも声をかける。
さらについでに星と西にも声をかける。
「お前ら、お嬢様学校の野球少女に興味ってあるか?」
武史から頼まれたのは、聖ミカエル学園の女子野球部のコーチであった。
武史は基本的に女に弱い。
そして同時にチキンでもある。
コーチを探していると言われたなら、自分が教えに行けばいいのだ。
直史はそう思ったのだが、武史はそもそも他人に教えられるほど野球を知らない。
「忙しいなら仕方ないけど……」
「……まあ短期だけならな」
忙しくても弟の頼みを断れない兄であった。
聖ミカエル学園は東京の西、比較的自然が残っている郊外にあるお嬢様学校である。
名門であるのと同時に、進学クラスは高い偏差値を誇っており、大半は金持ちの子女であるのだが、ごく一部は特待生である。
武史と比較的一番親しい神崎恵美理はお嬢様であるが、その親友である権藤明日美は特待生だ。
そして明日美は、高校女子野球界のみならず、女子野球界最強の選手と呼ばれている。
それも日本だけではなく、世界も含めて。
本人すら素人であった彼女の声で、兼部も含めて八人の同級生と、二人の先輩から始まった野球部。
二年連続で全国大会準優勝のこのチームは、今度こそ絶対に勝ちたいのである。
これまでのコーチは普通に野球経験のある明日美の父ぐらいであったが、今年入ってきた五人の少女は全員が経験者。
より高いレベルのコーチを頼んでみたいものの、そんな伝手はない。
そんな明日美と恵美理の声に、武史は応えたわけである。
……いや、そんなにいい格好がしたいなら、自分でも来ればいいだろうとは思うのだが、あちらはあちらで最後の夏の前である。
いざ来てみて思ったのだが、恵美理は武史を待っていたのではないか。
直史は女の子の心の機微には疎い人間であるが、どことなく恵美理の表情に失望の色があった気がする。
一緒に迎えてくれた明日美は、無邪気に喜んでいたが。
「お兄様にはお手数おかけします」
礼儀正しく頭を下げる恵美理は、美少女っぷりが凄まじい。
……俺、こんな妹が欲しかったな。
台風に振り回されることの多い直史は、そんなことを考えたりもした。
聖ミカエルには学校の野球グラウンドなどはなく、近くの町営野球場を使っている。
管理保守をする代わりに、無料で使えるというものだ。だが週末は常に使えるというわけではない。
外野の狭いグラウンドであり、本来なら硬球用のものではないのだろう。
まあ女子のパワーではなかなかそこまでは飛ばないのだが、明日美は普通に飛ばしてしまう。
ここから何をコーチすればいいのかと訊いたら、とにかく勝てるようにしてほしいということだった。
部員数は15人。
明日美たちが卒業したら、解散するか来年の春をまた待つしかない。
女子野球部の数は年々増えており、その中でこんな素人っぽいチームが優勝するのは、かなり難しい話である。
だが明日美と恵美理のバッテリーに、打てる選手、走れる選手、そして一年の経験者がいるので、最低限の戦力は揃っていると言えよう。
しかし短期間で、何をどう指導したものか。
直史は基本的に、長期的な毎日の練習を大切にしているのだ。
それに自分のコントロールを明日美に伝授しても、あまり意味がない。
明日美のピッチングの特徴は、タイミングがデタラメということだ。
フォームが全く固まっておらず、そこから微調整してゾーンに投げ込む。
前のピッチングのタイミングで待っていると、必ず凡打になる。
ボールに全身のパワーが乗っていないのに140kmが出せるというのは、はっきり言って異常である。
球種はスプリットのみだが、実際にはチェンジアップを使っているのと同じ効果が出ている。
「はい! 先生、私カーブが投げられるようになりました!」
「へ~、じゃあ投げてみて」
そして投じられたカーブは、確かに曲がって恵美理のミットに収まった。
得意気な明日美に対して、直史はストレートと交互に、何度か投げてもらった。
結論。使えない。
カーブとそれ以外を投げる時で、完全にフォームが違う。
せっかくストレートが打たれないのに、カーブを混ぜたら狙い打ちされる。
そう説明したら、明日美はショックでよよとその場に崩れたが。
内野を星、外野を西が指導して、樋口が恵美理を指導する。
そして知る。この少女は天才だ。
バッターが何を狙っているのか、なんとなく分かってしまう。
樋口も同じような力はあるが、それはあくまでもキャッチャーとしての長く多い経験があってのものだ。
恵美理はそれを、なんとなくで済ませてしまう。
リードに関してはそれでいいのだが、他の部分は問題がありすぎる。
キャッチングの姿勢、スローまでの動作、フレーミングなど、リード以外の全ては落第点だ。
ただこのレベルの技術でも、明日美の細かく変化するボールを捕るには、女の子としては限界なのかもしれない。
「キャッチングの時に腰を浮かせすぎ。太ももは地面と並行になるぐらいで。片膝立てとか座り込むのは論外だから」
樋口の指導は厳しいわけではないのだが、淡々としていて怖い。
ただ樋口はこのバッテリーは、バッテリーとして一番必要なものを持っているとは思う。
お互いに対する信頼感である。
思えば高校時代、つい先日まで中学生だった樋口に、平気で160kmを投げてくる上杉には引いた。ドン引いた。
だがそれは、こいつならばいずれは捕ってくれるという確信があったからだ。
恵美理には明日美に対する、献身の気持ちがある。
キャッチャーにとってそれは、一番大事なものだ。
女子野球なのでフィジカル的に男子に劣るのは当たり前だ。
だがテクニックは活かし方による。
「とりあえず神崎さんは、盗塁を刺せるようになるだけでいい。実際に刺せるかどうかじゃなく、ちゃんと牽制が出来るように」
短期間で教えられるのは、それほど多くのことはない。
実のところ樋口は、下心満々でこのコーチを引き受けている。
女性に対しては年上の巨乳以外はあまり食指が動かない樋口であるが、お嬢様学校の年下であれば、充分に政略結婚の相手として相応しいものだ。
ただ温室育ちすぎて、さすがの下心マンも、いささか手を出すのには躊躇する。
星は内野を普通に教えていた。
「球を怖がってもいいよ」
そんなことを言う。
内野には、ボールを怖がるなとか、体の正面で捕れとか、そういったことがいまだに言われる。
それにもあるレベルまでは妥当性があるのだが、あるレベル以降は正面では捕らない方がいい。
「ショートとサード。特にショートは外野に抜けていくボールは、捕球するまでで精一杯でもいいんだ。問題は送球。ここでミスるぐらいなら、投げなくてもいい」
女子選手の肩では、ファーストまでの送球がワンバンになることがある。
だから必死で強く投げようとするのだが、崩れた体勢からでは失投することが多い。
ワンバンでもいいから正確に投げる。女子は足も遅いので、それでも充分に間に合うのだ。
見本を見せる星は、やはり上手い。
「あと、急造でもいいから、もう一人ピッチャー作った方がいいと思うんだけど」
一応一年にも、ピッチャー経験者はいるらしい。
だがこのチームは、明日美のチームだ。
明日美が全て投げて勝つ。それがチームとしての大前提になっている。
星のフットワークと送球は、柔らかい。
アンダースローなどをすることもあって、ボディバランスが優れている。
「さすが甲子園行った人はちゃうなあ」
そう言って年下の女子に、ばんばんと背中を叩かれる星であったりする。
西は外野を教えると言っても、三年と一年の経験者なので、基礎的なことは教えなくていいのかと思っていた。
だが実際は捕球時にどうグラブを出すかなど、教える余地は大きい。
大きいと言えば、このセンターの少女は、このチームで一番大きい。背も、そして胸も。
本職はバレー部らしいが、明日美の頼みで入っている。
初心者は外野に回されることが多いが、だからと言って外野が簡単なわけではない。
外野は比較的、やることが少ないのだ。
だからと言ってやれることを磨くのは難しい。フライなんて基本的には、何本も捕って感覚を確かめるものだ。
だが経験者はもちろん、バレー部が本業の少女も、ちゃんとフライの見定めは出来ている。
「バレーボールよりずっと小さいし距離もあるのに、良く分かるもんだなあ」
「ずっと明日美と一緒にやってきたんですよ。これぐらいは出来ます。次のことを教えてください」
まるで威圧するかのように、コーチに迫る選手である。
野球の外野守備で注意するのは、トライすることをどこまで認めるかだ。
前にダイビングキャッチをすると、もし取れなかった場合、ランニングホームランになる可能性すらある。
他のポジションはそれを考えてカバーに入らなければいけないし、あとは送球も問題だ。
基本的には、山なりの送球よりも、中継を入れた送球。
この中継の技術が、意外と馬鹿にならない。
内野と一緒に、お互いが素早く投げられる距離を調整し、ランナーを出来るだけ刺すようにする。
このチームは本当に、ワンマンチームだと思った。
明日美が投げて、明日美が打つ。
まるで上杉勝也がいた頃の春日山だな、と樋口は感じた。
もっとも高校まで野球をやっていない人間がいる、こちらの方がさらにワンマンであるかもしれない。
守備に関しては説明と見本は見せたが、問題はバッティングである。
聖ミカエルはその得点のほとんどが、明日美か恵美理によるものだ。
完封して一点を取る。スコアを見る限り、そんな試合が多すぎる。
このチームに必要なのは、スモールベースボールだ。
明日美一人は自由に打たせるが、あとはどれだけランナーを前に進めて点を取るか、それを考えるべきである。
もっともそれなりの指導は受けていたらしいが、肝心なところが分かっていない。
ネット社会の現代、いくらでも教材はあるが、何をするべきか自分で考えても、それを相談する相手の方はいない。
イチローに憧れてあのフォームをやれば、99%は失敗するだろう。
女子野球は肩の強さもないが、それ以上に足が遅い。
確実に進塁させるためには、送りバントが重要になる。
だが皆漠然とバントの練習はしていても、効果的な仕方を知らない。
「右打者の場合は左手で支えて、右手で調整する。片手だけでバットを持ってみてそれでバントする練習してみるんだ」
攻撃の方にまで指導をしていた樋口は、さすがに引き出しが多い。
あとはミートも問題である。
「顎を上げた状態で打たない。体重移動で体が前後するかもしれないけど、顔の位置はずらさないんだ。顔を固定することによって、ボールをしっかりと見る」
これは国立から、星と西も言われたことだ。
なお体が崩れた、完全に顔の位置がずれた状態で、ホームランを打っているおかしな生物が大介である。アレクもその傾向はあるが。
明日美も崩れた姿勢からホームランを打つが、彼女の場合は顔の位置はそれほど変化しない。
バッティング練習は素振りでスイングスピードを上げるのと、置きティーでミートを確認するのが効果的である。
そしてあとは変化球対策に、星や西に投げてもらう。
直史や樋口では球が速すぎるので、意味がないのだ。
だがやはり明日美は違う。
西のストレートは135kmほどは出ているはずなのだが、それをフェンスネット直撃のホームランにしてしまう。
代わった直史が微調整して145kmまで投げても、体全体でスイングしてホームランにしてしまう。
スピードでは明日美を打ち取れない。
ただ変化球にも、かなり対応してくるのだ。
「試合では彼女が敬遠されてからが勝負になるだろうな」
直史は明日美が敬遠で塁に出た後、どうやって帰ってくるかで試合は決まると思う。
明日美は足も速いので、盗塁もかなり決められる。
「三番に権藤さん、四番に神崎さん、五番に鷹野さんがいいと思う」
全てのバッターに対して投げた後、直史はそう助言した。
明日美は一人で点が取れるので、四番よりも一回に確実に回ってくる三番。
盗塁した後、それなりに打率がいい恵美理を四番。
そして外野フライが打てる鷹野を五番というのが、おそらく得点の期待値は高くなるだろう。
飛び飛びの三日間の短期コーチであったが、確実に彼女たちの力は上がった。
仲も良くなって、女性への耐性の弱い星も、それなりに話せるようになった。
「あいつ甲子園行ったチームのエースだろ? なんでそんなに女いねえの?」
樋口は素朴な疑問を覚えたが、上杉兄弟も含めて春日山は、上杉信者の男共が多すぎて、樋口以外は彼女持ちはいなかった。
「いや、応援団に好きな子はいたらしいんだけど、奥手だから他の部員が先に告白して付き合っちゃったんだよね……」
あれは不憫だった、と西などは思っている。
「なるほど、僕の方が先に好きだったのに、ってやつか」
女癖の悪い樋口であるが、基本的に二股はしないし、する時はそれを隠さない。
西にしても星に付き合って全力で野球にリソースを振ってしまったため、高校時代は彼女はいなかった。
大学も野球で忙しく、おそらく一年の間はそんなものを作っている暇はない。
だからこそこんな要望にも応じたのであるが。
ちなみに――。
星と西の将来の結婚相手はこの中にいるのであるが、それはさすがに神のみぞ知ることである。
「ありがとうございました。武史さんにもよろしく伝えてください」
恵美理が明日美と並んで深々とお辞儀をするが、直史としても弟のために、少しだけ力になってやらないこともない。
「そっちの応援にも行くように、タケにも言っておくから」
「え、でもいいんですか?」
「勝っても負けても、その時期なら行けるはずだし」
ヘタレの武史は、周りが動いてやらないとくっつかないのではないか。
直史はそう思っている。逆に周りにぐいぐいと来られたら、あっという間に陥落する可能性もあるが。
鈍感系ヘタレ主人公の未来は、まだ明るくない。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます