第19話 K
翌朝、いつもより早く目が覚めてしまったが二度寝する気にもならず、俺は伸びをしながら台所に向かった。
硫酸がこちらに背を向けて忙しそうに朝食の準備をしているのが見える。
「何かお手伝いすることはありますか?」
そう尋ねると硫酸が振り向き微笑んだ。
「あら、そんなに気を使わなくてもいいのよ。あなたはお客さんなんだから、座って待っていて」
そう言われて首を振る。
「二日もお世話になっているんです。何かお手伝いでもしないと気が済みません」
そう力強く言うと硫酸が眉を下げて笑った。
「そう……。それなら、このお皿をテーブルに持っていってくれるかしら?」
俺は頷くとそれを受け取った。そしてダイニングテーブルへと運ぶ。
目を擦りながら起きてきた硫化水素が俺を見てぺこりと頭を下げた。俺もそれに返す。
「今日は人間さんのほうが早かったですね」
そう言って恥ずかしそうに笑う硫化水素に「そうだね」と俺も笑って返す。
「あら?カドミウムさんはまだ?」と振り返った硫酸が首をひねる。確かに彼の姿は見当たらなかった。
「硫化水素、カドミウムさんを起こしてきてくれないかしら」
そう言われて硫化水素が頷くと回れ右をし、扉から出ていこうとした。
それと同時に玄関の扉が乱暴に叩かれる音が聞こえた。
はっとして玄関の方を振り向く。扉が勢いよく開く音がしたかと思うと、台所から出ていこうとしていた硫化水素が悲鳴を上げた。
(なんだろう?)
なんだか嫌な予感がして俺は思わず身構える。
扉を壊すような勢いで台所に入ってきたのはガスマスクをつけた謎の集団だった。軍隊のような物々しいボディーアーマーをつけた彼らの後ろに、控えるようにホスゲンが立っていた。
先程までの平和な朝の情景が一瞬にして崩れ、殺伐とした雰囲気の彼らに息を呑む。
「ホスゲン?一体どうしてここに?」
震える声でそう尋ねると、ホスゲンは濁った瞳で俺のことを一瞥し口を開いた。
「貴様が、人間共の命令で劇物や毒物をこの世から葬り去るためにシアンタウンを破壊しに来た刺客だという情報が入った」
その言葉に俺は目を見開く。硫化水素と硫酸も驚いたような顔をした。
(俺がシアンタウンを破壊しに来た刺客?どうしてそんなことになってるんだろう?)
「誰が一体そんなことを?俺は、そんなことをする気は全くないよ!」
そう誤解を解くように言うが、ホスゲンは死刑を判決として下すときの裁判官のように冷徹な瞳で俺を見つめた。
「貴様が何であろうと、私はいつかは貴様を殺すつもりでいた。その日が早まっただけだ」
そう言い、ホスゲンが一歩こちらに踏み出した。それとともに軍隊が俺を取り囲む。びくりとして後退る俺の前に硫酸が飛び出してきた。
「人間さんに手出しはさせないわ!」
そう言って俺をかばうように両手を開き、ホスゲンの前に立つ。
「に、人間さんがこの街を破壊なんて、そんなことをするわけないです!」と硫化水素も震えながら前に出る。
ホスゲンは二人を冷めた目で見つめてから鼻を鳴らした。
「ふん。どんな言葉でたらし込んだか知らないが、会った化学物質をかたっぱしから仲間に引き入れるとは中々口がうまいようだな。このペテン師め」
そう蔑むように言われてかっとする。
「俺は皆を騙してなんかいない!いいかがりはやめてくれ!」
俺の必死な声を無視してホスゲンが顎をしゃくる。すると、彼女のすぐ近くに控えていた二人の隊員が硫酸と硫化水素の腕を掴み、後ろ手に縛り上げた。二人が悲鳴を上げる。
「やめろ!硫酸と硫化水素は何も悪くない。二人に危害を加えるのはやめてほしい」
「だったら、おとなしく私の手にかかるんだな」
そう言ってホスゲンがゆっくりと近づいてくる。俺はごくりと息を呑んだ。
「人間さん、逃げて!」と硫酸が体をよじって逃げようとしながら叫ぶ。しかし、俺の体は石にでもなったかのように固まって動かなかった。
こちらに歩いてくるホスゲンの動作がスローモーションのようにゆっくりに見える。
怖い。怖いけど、ここで俺が抵抗して硫酸や硫化水素が"殺されて"この世からなくなってしまうほうがもっと怖い。
ホスゲンが俺の目の前に立った。そして黒手袋を嵌めた手を伸ばし、俺の口と鼻を抑える。
「……眠れ。そして、我々の糧になれ」
ホスゲンの声を聞きながら、手袋に染み込みこんだ甘い匂いのする液体をかがされる。
(これって……クロロホルム?)
いわゆる推理小説とかにあるクロロホルムで眠らせる、という手法だろうか。
何度もクロロホルムの蒸気を吸っているうちに、だんだん頭がくらくらしてきた。それとともに意識が混濁してくる。
(まずい、何も考えられな……い)
視界が真っ暗になるのと同時に俺は意識を手放した。
「う……」
目を覚ますと、目の前に無味乾燥の真っ白な天井が広がっていた。真っ暗な世界からいきなり白く明るい世界に入り、眩しさに思わず目を瞬かせる。
「ここは……?」
辺りを見回すと自分がまるで手術室のような場所にいるのに気づいた。手に当たる硬くて冷たい感触に、自分が手術台に乗っているのに気づく。
(確か、家にやってきたホスゲンに眠らされて……まさか、本当に被験体にされそうになってる!?)
そう思って自分の体を見るが、特に台に縛り付けられているわけでもない。逃げようと思えば逃げられそうだ。
(あの扉、開くかな……)
そう思い近くの扉を見る。周りに誰もいないことを確認してから手術台から降りようとしたとき、その扉がゆっくりと開いた。
「!」
ぎょっとし、寝たふりでもしようかと思ったが遅かった。そこから顔をのぞかせた青年と目が合ってしまった。
「あ、先生、起きた?」
親しげに俺に話しかける彼の見た目は、眠たげな黄色の瞳に水色のナイトキャップの隙間から見えるピンク色の髪。
「クロロホルム?」
思わず目を丸くする。クロロホルムはこちらに歩いてくると俺を見て笑った。彼に話しかけようとして、後ろから現れた物々しい姿の隊員を見て口をつぐむ。
「……生きていたか」
ガスマスクをつけたその隊員がぽつりと呟くように言った。
「そうみたいだな」とクロロホルムが顎に指を添えて頷く。
「まあ、生きてたほうが色々使いようがあっていいだろ?」
そう言って笑う彼に隊員がつまらなさそうに鼻を鳴らす。
「ふん、まあいい。……あとは貴様たちに任せたぞ」
「了解。お疲れ様」とクロロホルムが軽く敬礼をした。
隊員はそれを見て興味をなくしたように回れ右をすると部屋から出ていった。
扉が閉まって足音が遠ざかるのを確認してからクロロホルムが俺の方を見た。彼がホスゲンの仲間になってしまったことに悲しさを覚えつつ、俺は説得を試みる。
「あのさ、クロロホルム。信じてもらえないかもしれないけど、俺はこの街を破壊しようとなんて決して思っていないんだ。本当だよ、信じてほしいんだ」
そう懇願するように言うとクロロホルムがあっけらかんと笑った。
「信じるに決まってるだろ。先生がそんなことをするわけないことなんか初めから分かってるよ」
「え?」
きょとんとする俺の顔をまじまじと見て、クロロホルムが頷いた。
「それだけしっかり喋れるところを見ると、意識はちゃんとあるみたいだな。いやー、さすが俺。クロロホルムの量の調節はばっちりだな」
そう言って自画自賛をする様にうんうんと頷いているクロロホルムを不思議そうに見る。その視線に気づいた彼が俺を見て笑った。
「先生が知ってるかどうか分からないけど、クロロホルムで人を眠らせるのって案外難しいんだよ。少なすぎると効果がないし、多すぎると死んじゃうし。……結構大変だったんだぜ?ホスゲンの手袋に染み込ませるクロロホルムの量のさじ加減」
「……クロロホルムは俺がうまいこと寝るように量を気をつけてくれていたってこと?」
俺の質問に「そういうこと」とクロロホルムが頷いた。
「ホスゲンは先生がクロロホルムで死んでもいいと考えてたと思うけどな。でも、君を殺さないよう直々に所長に言われていたから、俺はそっちに従ったんだ」
(一酸化炭素が……)
タバコをくゆらせる白衣姿の彼女の姿が脳内に浮かぶ。一酸化炭素とクロロホルムが俺を守ってくれていたと思うと涙が出てきそうになった。目を擦る俺を見てクロロホルムが困ったように肩をすくめる。
「おいおい、泣くのはまだ早いぜ。研究所の入り口付近で所長が待ってるんだ。早く顔を出して安心させてやりなよ」
「分かった、そうするよ。……ありがとう」
俺は台から降りるとクロロホルムに丁寧にお礼を述べた。そしてひらひらと手を振っているクロロホルムに手を振り返し、部屋の外に出た。
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