第17話 Cl
黄リンに出かけることを伝えると、彼は飛び上がるほど喜んだ。こんなに喜んでもらえるなら誘ったかいがあるというものだ。俺は台車を持ってくると昨日水銀がしていたように水槽をその上に載せ、固定した。
台車をゆっくりと押すが、結構重い。これを涼し気な顔で運んでいた水銀は案外力持ちなのかもしれない。
玄関までガラガラと運んでいくと、もう既に三人が揃っていてこちらを見て微笑んだ。
「お待たせしました」
そう言うと硫酸が微笑む。
「いいのよ。さ、行きましょう」
そうにこやかに話しかけられて硫化水素が嬉しそうに頷いた。
彼女たちに引き続いて玄関から外に出ようとしたとき、カドミウムが俺を引き止めた。
「これを持っていてくだされ」
不思議に思って振り返ると、カドミウムが俺に何か黒いものを手渡してきた。よく見ると、それはガスマスクだった。
「遊びに行くというのにこんなものを渡したくはなかったのですが……。安全のためです。持っていてください」
俺はカドミウムにお礼を言うとガスマスクを白衣のポケットにしまいこんだ。
おしゃべりをしながら硫酸湖に向かってゆっくりと歩く。黄リンは昨日ぶりのお出かけに楽しそうに辺りを見回していた。
俺は隣を歩くカドミウムに声をかける。
「あの、カドミウムさん……」
彼はこちらを見るとほほえみ、
「敬語はやめてくだされ」と言った。
その言葉に頷く。
「分かった。えっと、カドミウム、一つ聞きたいことがあるんだけど、いい?」
「もちろんです」とカドミウムが恭しく頷く。
「ありがとう。……青酸様が、この街を治めているという話だったよね?だからこの街はシアンタウンって言うの?」
そう尋ねると彼が頷いた。
「その通りです」
「ふうん……。この街を青酸の森が取り囲んでいるのも同じ理由?」
またもやカドミウムが頷く。
「ええ。この森は青酸様が自分の領地を確保するために作ったものです。まあ、あなたのように人間がこの街に来た際に劇物や毒物を外に持ち出されるのを防ぐ目的もあるのかもしれませんが、それが真実かどうかは定かではありません。青酸雨も彼の気分で降らせているのですよ」
カドミウムが左側に見える青酸の森を見ながら答えた。
(そうだったんだ……)
昨日は彼の気分のせいで危うく殺されるところだったが、不法侵入をしているのはこっちなのだから文句は言えなかった。
しばらく歩いていると延々と続いていた青酸の森がなくなり、代わりに広い湖が見えてきた。無色透明のその湖は、底が透けて見えるほど綺麗だった。
「ここが硫酸湖なんですよ」と硫化水素が教えてくれる。
不意にピチャピチャと水音がして振り返れば、硫酸が靴を脱いで湖に入っているのが見えた。足首までつかってうーんと背伸びをしている。
「はー、冷たくて気持ちいい……。生き返るわあ」
おしとやかに見える普段の彼女とは違う活発な行動に俺は少し面食らった。
「硫酸さんは、この湖で水遊びをするのが好きなんです。ここでは、まるで子供に戻ったみたいに遊んでるんですよ」
そう言って硫化水素がくすりと笑う。
「いいなー、僕もいつか入ってみたいなー」と黄リンが指を咥える。
「入ってみる?」と俺が尋ねるとぶんぶんと首を振った。
「湖に入る前に空気中で燃えてなくなっちゃうよ……」
そう言って肩を落とす黄リンを慰めるように俺は水槽をなでた。
「硫化水素もいらっしゃい」と硫酸が手を振る。
「あ、はい!」
硫化水素がぱっと顔を輝かせ走り出した。彼女は硫酸湖に入っても問題がないのだろうか。
俺は台車を固定させ、その隣に座って硫酸と硫化水素が水遊びをするのを眺めた。
カドミウムが俺を挟んで黄リンとは反対側に腰掛ける。
「カドミウムも入らないんだね」
そう言うと彼が困ったように頷いた。
「ええ。硫酸と反応してしまっては困りますからね」
その言葉に、希硫酸とカドミウムが反応して硫酸カドミウムになることを思い出した。
(硫酸カドミウムになるとどうなるんだろう……)
そう疑問に思いながら「それは困るね」と相づちを打った。
しばらく三人で並んで湖を眺めていたが、飽きてきたのか黄リンが大きくあくびをした。
「ねえ、人間。どこか違うところに行きたい」
そう言う黄リンに俺は困った顔をする。
「違うところって……どこに?」
「硫化水素と硫酸がここにおりますし、あまり離れることは出来ませんぞ」
俺とカドミウムの言葉に黄リンが近くにある細い道を指差した。
「あっちのほうに行きたいんだけど、だめ?」
カドミウムがちらりとそちらを見てから頷いた。
「そちらでしたらここからあまり離れないからいいでしょう。ちょっと待っていてくだされ。硫酸たちに少し離れることを伝えてきます」
そう言ってカドミウムが立ち上がり、硫酸たちの方に歩いて行った。俺も立ち上がると台車を押してその道の入り口近くまで進み、カドミウムが戻ってくるのを待った。
道に沿って歩いて行くと木々の隙間から赤いものがちらちらと見えてきた。
「ここは……」
目の前に広がる赤い湖を見てはっとする。間違いなくここは、今朝ホスゲンに連れてこられた場所だった。
それに気づいて体が固まるのが分かった。今朝の光景が思い出され、脳内に彼女の淀んだ瞳が浮かび上がる。青い顔をした俺を不思議そうに黄リンが見上げた。
「どうしたの?」
カドミウムにも見られているのに気づいて俺は慌てて首を振る。
「ううん、なんでもないよ。……この湖は一体何?真っ赤だけど……」
「ここはアルカリ湖です」とカドミウムが穏やかな声で言った。
「赤く染まっているのは生物地方からもたらされた赤い色素を持つ藍藻類を含んだ微生物が繁殖しているためです。ここに生き物が入ると石灰化してしまうとの噂もありますので、ご注意を」
カドミウムに言われ、ごくりと息を飲んだ。黄リンも
「アルカリ性は嫌いだよ」と顔をしかめた。
まじまじと血のように赤い湖を見つめる俺にカドミウムが話しかける。
「硫酸湖側は無機物たちが多い一方、アルカリ湖側は有機物たちが多く暮らしております」
カドミウムに言われ、たしかに今まで無機物の劇物や毒物には多く会ってきたが、有機物にはあまり会っていないような気がした。
(まだ俺が会っていない劇物や毒物がいっぱいいるんだろうなあ)
そうしみじみと思って湖面を眺めていると、不意にカドミウムが険しい声で
「危ない!」と叫んだ。
振り返ると同時に誰かに腕を捕まれ強い力で引っ張られる。目をぱちくりさせる俺の顔の前で、鈍く光る銀色の何かが空を切り裂いた。
何が起こったか分からずぽかんとする俺の耳に舌打ちが聞こえてきた。何事かと辺りを見回せば、隣で俺の腕を掴んだカドミウムが誰かを睨みつけているのが見えた。
その視線を追って見ると、長い茶色の髪の毛を後ろの高いところで一つにまとめた女の子が俺を睨みつけながら立っていた。彼女の右手にはナイフが握られていた。
「ちょっと、アンタ!邪魔しないでよね!」
そう女の子が頬を膨らませてカドミウムに怒る。
「もう少しで人間の息の根が止められそうだったのに!」
「そうはさせません」とカドミウムがおだやかだが強い口調で言った。どうやら彼女は水銀たちと違い、俺に敵意があるようだった。
「君は?」
そう尋ねると女の子がぷいとそっぽを向いた。
「人間に名前を教えるわけないでしょ!」
そんな彼女の胸元で光るネックレスがベンゼン環をかたどったものであることに気づき、俺は首をひねる。
(ベンゼン環の入った劇物や毒物か……なんだろう?)
恐らく俺が知っているよりもたくさんあるだろうが、とりあえず頭に浮かぶ化学物質をあげてみる。
「フェノール?それともトルエンかな?あとは……」
そう言うと女の子が驚いたように目を丸くした。
「ア、アンタ、なんでアタシがトルエンだって分かったの?」
そう言われ俺も驚く。
「あ、もしかして当たった?良かった」
そう言って笑う俺にトルエンが顔を真っ赤にさせた。
「な、何よ!当てずっぽうだったの?動揺して損したわ!」
そう言って唇を尖らせそっぽを向いた。そんな彼女がなんだか可愛らしくて俺は思わず笑みを作る。それを見てトルエンがまた慌てたように口を開いた。
「な、何笑ってるのよ!」
相変わらずりんごのように真っ赤な顔をしたトルエンを見ながらカドミウムが口を開く。
「トルエン、何故人間を襲うようなことをしたのです?」
そう叱るように言われてトルエンが顔をしかめる。
「それは、人間のことが嫌いだからよ。アタシ、アンタがこっちの方に来るのをずっと待ってたんだから!」
そう言ってトルエンがくるくるとナイフを回す。刃の部分が日光を浴びてきらりと光った。
「最初に来たときはホスゲンと一緒だったし、その後は水銀が来ちゃったから何も出来なくて……。やっと手出しできるようになったかと思ったらカドミウムに気づかれちゃうし」
口を尖らせたトルエンに険しい視線を送りながらカドミウムが口を開いた。
「とにかく、この人間には手出しをさせません。さっさとここを立ち去りなさい」
「そうだ、そうだー!」と黄リンが声を上げる。トルエンがキッと黄リンを睨みつけた。
「うるさいわよ!このちび!」
「ちびじゃないし!」と黄リンが憤慨する。
彼女が動くたびにぴょこぴょことゆれるポニーテールを見ながら、ふとニトロのことを思い出した。
(そういえば、青酸の森で別れて以来会ってないな……)
恐らく彼もトルエンも有機物が多く住んでいるアルカリ湖の方にいるのだろう。ということは、トルエンはニトロのことを知っているかもしれない。
「ねえ、トルエン。ちょっと聞きたいことがあるんだけど」
そう声をかけるとトルエンが振り向いた。
「何よ?」
敵意剥き出しのトルエンをあまり刺激しないよう優しく話しかける。
「トルエンは、ニトロと知り合いだったりする?青酸の森に入ったとき以来ニトロの姿を全然見ていないから、今どうしているのか気になっちゃって。もし知っていたら、彼が元気かどうかくらい教えてもらえると嬉しいな」
そう言うとトルエンが目を丸くした。そしてこちらに駆け寄ってくる。
彼女がナイフを持っているため、攻撃されるかと思い少し身構えたが、そういうわけではないようだった。
「アンタ、ニトロのことを知ってるの!?」
そう近距離で尋ねられ、コクコクと頷く。
「う、うん。彼とは少し話しただけだけど……」
そう言うと間髪入れず、トルエンが詰め寄るように口を開いた。
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