第2話 He
「この森は、どうして青酸の森って言われてるの?」
不思議に思い、斜め後ろを歩くニトロに問いかける。
「この森には青酸雨が降るのさ。だから、青酸の森って言われてるんだ」
「せ、青酸雨……」
物騒な言葉に驚き、思わず声に出して反芻してしまう。
「ああ。青酸雨は、一定の周期で何故かこの森にだけ降るんだ。人間が浴びたらひとたまりもないだろうな」
そう淡々というニトロと対照的に俺は震え上がる。
「こ、怖いね……」
俺の言葉にニトロが頷いた。
「まあな。それに、青酸の森は初めて来た奴は絶対に迷うから、俺みたいに慣れた奴と一緒に行かないと危ないだろうな」
「な、なるほど……」
(ニトロがいてくれてよかった)と胸をなでおろす。それにしても、ニトロはどうして俺の後ろをついてくるように歩くのだろうか。案内役なのだから、前に立って先導してくれればいいのに。
「それにしても、劇物や毒物に興味があるなんて、あんた変わってるな」
ニトロに言われ、苦笑いをする。
「あはは、そうかもね」
「なんで劇物や毒物に興味があるんだ?あんたら人間にとっては危険なものだろ?それとも、そういう危険なものに人間ってのは心が惹かれるのか?」
ニトロに呆れたように言われ、首をひねる。
「うーん、俺の場合は劇物毒物関係なく、化学物質自体に興味があるからかな」
俺の言葉にニトロは返事を返さなかった。俺はゆっくりと歩きながら言葉を紡いでいった。
「化学物質には基本安全なものは一つもない。特に、その中でも生物が死に至るまでの摂取量が少ないものが劇物や毒物って呼ばれるんだけど。でも、危険性も含めてその化学物質の個性だから、その個性をうまく使って劇物や毒物と仲良くやっていけたらいいなあ、なんて思ってるんだ。……まあ、ニトロが言うとおり、危険なものに対する好奇心があるのは事実なんだけどね」
俺が言葉を切っても、ニトロの声は返ってこなかった。長々と偉そうに語ってしまったことに気づいてにわかに恥ずかしくなり、俺は顔を赤らめる。気を紛らわせようと、ニトロに話を振ろうとして振り返って、俺は目を見開いた。
後ろについて歩いていたはずのニトロが霧のようにいなくなっていた。慌ててあちこち見回すが彼の姿は見当たらず、周りには同じような景色の青い森がどこまでも広がっているだけだ。
「ニトロ?どこに行ったの?」
自分の声が吸い込まれるように薄暗い森に消えていき、背筋がぞっとした。
「ど、どうしよう……」
下手に動くと森の中で迷ってしまう。立ち止まって打開策を考えているとポツッと何か冷たいものが頭にあたった。
「なに?」
空を仰げば鬱蒼とした木々の間から次から次へと雨粒が落ちてきた。それとともに特有の匂いが辺りに立ち込め始める。
「これってもしかして……!」
ニトロが言っていた青酸雨に違いない。
(どうしよう!)
青酸ガスは少量でも人を死に至らしめる危険なガスだ。俺は白衣の袖で鼻と口を覆い、あたりを見回した。
ニトロの話だと、青酸雨はこの森にだけ降るようだ。ということは、速やかにこの森を脱出できればまだ助かる見込みはある。
(早くこの森から出ないと!)
俺はガスを吸わないよう慎重に歩き出した。
さっきまでニトロと共に向かっていた方向へひたすら歩く。いつ森を出られるのかも、そもそもこの方向で合っているのかさえもわからない。今は信じて歩みを進めるしかなかった。
雨が激しく、匂いがひどく濃厚になり、頭がくらくらしだした。頭痛がし始め、それとともにめまいがしてきた。視界がぐるぐると回り、気分が悪くなってくる。
(早く、ここから出ないと……)
足元がおぼつかなくなってきた頃、急に目の前が真っ白になった。
気づけば、開けた場所に立っていた。先程まで振り続けていた雨が一瞬でやみ、特有のアーモンド臭も消え、新鮮な空気が肺に滑り込んできた。
(た、すかっ、た……?)
そう思うと体の力が抜け、膝から崩れ落ち、地面に突っ伏した。鼻孔いっぱいに広がる芝生の匂いにほっとするとともに、ひどい頭痛と吐き気に顔を歪ませる。
(……ちょっと、寝よう……)
そう思い、目を閉じた。体はどっぷりと疲れていて鉛のように重く、ずぶずぶと地面に沈んでいってしまうような感覚がした。
どのくらいの時間が経っただろうか。不意に、遠くからガラガラと台車を押す音が聞こえてきた。
「水銀!誰か倒れてるよ!」
幼い子供の声だ。俺は重いまぶたをなんとか開く。
「誰この人?もしかして、社会の国の住人?」
そう子供の声の主が不思議そうに言う傍ら、誰かが俺の顔を覗き込んだようで、視界が陰った。
「……いや、こいつは恐らく、人間だ」
「え!?人間!?初めて見た!」
「俺もだ」と低く抑揚のない声で隣に立っている誰かがつぶやく。どうやらこちらは男のようだ。
「恐らく、青酸の森を通り抜けようとして、青酸雨に降られて命を落としたんだろう」
俺は霞む視界で彼の顔を見ようとするが、うまく焦点が合わずはっきりと見ることが出来ない。ぽたり、と彼の髪から何かが垂れたことだけは分かった。
「そっかー……。お気の毒にね、この人」
声はするが、もう一人の姿は見当たらない。すぐそばにいる男の隣に大きな水槽があるのはぼんやりと見えるのだが……。
「そうだな。……まあいい。行くぞ」
そう言って男が踵を返す。
ここで助けを求めなかったらずっとここで倒れていることになるかもしれない。俺は、なんとか力を振り絞って口を開いた。
「ま、って……」
かすかな声でそう呼び止めると驚いたように男が振り向いた。
必死になって彼の方に手を伸ばす。しかし、やっとのことで動いたのは人差し指が一ミリ程度であった。
「この人間、生きてるよ!」と子供の声の主が叫ぶ。
「……」
男は驚いたように俺のことを目を見張って見つめた。少し焦点の合ってきた視界に映った彼は、左目が赤で右目が黒のオッドアイだった。
「水銀!この人、助けてあげようよ!」
「何故俺が……。放っておけ」
「でも、このままじゃこの人、死んじゃうよ!水銀だって人間が死ぬのを見るのは嫌でしょ?」
焦ったように説得する子供の声を聞きながら、水銀と呼ばれた男がため息をついた。そして近くにしゃがみ込むと、俺を抱えあげ肩に担いだ。
「わーい!水銀、優しい!」
「うるさい。……さっさと帰るぞ」
そう言うと「うん!」とすぐ横から嬉しそうな声がした。
(誰か隣にいる……?)
そう思ってかすかに目を開けるが、水銀の隣には誰もいなかった。
(誰と話してるんだろう……?)
そう疑問に思いつつ、俺は意識を手放した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます