サシ練習(2)

「じゃあ早速、はじめようか」

「うん」

「まだ組み立てないで。頭部管だけ持って」

「え? あ、うん」

「先輩たち、これ教えてないのか……。あ、じゃあ、とりあえず、ふつうに音出して、フォルティッシモで、六拍ずつ。吹き続けて」


 須賀さんは、クラシカルな三角形の、大きなメトロノームを取り出して、私の目の前に置く。


 かちかちと鳴るリズムに合わせて、私は吹き始める。フォルティッシモとのことなので、思い切り、元気よく。

 ……だめだ、『ぴひゃー』っと情けない雑音をまとって、思い切り音がひっくり返る。


「気にしないで、続けて」


 吹くのを止めそうになった私の心を読んだかのように、須賀さんは淡々と指示を出す。普段の気の抜けた表情とは大違いで、少しだけ緊張が走る。


「……いいよ、ストップ」

「……ふう」

「吹いてみて、どうだった?」

「うーん、息が苦しい」

「まあ、そうだろうね」


 さっきまでと違う、人懐こそうな笑顔で笑う。この人、こんな表情もするんだ。


「ちょっと失礼」

「ひゃあっ」


 須賀さんが、急に私のお腹を触るから、変な声が出てしまった。


「あ、ごめん」

「えーっと、これ、なに?」

「腹式呼吸ってわかる?」

「聞いたことあるような、ないような」

「歌うときとかにも、よくやるんだけど。こういうの。あっ、手貸して」


 今度は、わたしの手を引っ張って、自分のお腹に持っていく。

 須賀さんのお腹は思ったより筋肉質で引き締まってるみたいだ。などと余計なことを考えていると、短い息を『フッ、フッ』と吐いて、お腹を動かして見せた。


「こんな感じで。胸を動かさずに腹筋で呼吸するイメージ、っていうのかな。厳密には違うんだけど、まあいいや」


 ブツブツ解説を入れながら、須賀さんがお手本を見せてくれる。


「じゃあ今度はさっきと同じのを、呼吸だけで。メトロノームに合わせて。フォルティッシモで」

「えっ、あ、はい」


 間髪入れずに、須賀さんはまた私のお腹に手を当ててくる。

 腹式呼吸ができているか確認をするためらしいけど、なんだか恥ずかしい。

 別にお腹が出たりはしていないけれど、運動不足の私の腹筋は、多分ゆるゆるのプヨプヨだ。


「……ふう。ああ、疲れるね、これ」

「でしょ」

「須賀さん、毎日これやってるの?」

 一分くらい続けただけで、汗をかくし、酸欠気味になっている気がする。

「ん、私はやってないよ。今は。腹式呼吸、一回身についちゃえば忘れないからね。最初は大変だけど」

「そうなんだ。うん、がんばってみる」

「じゃあこれ、次回までの宿題ってことで」

「……はい」


 須賀さんのサシ練は、思ったよりもずっとスパルタだった。




 その後は、それぞれ個人練習に戻った。

 私は今やった腹式呼吸と、頭部管のロングトーンを復習してから、今度は先輩に教わった指の練習のほうにとりかかった。


 気合いを入れて練習をしたせいか、気づけば十七時のチャイムが鳴って、部活終了の時刻になっていた。


 楽器をパーツ毎にお掃除して、ケースの中にしまう。同じ教室の中で吹いていた須賀さんも、同じように楽器を掃除している。

 なんとなく離れたところから見ていても、彼女は自分の楽器をとても丁寧に扱っているのがわかる。


「須賀さんの楽器って、自分のなんだよね?」


 クロスで念入りに磨いているところに、話しかける。


「うん、そうだよ。進藤さんは、学校の楽器だっけ」

「うん。まだ始めたばっかりだし、いきなりは買ってもらえなくて」

「そうだよね。私も中二のときに買ってもらったから、始めてから大体一年くらいだったかな」

「そっか。やっぱり自分の楽器って憧れるなあ」

「いいよ、やっぱり自分のは。初めて吹いたときは、やっぱり学校の古い楽器とは違ってびっくりした」

「そうなんだ。いいなあ」

「モデルとかメーカーも違うから、大分雰囲気変わるよ。よかったら、今度吹いてみる?」

「え、いいの?」


 思わぬ展開に、心が躍る。私なんかが、須賀さんの楽器を吹いてもいいんだろうか。


「いいよ。いろんな楽器吹いてみると、やっぱり楽しいしね」

「ありがとう。楽しみ」


 今度、っていつなんだろう。次のサシ練のときが、すごく楽しみになる。


 須賀さんはフルートの話になると、意外なほど饒舌で、本当に好きなんだろうな、と思う。

 フルートに関して、私の知らない世界をたくさん知っているのだろう。

 サシ練を通して、その世界をちょっとずつ覗かせてもらえると思うと、なんだかとてもわくわくしてくる。


 須賀さんが自分の楽器を磨き終わって、ケースにしまうのを待ってから、楽器を置きに一緒に四階の楽器庫に向かった。


 今までだったら、それぞれのペースで帰ってしまっていたかもしれないけれど、フルートの話をしながらだったから、自然と一緒に歩き出していた。


「そういえば、楽器のお手入れなんだけどさ」


 歩きながら、須賀さんは、唐突に思い出したかのように言う。


「中のお掃除はしてると思うけど、キーのほうの掃除ってやり方わかる?」

「キーの掃除?」


 内部の水滴をガーゼで拭いたり、表面を磨くのは知ってるけれど、そういえば、キーのことまで考えたことはなかった。


「キーの裏側、タンポっていうのが付いてるんだけど、そいつを時々クリーニングペーパーで掃除しないといけないんだ」

「えっ、そうなんだ」

「今みたいな梅雨時とか、余計に湿りやすいからね。あんまりそのままにしとくと傷んじゃうから、早めにやっといたほうがいいよ」

「知らなかった。その、クリーニングペーパーって、普通に楽器屋さんに行けばあるもの?」

「うん。大体どこにでも売ってると思う。今日この後にでも、行ってみる?」

「行きたい。ありがとう」


 そういうわけで、私達は、そのまま楽器屋さんに向かうことになった。

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