銀色シンフォニー
霜月このは
第一番『銀色の楽器』
第一楽章 Allegro misterioso
猫とフルート(1)
その音は、銀色できらきらして、透き通るようで、ただただ、私の心を揺らした。
*
朝の廊下に、澄んだ音色が響き渡る。須賀さんのフルートの音は、他の人よりもひときわ輝いていて目立つから、すぐにそれとわかる。
私は息を弾ませながら、四階への階段を上る。やっぱり、須賀さんだ。音楽室の前の廊下のいつものポジションで、窓の外のテラスのほうを眺めながら、一人で音を鳴らしている。
「須賀さん、おはよう」
「あ、進藤さん。おはよう」
「今日も早いんだね」
「まあ、他にやることもないからさ」
須賀さんはけだるそうに、あくびをしながら言う。艶やかな音とは裏腹に、気の抜けた表情。暑いのか、シャツの胸元は第二ボタンまで開けて、無防備によれてしまっている。
ここは一応共学校で、男子もいるのだが、気にする様子は全くない。
ちょっとの会話を交わすとすぐにまた、楽譜に目線を戻して音を鳴らし始めた。
なんだかんだ言いながら、須賀さんは、練習熱心だ。そして、その練習の成果が、音にも現れているんだと思う。
噂によれば、部活動とは別で、フルートの個人レッスンにも通っているとのことだから、上手いのも当然なのかもしれない。
一方の私は、高校一年の今年の春になって初めて、楽器というものに触れた。まだ始めてから二ヶ月経つかどうかというところ。
楽譜の読み方は、義務教育で申し訳程度に教わっているけれど、だからといって、楽器を吹きながらすんなり読めるかといえば、当然そんなことはない。
同じ学年で、同じ楽器を吹いているというのに、須賀さんと私のレベル感というのは、まるで大人と生まれたばかりの子供くらいには、差があるのだった。
せめて早く中学生レベルくらいにはなりたいな、などと思いながら、楽器を組み立てる。ひやりとした感触が気持ちいい。ついつい首元にでも当てたくなるのを我慢して、リッププレートを唇に当てる。
三年生の先輩が五線譜に手書きしてくれた練習メニューを、ひとつひとつ、こなしてゆく。始めは音階練習から。次に一音ずつ音を長く伸ばすロングトーンの練習、細かい音符の指の練習、タンギングの練習。
基礎練、と呼ばれるメニューはたくさんありすぎて、なかなかゴールが見えない。毎日それをなんとかこなすことだけで精一杯で。自分では上達しているのかどうかさえわからない。
「進藤さん、ちょっと」
「え、あ、はい」
須賀さんだった。吹いているところに、いきなり話しかけられて、びっくりして敬語になってしまったけど。
「ごめん、そこの音、さっきからずっと、♯が落ちてるから、気になっちゃって」
「えっ……あ、ほんとだ。気づかなかった。ありがとう」
恥ずかしくて顔が熱くなる。しょっちゅう臨時記号を落としてしまうのは悪い癖だ。
「うん。それだけ。邪魔してごめんね」
言うだけ言うと、須賀さんはまた自分の場所に戻っていった。
内心、ちょっとつまらないな、と思う。
このオーケストラ部へ入部してから二ヶ月、フルートパートの一年生は二人だけなのだから、もうちょっと話してくれてもいいのにな、と。
須賀さんも私との距離を測りかねているのか、それともこんな足を引っ張るだけの初心者など、まるで眼中にないのか。
わからないけれど、今こうして、私の間違いをわざわざ指摘してくれたということは、全くの無関心というわけでもないだろう。とりあえずそれだけは確かだった。
元の場所に戻った須賀さんは、足下に置いてあったペットボトルのミネラルウォーターをがぶ飲みすると、ため息をついた。
暑いからだろう、須賀さんの顔は心なしかさっきよりも紅い。少し汗ばんで、乱れた前髪がおでこに張り付いているが、本人は気づいていなさそうだ。
それにしても、ストレートヘアの人は、汗をかいても髪が張り付く程度で済むのか。うらやましい。
須賀さんは黒くて真っ直ぐな長い髪を、いつもまとめるでもなく、下ろしたままにしている。
校則の緩い高校だから、もう少しおしゃれしても咎められることもないのだけれど、化粧っ気もないしアクセサリーなどもしていない。
お人形みたいに彫りの深い顔立ちだから、化粧なんかしなくても済んでしまうのだろう。
そんなことを考えているとチャイムが鳴って、朝練の時間が終わった。楽器をケースにしまって、楽器庫に置きに行く。
フルートパートのスペースに自分の楽器を置いて、狭い道を戻りながら、須賀さんとすれ違う。
「おつかれさま」
「ああ、うん」
何か考えごとでもしているのか、不機嫌とまではいかないけれど、なんとも心許ない返事だった。
しかしこちらも、そんなことを気にしている余裕はない。本鈴が鳴る前に一年C組の教室へ急いだ。
この学校には朝のホームルームがないので、次のチャイムですぐに一限目の授業が始まるのだ。
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