妖艶な口元

 あの日の口づけを僕は忘れることは無いだろう。あれが恋だったのかと聞かれたら分からない。しかしそこに何か特別なものがあったのは間違いないないだろう。



 むせ返るような暑さが体の隅々まで包み込むような夏の日、教室の窓から僕は一人の少女を見ていた。

 僕を蝕むこの憎たらしい日差しの中、彼女のその透き通る肌、風になびく長髪、澄んだ瞳、そして口元にある妖艶な黒子はまるで天使としか形容できないほど美しいものだった。


 僕はそんな彼女に目を奪われていた。

 

 彼女との出会いは去年の春である。クラス替えでみんながソワソワしている中、まるで自分が中心であるかのような優雅な面持ちでそれでいて優しい表情で彼女はそこにいた。

 

 運が良いのか悪いのか彼女の隣の席であった僕は、彼女のことを別世界の住人であると決めつけ全くと言って良いほど関わりを持とうとしなかった。彼女は影で囁かれている学年美少女ランキングで一位であり、対して僕はクラスのカースト最底辺。友達もいなければ成績がいいわけでも運動が出来るわけでもない。そんな僕が彼女と言葉を交わそうなんておこがましいにも程があるだろう。


 しかしそんな僕の思いはすぐに裏切られる事となる。


 彼女は優しいのだ。彼女はどんな相手にでも分け隔てなく接し、どんな状況でもいつもその花のような笑顔を咲かせるのだ。僕はそんな彼女に少しずつではあるが心を開いていった。


 学校の帰りに声をかけられ振り向くと、そこには彼女がいた。いつものようにその長い綺麗な黒髪を風になびかせ鈴の音のような声で言葉を紡ぐ。


「今帰り?一緒に帰ってもいいかな?」


 僕にはこの問いかけを肯定する以外の選択肢が無いのを彼女はきっと知っている。


「い、いいよ。駅の方向一緒だもんね」


 これが僕の精一杯だった。そこから先はきっと他愛もない話をしたに違いない。自分の破裂しそうな心臓の音しか覚えていない。

 彼女は本当に楽しそうに話し、楽しそうに話を聞いてくれる。これが彼女の人気の一番な理由だと思う。しかしそんな幸せな時は長くは続かなかった。


「待ってたぞ、遅いじゃないか。てかそいつは誰?」


 近くの高校の制服を着た男が僕達に話しかけてきた。一瞬戸惑いはしたが、僕は人違いではないかと声に出そうとした。


「えっと、人ち」

「委員会がちょっと長引いちゃって」


 しかしそんな僕の言葉は虚しくも彼女の言葉で遮られた。


「ごめんね、帰り道の話し相手になってもらっちゃって。また明日ね」


 そう言って上目遣いで謝り、見知らぬ男と去っていく彼女の姿を僕は呆然と見届けることしか出来なかった。

 どれくらいの時間そうしていたのだろう。僕は彼女と別れたその場で立ち尽くしていた。何を期待していたのだろう。彼女が優しさで僕に話しかけてきていたことは初めから分かっていたはずなのに、何を求めていたのだろう。


 次の日の昼時、いつもと同じむせ返るような暑さの中、彼女はさも涼しげに僕の教室の窓際の席以外からは死角になっている花壇のそばのベンチでご飯を食べていた。隣のクラスの男子と二人でだ。

 僕は素直に疑問を抱いた。昨日の男は何だったのだろう、そして、今一緒にいるその男は何なのだろう。

 そう思ったいた時に、前の席から話し声が聞こえてきた。


「あの子すっごい可愛いけど、かなりの悪女らしいよ」

「まじ?」

「まじだよ。なんか自分が気に入った男を次々と付き合いはしないけど事実上付き合ってるような関係にするらしいよ」

「それ何股もしてるような感じ?」

「まぁそんな感じだよね」

「えー、でもあんなに可愛い子があの上目遣いで口元に笑み浮かべながら言い寄られたら、それが分かってても拒めないよな。むしろ歓迎」

「そーだよなー」


 それを聞いて僕は全てにおいて合点がいった。

 彼女は優しくなんかなかったのだ。全てにおいて計算し尽くされていたのだと。


 しかしクラスメイトが言うこともわかってしまう自分がいた。僕も思ってしまったのだ。例えそれが計算し尽くされたあざとさだったとしても、例えそれが手の平で転がされ弄ばれることだったとしても、僕にも餌を与えて欲しいと。


 その日、僕は不運にも先生に書庫整理を頼まれていたため学校を出る頃には日が暮れはじめていた。誰もいない、まるで自分だけが世界に取り残されたような夕暮れ時。正門を出るとそこには彼女がいた。まさか自分に用があるとは思いもしないし、さっきの話を聞いた後だ。会釈だけして通り過ぎようとした。しかし、それは叶わなかった。


「待ってたよ!中々来ないからもう帰っちゃったかと思ったよ」

「......え?僕を待ってたの?」

「そうだよ。昨日話の途中だったし、急にバイバイしちゃったから謝りたくて」


 そうお得意の上目遣いを交えながら彼女は言った。


「なんでそんなに僕に構うの?」

「だって同じクラスの友達でしょ?そんなおかしなことかな?」

 口元を緩ませながら彼女は続ける。

「それに私、結構君のこと気になってたりするんだ。なんてね」


 僕は心の底から嫌になった。自分自身がだ。頭では分かっているのだ。彼女の本心がここにあるわけがないと。でも心が惹かれてしまうのだ。


「照れてるの?可愛いところもあるんだね」


 そんな彼女の目を見ることは僕には酷というものだ。


 その日も他愛もない話をしながら駅へ向かい歩いていく。


「ちょっとそこの公園に寄らない?」


 僕は自分のこの気持ちがなんなのか知りたくて、そう彼女に切り出した。


「いいよ」


 彼女は言葉少なく僕の提案を受け入れた。


 自分でも何をしているのか、こんなことに意味があるのか分からなくなっていた。もしこの数分間のせいで、何か大事なものを失ってしまうのではないかという不安にも駆られた。しかし、この気持ちがなんなのかを確かめずにはいられなかった。


「なんでこんな僕に構うの?」

「さっきもそれ言ってたね。君のことが気になるからだって答えたじゃん」

「本当はどうなの?僕には君が心からそう思ってないのがなんとなくわかるよ......」

「......きゃダメ?」

「ごめん、聞こえなかった」

「理由がなきゃダメなの?君と話すことに何か特別な意味がなきゃダメ??」

「そ、そんなことないけど。でも......」

「でも?」


 この時彼女は僕の口から紡がれる次の言葉をきっと察していたのだろう。


「「えー、でもあんなに可愛い子があの上目遣いで口元に笑み浮かべながら言い寄られたら、それが分かってても拒めないよな。むしろ歓迎」」

「「そーだよなー」」


 僕は何故か走馬灯のように、今日の昼クラスメイトが話していた会話を思い出した。


「......ここ最近君のことが頭から離れないんだ。僕は君のことが好」


 しかし僕は自分の気持ちを彼女に伝えることは出来なかった。何故なら、彼女のその妖艶な黒子を備えた柔らかくて暖かい唇が僕の口を塞いでいたからだ。


「?!」

「話は終わり。今あったことはみんなには内緒だよ?明日からもいろんなお話したり、仲良くしてね。今日はもう帰ろっか」


 そしてもう一度、優しく割れ物に触れるように唇を重ねられた。


 僕はそれ以上何も言うことは出来なかった。この感情は恋と呼べるのかは分からない。しかし、何か特別なものであることだけが分かった。 

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