26 愛と恋
ヘイゼルは走っていた。視界はぼやけ、その上絶えず、無形の粘性生物がのたうち回るように歪み続けている。
それでもヘイゼルは、その視界の中でただ一つ確かに輝く光点に向け、己の肉体を動かし続けた。
まっすぐ走れているのかも怪しい。時折何かに蹴躓き、その都度体が地面へと転がったが、よろめきながらも立ち上がり、また走り出す。
バイオロイド管理室のメンテナンスカプセルの中で、ヘイゼルは『コロス!』という叫び声を聞いた。
そう、それはまさに『叫び声』だった。絶望の淵で上げる悲鳴ともいえるだろうか。欲しくて欲しくてたまらないもの、しかしそれを求める『渇望』が潤される時は決して来ないと悟った時の、その絶望によって引き裂かれる音――
ただし、もうすでに『コロス』という叫び声は聞こえなくなっている。なぜそうなったのか、ヘイゼルには分からないが、ならばその動きを穏やかにすればよいのではないか――しかしヘイゼルには、フユがいまだ深刻なリスクの中にいるように思えてならなかった。
命の危険ではない。このまま見過ごせば、フユがフユでなくなってしまうような、そんな不安がヘイゼルを急き立ててやまなかった。
投与されてしまった鎮静剤の影響はまだ色濃くヘイゼルの体を覆っている。ふと足から力が抜け、ヘイゼルは踏ん張りがきかずに地面へと転がった。
散々暴れた挙句に飛び出してきたせいで、何も身につけてはいない。灰色に変わった肌には無数の傷と砂と泥がついているが、しかしヘイゼルはそれを気にすることなく、よろよろと立ち上がった。
無理をしたせいだろうか。鎮静剤の効果は抜けるどころか、さらに影響を増している。
ただ、光の方へ――ヘイゼルが思い右足を一歩前に出した。
と。何かしらの物体が突然目の前に現れた。闇の中、その影がヘイゼルの前に立ちふさがる。
その気配――敵。ヘイゼルは本能的にそう判断した。
生かしていては、きっと自分の邪魔をする。ヘイゼルが求めてやまない対象を奪い去ろうとする者。そうなればきっとヘイゼルは、あの悲鳴のように、二度と癒されることのない渇望の中で絶望に叫び、闇へと堕ちていくだろう。
消さなければならない――この存在を。
ヘイゼルは意味をなさない言葉を吐きながら、その影へと殴り掛かった。しかしその手首は難なく捕らえられてしまった。
「やめなさい、ヘイゼル。私だ」
私――いや、その者は『私』ではない。『敵』だ。
ヘイゼルが声の主へと蹴りを繰り出す。相手が人間ならば、次の瞬間、骨の砕ける音と共に後方へと吹き飛んでいったことだろう。
しかし『敵』はその蹴りさえも難なく受け止めてしまった。ヘイゼルはそのまま地面へと仰向けに組み伏せられてしまう。
「ファランヴェールだ。分からないのか、それとも、分かっていてそうするのか、どちらだ」
威厳と尊厳で相手を威圧するような声。
敵……敵……
ヘイゼルは、唯一空いていた左手でファランヴェールが着ていたローブの首元をつかんだ。
「放せ、ファランヴェール。フユが、フユが危ないんだ!」
その言葉に、一瞬、ファランヴェールの力が抜ける。
「やはり……君にはこんな時でもマスターの居場所が分かるのか」
ファランヴェールがそうつぶやいた。
その呟きには様々な感情――安堵、感嘆といったポジティヴなもの、悲観、嫉妬といったネガティヴなものがないまぜになっている。
一つ言えるとすれば、その瞬間ファランヴェールの意識はフユとヘイゼル、その『像』へと向けられていたのだ。そのすきを、ヘイゼルは見逃さなかった。
脚でファランヴェールの腹をけり上げる。そのまま、巴投げのように投げ飛ばした。
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