第七章

7-1

 千尋が、依里を家までおぶっていった。美香奈と慈愛は手伝うと言ったのだが、千尋は断固として断った。男なんだから、このくらいは義務のうちだと思ったのだ。


 途中で依里が目覚め、降りると言ったのだが、千尋は構わないからとおぶい続けた。依里が千尋にだけ聞こえる声で、


「ありがとうございます」


 と言った。大丈夫、<縁脈>は変わってしまったのだから。


 依里の家に着き、慈愛がチャイムを押した。今度もまたピンポンという音が玄関を抜けて聞こえてきて、夜のこの時間に近所迷惑にならないかと心配になる。


 家の中からハイハイという声と共に、母親が玄関の扉を開けた。依里の様子に驚くと、突っ掛けに足を絡ませながら玄関から転がるように出てくる。


「依里! 依里! どうしたの」


「大丈夫だから。ちょっと疲れただけ」


 千尋の背中から降りて、依里が答える。一歩踏み出しかけてふらついて、千尋に抱き支えられた。


 慈愛が母親に説明する。


「軽い眩暈がしたそうで、近くの公園で千尋くんと休んでいるところに私達が通りかかったのです。しばらく様子を見ていたのですが、やはり帰ったほうが良いだろうと思いまして」


「すいません、先生にまで御迷惑を」


「それよりも、早く中で休ませてあげてください」


「あ、はい。そうね、そうですね」


 家の中から、男の大声が響く。


「おい! 何やってんだよっ! ビールが空になったぞ。次ないのか、次!」


「ハイハ」


「お母さん」


 依里が半ば千尋に身体を預けながら、母親の腕を掴んだ。


「お母さん、駄目よ」


 母親が戸惑ったように依里を見る。


「でも……」


「お母さん。——もう、やめようよ」


 見つめあうこと十秒くらい。ふっと母親の力が抜けて、ようやく口を開く。


「そうね。……そうよね」


 最初から分かっていたことを、今更ながらに再確認したような言葉。分かっていて行動できなかったことを、やっと行動に移そうという決心。


 母親は家の中に向かって言う。


「知りませんよ。今は依里が大変なんだから、静かにしていてください」


「何だと?」


 家の中から、のっそりとした動作で男が現れた。無精髭に、落ち着きなく足を揺らしている。派手なシャツはズボンからだらしなく出たままだし、こんな男のどこが良いのか全然分からない。


「なんだよ、小娘が男に抱かれて帰ってきたってか」


「なんてことを言うんですか!」


「んだとぉ!」


 男が母親の肩を突いた。母親はよろけそうになるが踏み止まり、男を睨みつける。美香奈が手を出しそうだったので、千尋がその手をおさえた。


「だって、千尋」


「大丈夫。<縁脈>は変わったはずだから」


 母親が男を睨むと、毅然とした態度で言った。


「出ていってください。私と依里とが静かに暮らしていくために、あなたは必要ありません」


 依里も体重を母親に移し、男に告げる。


「堕ちていくなら、一人で堕ちていって。私とお母さんは、あなたなんかにひきずられていかない」


「お前ら、どのツラ下げて、んなこと言えんだよ」


「何とでも言ってください。私はもう、泣き寝入りはしません。出ていって下さい」


「とか言って、俺がいないと駄目だって泣いて頼んだのは、お前だろうがよ」


「いつまでも同じだと思わないでください。私が一番大事なのは、依里なんです。私は間違っていました。本当に大切なものが何のか、決めれずにいました。でも今ならはっきりと言えます。私と依里が暮らしていくために、あなたはいらない人間なんです」


「ふざけんな!」


「ふざけていません。出ていってください」


「出ていって」


 依里が言葉を重ねる。


 男が拳を振り上げようとしたところに、慈愛が割って入った。


「そこまでにしなさいよ」


「ああん?」


 男が慈愛のほうに首を曲げる。慈愛の中で、いつかの男子大学生の姿が重なる。もう名前も覚えていない青年だけど同じような濁った目をしていた。手がつけられなくなった関係は、一旦リセットしないと駄目なのだ。


 慈愛がカードを指に挟み、ゆっくりと振った。最後のひとつの、小さな<縁脈>を断ち切る。


 男は拳を収めて脱力した。


「ダセッ」


 色の剥げかけた靴に足を突っ込み、玄関の前に固まる依里達を肩で突き飛ばして家を出る。


 男が通りの角の先に消えたところで、依里が大きく息を吐いた。


「人がいるところでは殴ることも出来ないなんて、小さい男」


「依里、ごめんなさい。本当に、ごめんなさい」


「いいのよ、お母さん」


 依里は自分の足で立ち、慈愛達に向かって深々とお辞儀をした。


「ごめんなさい」


「いいのよ。それよりも、お母さんのこと助けてあげてね」


「はい」


 母親も何度も慈愛に頭を下げ、二人は家の中に消えていった。


 千尋達が帰ろうとすると、悠貴崎学園の制服の男子が歩いてきた。依里のクラスメイトの手塚だった。


 手塚は慈愛達に軽く頭を下げる。


「天城の家、どうかしたんですか?」


「ううん、大丈夫。君は、やっぱり来てくれたのね」


 手塚は力強くうなずいた。


「先生から話を聞いたあと、色々考えたんすけど、やっぱり俺、一度でいいから天城が笑っているところを、見たいっす」


「そう。それなら行ってあげるといいわ。天城さんをよろしくね」


「——はい」


 千尋と美香奈も「よろしくね」と手を振りながら、依里の家を後にした。


 これが問題解決になっているのか、千尋には分からない。もしかしたらあの男はまた戻ってくるかもしれないし、別の男が母親に近付くかもしれない。あるいは、別の男が依里に近付くかもしれない。あの二人の母娘がこの先ずっと安寧に暮らせるのかまでは、千尋には関与できないことだ。


 それでも、と千尋は思う。


 彼女らは立ち向かっていけるだろう。彼女らの周囲の<縁脈>は、変わってしまったのだ。


 拒否することの出来なかった弱い心。拒否することを恐れていた脆弱な関係性。それは全部、千尋が繋ぎ変えてしまった。


 彼女らは、立ち向かう意思を手に入れたのだ。


 そして助けてくれる人も。


 これで許しては貰えないだろうか。


 一瞬でも彼女達のことを汚いと思ったことへの、贖罪として貰えないだろうか。


 千尋は小さく願う。




 依里の家からの帰り道、美香奈は慈愛の腕を引っ張り、千尋に聞こえないように慈愛の耳に口を寄せた。


「先生、あの……ね?」


「うん?」


「あの子、言ってたの。<綻澱>が住み着いてたのは、私の子宮だって。ねえ、先生、それってもしかして……」


「うん? ……ああ! そういう心配! そうね、そうよね。……えーとね。少なくとも、<縁脈>の構造ってのは物理的な構造とは切り離されたものだから、そうね、例えばお腹の上からでも汚染させることは可能だと思うわよ」


「でも、もしかして……」


 慈愛は更に声を落して、美香奈の耳もとで聞いた。


「美香奈ちゃん、経験ないのよね」


「……はい」


「だったら、自分で分かるわよ。初めての時って、終ってからもしばらくは痛いものだから」


「そう……なの?」


「そうよぉ。結構長引くわよぉ。歩くの大変なくらい。だから、自分で分かるはず。それでも、心配?」


「……ううん。大丈夫」


 二人で内緒話を続けているところに、千尋が変な顔をして割り込もうとする。


「先生達、何を話しているんですか?」


「千尋は関係ないっ! あっち行って!」


「なんだよう」


 三人それぞれの家への帰路に分かれる交差点で、美香奈が千尋のところに駆け寄って言った。


「千尋っ。よかったね」


「何が?」


「内緒っ!」


 横断歩道を渡る美香奈の足取りが、不思議と軽いものに見えた。


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