3-2
秦悠大から通達があった。
引き続き監視せよ、と。
もとより校内の監視ネットワークは活かしたままにしてあった。そして同時に気付いてもいた。
<縁脈>が安定していない。
時折歪みのアラートがでて、すぐ直る。思春期の生徒は柔軟だが、同時に不安定でもある。
例えば赤ん坊は、「いないいないばあ」なんていう単純なトリックに大喜びする。子供はきっとああいうのが好きなのだろう。消えたかと思った親が、すぐに登場する。
あれと同じだ。ちょっと、傷ついたような様子を見せたからと思うと、何もなかったように元気で走ってみせる。
ただ逆に、本当に傷ついた時の影響が深刻になることもある。
「あの子はどっちかしらね」
天城依里——あわや倉坂の毒牙にかかりかけた女子生徒の心の傷は、いかばかりなものだろう。
技術科室での事件の後、彼女が自分からカウンセリングルームに来ることはなかったので、心配した慈愛は教室まで彼女に会いに行った。
「何も知りません。相談することもありません。先生みたいな女の人に、聞いてほしいことなんかありません」
まったく相手にされなかった。
淫行未遂事件ではあるけれど、裏では援助交際の可能性も噂されている。彼女がそうだったのかどうかは、本人が口をつぐんでいるし、その場にいた千尋と美香奈も記憶が曖昧ではっきりとしない。
社会人ってのがこんなに仕事が多いなんて思わなかった。分量の問題じゃなくて、種類の問題だ。あっちの仕事、こっちのトラブル、頭を切り替えるだけで大変になる。しかもお手本にする師匠もいない。
キーボードをカタカタ。
白衣をハタハタ。
ああ楽しいことだけをやっていればよかった、純粋な頃の自分が懐かしい。自分を形作る構造も、少しずつ歪んできているんじゃないか。
肩胛骨あたりの筋をゴキゴキ。
コンコン。
「ん? あ、はい。どうぞ」
背骨の音よりもよほど上品なノックの音に返事をすると、貴崎果帆子が部屋に入ってきた。
果帆子は優雅にお辞儀をする。
「先生、ごきげんよう。何かお悩みなのではないですか?」
「こんにちは。今日もあなたが私の悩みを聞いてくれるの?」
「ええ、そうですわ」
慈愛は手でソファーを勧め、自分も向かい合って座った。飲み物はいるかと聞こうかと思ったが、このお嬢様に下手な物は出せないし、一人の生徒だけを特別扱いするのも良くないだろうと思った。
果帆子は背筋を伸ばして座っている。優雅な物腰。一分の隙もない。
「そういえば、貴崎さんって、もしかしてこの学園をつくった貴崎一族の人?」
「はい。もっとも現当主の祖父は、学園の運営には口を出さない方針と決めていますから。——どうか他の方と同じように扱ってください」
「それはいいんだけどね。この学校に入ったのは、やっぱりお祖父さんの言いつけで?」
「いいえ。祖父も母も、好きにして良いと言ったのですが、私が希望して入りました。やはり勝手知ったるという部分はありますから」
「そう」
——。
沈黙の間が流れる。
勝手知ったるこの学園で、新入りの教師を前にして、彼女は何をしようというのだろうか。
「鬼は」
「え?」
「鬼は捕まりましたか?」
まただ。この子の言っている鬼とは何だろうか? あるいは他の話題?
「……何の話かしら?」
「倉坂先生の件は残念でした。生徒からの信頼の厚い先生だったと聞いています」
「それが、勝手知ったるっていうことの意味?」
秘匿されているはずの、倉坂の事件を実態を知っている。学校内の噂、いや噂にすらならないことも、全部掌握しているとでも言うつもりだろうか。
「どうでしょう。でも、先生のお力になれるのならば、と思いまして」
「あなたがどれだけの権力を持っているのかは知らないけれど、」
「違いますわ、先生。先ほども言いましたけれど、私の家は学園の運営には力を持ちませんから」
「それでも、勝手は知っているんでしょ?」
「ほんの少しだけ多くの情報を手に入れられるだけ、とお考えください。それよりも、鬼は捕まえましたか? 先日も言いましたよね。ゲームが始まるのです」
「それと倉坂先生と関係があると言うの?」
「先生、鬼は捕まえましたか? 。本当の鬼は誰ですか? 鬼ごっこは鬼を捕まえるものですか? それとも、鬼が誰かを捕まえるものですか? 鬼から逃げて隠れているのは誰ですか?」
立て続けに喋る果帆子は、それでも姿勢を崩すことなく、少しだけ早口になった口調も上品な圧力を保っている。
「それは、謎掛けかしら」
「先生、私は鬼ではありません。鬼ではないから、自分で走り回ることはできないのです」
「だから私をここに呼んだというの? 私がここに採用されたのは、理由があるとでもいうの?」
「先生、どんなことにも理由はあります。因果関係、構造、そんな言い方をしてもいいでしょう。先生がここにいらしたことにも、当然理由があるのでしょう。人によっては、それを神様の思し召しと呼ぶのかもしれませんが」
「それで?」
「先生、鬼ごっこはバランスが大切です。鬼の足が速すぎると、簡単に捕まってしまいます。逃げるほうが速すぎると、今度はなかなか捕まりません。鬼と逃げ手の足の速さが同じくらいで、捕まったり捕まえ返したりしているうちに、やがてどちらも鍛えられて足が速くなるのです。簡単に捕まえてはいけませんし、簡単に捕まってもいけません。バランスを保てば、どちらもが強くなるのです」
果帆子は立ち上がる。そして思い出したように指を頬に当てた。
「そうそう、先生、御存じですか? 日本の古い書物に出てくる八咫鴉のお話を。額が角のように尖っていて、その後の日本の伝奇に登場する、鬼の原型になったと言われています」
「……知っているわ」
果帆子は意味ありげに微笑んで、部屋を出ていった。入ってくる時と同じように、静かで優雅な動きだった。
彼女は八咫烏を知っている!
そしておそらく、慈愛が八咫烏であることも、知っている。その果帆子があのような物の言い方をするのだ、慈愛がここに採用されたのには、何か理由があるのだろう。
その理由が、貴崎家の問題なのか、八咫烏全体に関わる問題なのかは、今は分からない。下手なカマのかけかたも、ヤブヘビになりそうだ。
ただ、八咫烏が——鬼が主役のゲームとやらが、始まろうとしているらしい。そのゲームの参加者は、いったい誰なのだろうか。
慈愛は黙って自分の椅子に戻り、ぐるりと回す。
背中がゴキリと鳴った。
ゴキリ、ゴキリ。
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