2-2
「慈愛先生に言ったほうがいいんじゃないの?」
千尋は言うが、美香奈は構わずに千尋を引っ張っていった。
放課後である。
慈愛に言わなくても、慈愛に助けて貰わなくても自分達だけで解決できる。いやむしろ生徒の問題なら、同じ生徒のほうが相談に乗れるんじゃないだろうか。カウンセラーって言ったって、慈愛はどうもインチキ臭いし。
「二人で行ってみて問題がなかったらそのまま帰ってくればいいじゃない」
「その子が誰かも分からないんだろ?」
「多分一年生よ。見たことない顔で制服が新しかったから」
「なんで一年生が倉坂先生のところなんかに行くのさ」
「だから怪しいんじゃない」
共有棟の一階の入口で立ち止まり、左右を確認。ヤバげな気配はない。技術科室は掃除の生徒が出ていったばかりのところで、誰もいない。もちろん、倉坂と女子生徒もだ。こっそり準備室の様子を調べてみたが、空室のようだった。
美香奈は技術科室を一周し、机の下やロッカーを確認してから、昼休みに積んだ材木の前で止まった。
「やっぱりここかなあ」
「なにが」
「隠れる場所よ、ちょっと片方持って」
力仕事は美香奈が得意なんじゃなかったのかとぼやきつつ、千尋は畳一畳分くらいの合板の端を持つ。壁との間に隙間をつくり、上と側面に板を立てかけた。
「この隙間に隠れていようよ」
かなり無理があるとは思ったが、こうなると美香奈は言うことを聞かないので、千尋も渋々と隙間に潜り込んだ。しかしやっぱり狭い。
「ねえ、美香奈」
「なに?」
「やっぱり慈愛先生に言わなくて良かったのかなあ」
「……千尋って、ああいう感じの人が好きなんだ」
「はあ? 何言ってんだよ。これ言い出したの先生なんだからってだけだよ」
「本当にそれだけ?」
「それだけも何も、僕は別に調べたくなんかないんだし」
「ふうん」
なんとなく気まずくなって顔を逸らせる。やっぱりこんなこっそり調べる真似はやめて、慈愛に知らせにいこうと千尋は思い始めていた。
「あ、誰か来た」
板の隙間から部屋の様子を見ると、倉坂と女子生徒が入ってきた。
「あ、あの子、
「知ってるの?」
「天城
倉坂は部屋の鍵を閉め、ついでにドアの覗き窓のカーテンも閉めた。気がつかなかったけど、いつのまにあんなカーテンを付けたのだろう。他の教室には付いていないはずなのに。
「座りなさい」
言いながら、窓のカーテンを順番に閉めていく。暗幕じゃない薄いカーテンだが、目隠しには十分だ。材木の山の隣を倉坂が通った時、千尋と美香奈は思わず息を止めた。大丈夫、ばれてない。
「さっきの話は、古賀先生にも相談したんだな」
「……はい。あと、担任の先生にも」
「カウンセリングルームは行ったのか?」
「なんか……行きにくくって」
「まあ、あの先生じゃ行かないほうがいいかもしれないな。うん、やめておいたほうがいい」
「それに家のことだから、あんまり色々な先生に相談するのも変ですし」
「いやそんなことはないぞ。天城くらいの年齢だったら、家の問題だって教師が一緒になって解決していかなくちゃいけないんだ」
「先生……私……男の人の力が必要なのかもしれない……です……」
千尋の隣に美香奈が密着してくる。板の隙間からだと部屋の様子が見れる範囲が限られていて、必然的に位置を変えないと見えない場所が出てくる。千尋は離れようとして身じろぎするが、あまり動くと板が倒れそうな気がする。隣の美香奈の吐息が自分にかかるような気がして、ポケットから手ぬぐいを出して拭いたい衝動にかられた。
材木の隙間から見える技術科室の中央では、椅子に座る依里に倉坂が近付いていた。さりげなさを装って、隣に椅子を置いて座る。
「俺と古賀先生に任せておきなさい。いいか?」
「……はい」
技術科室の机は、木製で四人がけの武骨な机で、ゆうにシングルベッドくらいの大きさはある。倉坂は、机の上に依里を横たわらせた。依里は黙ってそれに従う。言葉を発せないのか、分かってされるがままなのか、千尋のところからだと細かな表情までは分からない。
倉坂が依里の制服のボタンを上から順番に外していく。上着ははだけ、ブラウスは胸の膨らみにひっかかって止まった。倉坂はそれをあえて脱がそうとはしない。
次に倉坂は依里の太股の上に手を伸ばした。依里は黙ったままだ。倉坂の手はわざとらしく動いてスカートの裾をたくしあげようとする。机の上で依里が拳を震わせるのが見えた。
千尋は手を握る。指先が美香奈の手にぶつかって、あわてて手を引いた。手の平に汗をかいているのを感じる。唐突に吐き気がこみあげてきた。それが技術科室での光景のせいなのか、その隅の狭い空間に閉じ込められたせいなのか、隣にいる美香奈の匂いのせいなのかは分からない。
ただただ、ひたすら息苦しくなり、この場を飛び出したい感覚に突き動かされそうになる。嫌な感覚だ。心臓の裏側のあたりから首筋にかけて、身体の内側を走る筋肉が堅くなるような感覚に縛られて、動きたいのに動けなくなる。
隣で、美香奈が唾を飲む音が聞こえた。
少女——天城依里は、ザラザラした茶色の机の上に横になって目を閉じた。
仰向けになった時に天井の蛍光灯が見えたが、灯りがついていないので残像もなく、視界はすぐに真っ暗になった。
と、同時にいつもの映像が浮かび上がってくる。
小さな鼠が、ハムスターが回し車の中で走っている。カラカラという音がする。どこまで走っても前に進むことはないのに、ハムスターは飽きることなく走りつづける。
クリーム色のハムスターは、マロンという名前で、依里が幼い頃飼っていたハムスターだった。
友達の家で飼っているのを見て、どうしても欲しくて父親にねだったのだ。
「ほうら、依里が欲しがっていたハムスターだよ」
そう言ってケージを持ってきた父親の顔は、しかし頭の中の映像でははっきりと思い出せない。
五年前に死んだ父の写真は残っているし、思い出そうとすれば簡単に思い出せるのに、このシーンの父親だけは、どうしても暗い影になっていた。
ハムスターが走る。
回転する音がする。
この音を聞いていれば、自分は大丈夫。簡単に意識を飛ばして、心と身体を別のものにできる。何をされても平気。今の自分は自分であって自分でないもの。
ここにいるのは、何者でもない。ただ空っぽになった自分の身体を、穢れで満たしてくれる、汚れた存在。
ただ、それだけ。
授業時間中のカウンセリングルームは、基本的に暇だ。これで保健室みたいにベッドでも置いてあれば、サボりに来る生徒の一人や二人は常連になるのだろうけれど、簡素な部屋にはそんな客は来ない。
生徒とカウンセラーの距離が近付きすぎるのも好ましくないので、慈愛としてはこのくらいで丁度良いと思っている。実際カウンセラーとしての仕事は始まったばかりで、何か大きな問題ごとを解決した訳ではない。解決するのがカウンセラーの仕事ではないが、やりがいという点ではいまひとつだ。
机の上に置いたコンピュータのキーボードを叩きながら、慈愛は頭を振った。
いやいや待て待て。やりがいとか、違うから。これは本業じゃないって。
卒業して研究室に遊びに来た先輩の言葉を思い出す。懸命に就職活動をして企業の研究室に入ったはいいけれど、大学で学んだ境界領域の学問なんか役立つ場所はほとんどなくて、自分の専門なんかはあまり関係なしに、企業の利益に繋がる仕事を押しつけられる、と言っていた。
ビールを飲みながら、それでもやりがいがあるんだと照れたように話していた。やりがいなんてものを口にするようになった自分がくすぐったいようで、でも他の言葉で表すことのできない気持ちを抱えていたようで。
私はそうなりたくないと漠然と思ったはずなのに、同じような立場になりかけている。
ううん、そうならないために、校長の出した条件をクリアしなくちゃ。
終業のチャイムが聞こえた。
肩をごきごきと鳴らし、コーヒーを片手にキーを叩く。学内のネットワークと、見回り途中に設置した観測者のカードを通して、学校の中の<縁脈>は把握できている。そこに歪みが生まれたら、即座に慈愛のもとに通知されるはずだ。
八咫鴉と呼ばれる人々がいる。
八咫鴉は、はるか古代から日本の裏神道を支えてきた
慈愛のもう一つの顔は、八咫鴉である。正確には、かつて漢波羅の八咫鴉であった。
慈愛は漢波羅から逃げ出し、
許せなかったのだ。
漢波羅を維持するためだけに暗躍する八咫烏の仕事、それに逆らえなかった自分、そして救えるはずだったのに救えなかった人々。過去のとある事件をきっかけに、慈愛は漢波羅に対する信頼をすべて失ってしまった。
だから、逃げた。
縁脈は人々の中にある。八咫鴉の力は、人々を救うために使わなければならない。その思いに囚われてしまった慈愛は、漢波羅にはいられなかった。
同じような志の——鴉外衆は、少数ながら日本各地に散らばっており、ゆるい連係で結ばれていた。
鴉外衆になったからと言って、八咫鴉が持つ<縁脈>に介入する力は持ったままだ。世の中の<縁脈>の歪み、すなわち<綻澱>を除去する使命を否定したのではない。<縁脈>を読み、それを正す仕事は、人間がいるところには必ず存在する。
人間関係は<縁脈>の構造である。生徒と生徒、教師と教師、生徒と教師。いずれも正常な関係を築いていれば正常な<縁脈>が生まれる。
しかしその構造を歪める人間が現れることもある。そのような歪み、すなわち<綻澱>は、八咫鴉の力を持って抹消しなければならない。
それこそが、慈愛が鴉外衆を選んだ理由なのだから。
無理矢理押しつけられた淫行教師の調査だったが、慈愛の別の顔である八咫鴉の力と、無関係ではなかった。
そろそろ部室に三人が揃う頃だろうか。立ち上がろうとして腰を上げた時、端末からアラートが鳴った。
<綻澱>だ。
画面を確認、小さく舌打ちする。
二人に渡した名刺——あれは慈愛が使うカードのひとつだ——に埋め込まれた、銀紋によるアンテナが、<綻澱>のそばで反応している。
「あの子たちは、何をやってんのよっ!」
バッグの中からカードケースを引きずり出す。ドアの札を「外出中」に裏返して、部屋を飛び出した。
美香奈が立ち上がった。思い切り木材に頭突きをして、大きな音をたてて崩した挙げ句に蹴り倒す。
倉坂が驚いて動きを止める。
美香奈は倉坂を正面から睨みつけた。
「淫行教師発見っ!」
千尋は美香奈を止めようと思ったが、今の状況は、明らかに倉坂が犯罪者だ。美香奈を止める理由がない。
それにそんなことよりも、この気持ち悪い感覚から抜け出たいという気持ちのほうがはるかに強い。
「君達はそこで何を」
「調査ですっ! 悪徳猥褻淫行教師の調査をしていたんです」
倉坂はなんだという顔になる。少しずつ冷静さが戻ってくる。
「猥褻ってのはなんのことだい? 他人の恋愛を覗き見るのは、かなり趣味が悪いね」
「恋愛ってなんですか! エロいことしようとしてたじゃないですか、今そこで」
「恋愛だよ。なあ、天城?」
依里は目を閉じたまま、何も答えない。否定もしないということは、肯定と取られてもおかしくない。
「依里ちゃん、ねえ、黙ってないで嫌って言っていいんだよ」
「美香奈、そんな言い方じゃ、かえって怖がらせるだけだよ。ね、天城さん、僕達は姫末先生に頼まれて調べているんだ。嫌なことされたのなら、言ってくれていいんだよ」
しかし依里は口を閉じたままだ。
「確かに教師と生徒の恋愛は好ましくないかもしれない。できれば学校には黙っていて欲しいが、淫行呼ばわりは勘弁して貰いたいな。なあ、天城?」
倉坂は親しげに依里の腕に手を添える。依里はびくりと身体を震わしたが、それきりだ。嫌とも何とも答えない。
美香奈がキレた。
「その手を離しなさいよっ!」
倉坂に歩み寄って、手首を掴んで依里から引き離す。
「この淫行教師っ!」
「ちょ、ちょっとよしなよ」
千尋が止めようとして美香奈の反対の腕を掴んだ時——。
亀裂が走った。
少なくとも、千尋はそう感じた。
「俺に触るなっ!」
倉坂が上半身全体を大きく振って、美香奈の手を振りほどく。
かと思ったら、全身の力を急に抜き、両腕をぶらりと垂らした。
千尋の目には影が見えていた。
黒とも灰色ともつかない不定形の影が、倉坂の身体から滲みだし、倉坂を中心にした亀裂に浸透するかのように広がっていく。
亀裂は床、机、壁、いや技術科室という閉鎖した空間そのものに生まれている。壁から天井へと伸びた亀裂は殻を作り、空間全体を埋め尽くした。
変質した空気が、千尋の身体を舐め回す。
忘れてしまいたい光景が、千尋の目の奥のほうに湧き出てくる。赤い赤い、血液が、手にこびりついて離れない。忘れてしまいたい出来事。この場所の空気は、千尋の記憶の底から過去の景色を引きずり出す。
胸がつぶれそうになる。肋骨が軋み、両の肺を押し潰す。
そして。
物の見方が変わる。
空間に閉じこめられた千尋は、そうとしか表現しようのない感覚に襲われていた。
正と負、真と偽、表と裏、光と影。それらが反転、いや違う形に結びついたような、すべてのボタンを掛け違えているような強烈な違和感だ。
恐怖とも違う、息苦しさとも違う。
——何かが間違っている。
ここはそういう空間だ。
暗い影に埋められたはずの視界は、いつのまにか違和感という映像に支配されていた。
右を見ても、左を見ても、上を見ても、下を見ても。
——何かが間違っている。
「た、すっ」
声を出そうとして、声帯すらも違う回路に繋がっている感覚に打ちのめされた。
何かが間違っているのに、何が間違っているのかが、分からない。
慈愛は廊下を走った勢いそのままで技術科室のドアを開け、中に飛び込んだ。
踏み出すと、再び廊下。
振り向くと技術科室のドアがあった。再度中に入るが、廊下に出る。<縁脈>の歪みが物理空間をも歪曲させているのだ。
「子供みたいな真似よねえ」
慈愛は八咫鴉としては決して強力ではない。
しかし高度に洗錬された構造解析能力を駆使することで、<縁脈>の歪みや変化を把握し、的確な対処を行う能力を持っている。
観測者のカードを左手に、右手には介入者のカードを持ち、ドアの中にゆっくりと差し込んだ。
構造が慈愛の知覚に流れ込んでくる。
中でカードを一回転、ゆっくりと引き抜いた。
「こんな<綻澱>の発現の仕方があるなんて」
<綻澱>は<縁脈>の歪みの中に発生する。それは人や物に取り付き滲みでてくるが、せいぜいが精神や身体の不調を起こすくらいだ。
強いものになると、他の人に伝染するような場合もあるが、この技術科室は、箱状の空間全体が汚染され外部の<縁脈>との接続を断っている。
八咫鴉が<綻澱>の除去を行なう際に、それを固定化させて具現化してから清めるやりかたはあるが、それにしてもこのような発現は慈愛は見たことがない。
「とにかく介入しなくちゃ」
四枚のカードを取り出す。
三枚は介入者のカード、一枚は統率者のカードだ。
三枚の介入者のカードを空中に投げる。
カードは三角形に配置され、ドアのこちら側と向こう側の境界で止まった。
統率者のカードを額にかざす。同時に慈愛の額に光の角が現れた。
更にカードを二枚、背後に放り投げる。カードは慈愛の背中を包むように広がり、黒い羽となった。漆黒のカラスの翼だ。
統率者のカードをドアの境界にかざす。
構造解析、掌握、<縁脈>の末端に接続、介入を開始。
ドアに向かって一歩踏み出し、目を閉じる。
わずかに出来た<縁脈>の隙間に潜り込むように、慈愛はドアの境界に消えた。
目を開いた時には<縁脈>の内側にいた。歪んだ<縁脈>だ。
複雑に絡み合ったネットワークが、三次元に展開されている。ノードの先に複数のノード、更にその先にもノード、回り回って元に戻る。そこには法則性がない。<縁脈>に沿うように、<綻澱>が広がっていた。色があるようなモノクロのような、不定形の影が不規則に動きまわっている。
八咫鴉は縁脈を視る力を持つ。この空間に広がった縁脈は、あまりにも異質だった。
慈愛は<縁脈>に沿って知覚の手を伸ばした。四方に、八方に、遠く、遠く。
はるかな先で、中心を見付けた。中心にいたのは、昼休みに自分を糾弾した教師——倉坂だ。
そこを基点に<縁脈>を辿る。そして調べる。
彼の身に何が起こったのか。
——最初が何だったのかは、判別できない。中学の技術科教師として着任して、普通に授業を始めた。人前で喋るのは苦手だったけれど、手を動かしてやって見せれば生徒たちは納得してくれた。半田付けをしたラジオが動いただけで驚いてくれたものだ。
次第に高校の生徒とも話をするようになった。プラグがいかれたバイクを直してやった生徒に、変になつかれたこともあった。
ある女子生徒が工作用のナイフで遊んでいたので、厳しく叱った。道具は使いようによって人を傷つけられるんだという、ありふれた話をしただけだったが、その女子生徒は妙に感動したらしかった。その時かもしれない。自分は教師で、生徒の上に立つんだから、生徒達を導かなければならないと思ったのは。
正しいことだったはずだ。
教師なんだから、指導をしなければならない。
教師なんだから、生徒の上に立たなければならない。
教師なんだから、生徒よりも偉いんだ。
教師なんだから、生徒は自分の言うことを聞かなくてはならないんだ。
教師なんだから——。
どこかで回路が間違ってしまった。
慈愛はその<縁脈>の歪みに気付く。傲慢だ。勘違いもはなはだしい。
しかし、と思う。教師なんだから、特別なんだから、という同じような歪みは、誰もが持っているのではないだろうか。
間違いという形になって現れるかの違いこそあれ、そういう驕った気持ちがあることは、否定できないのではないだろうか。
だから同情もする。たまたま、たまたま倉坂が間違ってしまっただけなのだと。
「っ!」
刹那、慈愛の精神を違う感情が襲った。流れではない。静止した感情。いや、感情と呼べるのだろうか。
それは固くて強く、世界の震動を抑え付けてしまうような信号だ。
——汚い! 汚い! 汚い! 汚い!
——気持ち悪い! 気持ち悪い!
——汚いのは嫌だ! 汚いのは嫌だ!
——消えろ! 消えてしまえ!
幼い少年の歌声のように澄んだ信号が、歪んだ<縁脈>の動きを止めた。
ぶるんと身震いしたかと思うと、表面からしみ出した<綻澱>が形をなす
慈愛は周囲の<縁脈>の中に構造に、自己の構造を瞬時にリンクさせ、介入者のカードを六枚展開した。
次の瞬間には身体の認識を消去する。
翼と角があれば、八咫鴉の能力は定義できる。構造が存在するために、身体は不要だ。
上へ、もっと高い視点へ。
認知階層を主体から一段上に遷移させ、<縁脈>の構造を俯瞰する。
構造の解析ができてしまえば、視点は上がる。視点が上がれば<綻澱>の動きも容易に把握できる。
「知るは力、知識を破壊するのは更なる力よっ!」
<綻澱>は増殖する泡のように範囲を拡大し、慈愛の主体に迫っていた。
慈愛は主体を左右に移動させながら、介入者のカードのうち二枚を前に、四枚を四方に立体的に展開。
二枚のカードで<綻澱>の泡をつぶす。
大小の気泡が弾けて消えると、低い声が四散した。音ではない、言葉だ。
「教師なのだから、教師なのだから」
「正しいのだから、正しいのだから」
「先生に任せなさい、先生に任せなさい」
「先生のものになりなさい、先生のものになりなさい」
言葉は意味となり、<縁脈>のネットワークを伝わって慈愛の主体に襲いかかる。
それは傲慢であり、エゴだ。エゴという名の、歪んだ欲望であり、それこそが<綻澱>の源だった。
主体を動かして回避。脇をすり抜けた言葉が、主体を汚染する。
反吐がでそうな言葉、独善だ。
「そんな言葉に、私という構造は崩されない!」
二枚のカードを更に前へ。<綻澱>の気泡を侵蝕、突破口を作る。
同情するのはカウンセラーの仕事じゃない。
<縁脈>が歪んだのなら、回路を組み違えたのなら、直せばいい。
その誤りを自分で認識すれば、それでいい。
回路を組み直すのは、更に強い構造の力だ。
慈愛は四方に展開していた四枚のカードを方向転換させる。
剥き出しになった<綻澱>の中心に一気に突入させた。
「
中心を囲む<縁脈>の一部を切断する。
<綻澱>の発生源にいた倉坂の、外部との関係性の一部が切断され、同時に倉坂の外部認識も切り離された。
空間が戻る。
慈愛は認知階層を下ろし、主体と一体化した。
現れたのは、元の技術科室だ。空間の亀裂は修復されている。
かすかに残っていた<綻澱>の残滓を、慈愛はカードでなぎ払った。
教室の中央には倉坂がうずくまり、その周囲に三人の生徒が呆然とした顔で立っている。
意識はあるが、何が起こったのかは理解できていない。
いや、
慈愛は腰を落して、倉坂の背中に手を置いた。
「あなたは教師という立場を利用して、生徒に淫行をはたらこうとしていましたね」
「……そうだ」
その認識を持てば、今はいい。
言葉だけで罪を償えることはないけれど、ずれてしまった考え方を組み直したならば、次からは違う選択が出来るようになるだろう。
八咫鴉としての責任はここまでだ。
そしておそらく教師の同僚としての責任も。
千尋は目を開けた。胸を押さえていた手を、ゆっくりとおろす。
何が起きたのだろうか。
それとも、何も起きなかったのだろうか。
美香奈がいた。倉坂がいた。依里がいた。そして、慈愛が立っていた。
目を閉じていたほんの僅かな時間、自分の過去をえぐられるような、そんな不快感に襲われていた気がする。しかし、それが果たして本当に感じたことなのかすら、自覚できなかった。
自分が何に巻き込まれたのかすら、知覚できない。それは、とてつもない恐怖だった。
天城依里は、ずっと目を閉じていた。
お金なんか、どうだっていい。
本当にどうだっていい。
自分のことすら、どうだっていい。
先生が何かを言っている。知らない男女の声もする。でも、依里は目を閉じていた。
いつもそうだ。目を閉じていれば、やがて全部終わる。目を閉じたままハムスターの音を聞いて、身を任せていると、身体と心が分離する感覚に包まれる。人によっては気持ち悪いと思うかもしれないけれど、依里はむしろ居心地の良さを感じていた。自分が自分でなくなる時間こそが、自分が自分である時間のようにすら思えてくる。
だけど今日は違った。
急に空気が重くて息苦しくなったかと思ったら、自分が理解できない間にジェットコースターに三周くらい乗せられてしまったような吐き気だけを残して辺りが明るくなった。
目を開いたら、倉坂先生が床にひざまずいていた。彼を見下ろすように、二人の生徒と、カウンセラーの先生が立っていた。
何が起こったのか分からないという気持ちと、何が起こったところでどうだっていいという気持ちが、行きつもどりつを繰り返している。
でも、居心地が良いはずの時間が奪われたのは、少し許せないな。
◆
——数日後。
倉坂は謹慎処分になった。
その場にいた三人の生徒は、彼が淫行をしようとしたことを認めたという事実以外は、はっきりとは覚えていないようだった。少なくともそう証言しているが、得体のしれない気持ち悪さに襲われたとも言っている。学校側としては、教師に対する信頼が裏切られたことに対する不快感が形を変えて現れたのではないかと考えて、カウンセリングルームへ行くことを勧めた。
収まり方については、慈愛としては不満はない。
ただ、<縁脈>があのような形で具現化したという状況だけは記録に留めておく必要がある。
そう考えて、
返事はまだないが、むしろ都合がいい。
慈愛はやらなければならないことをやった。次はやりたいことをやろう。
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