第0話 -後編-
どうやら施設には、僕が学校に行っている間に若葉さんから連絡があったらしい。
職員の人に午前中に連絡した僕の父親の代理だと伝えると、若葉さんは応接室へとすんなり通された。
道中絡まれたせいか、一人になるとなんとなく寂しい。
応接室の前で僕は何をするでもなく、壁にもたれていた。
「おい弓、アイツ誰だよ」
声のする方を見れば、俊太くんと彼と仲良くしている子分のような男子が三人いた。
一人はなぜか煽るように、室内なのにサッカーボールでリフティングを披露している。
自慢したいお年頃なのだろうな。
「あの人は……」
なんと言っていいかわからず、僕は視線を宙に向ける。
僕の父親の部下だぜ、なんて言うのは感じが悪いしなぁ、と悩む。
「フン、お前あいつに引き取られるのかよ」
「まだ確実にはわからないけど、どうなんだろうね……」
俊太くんは僕のあいまいな返答に舌打ちをすると、勢いよく床を蹴る。
「テキトーに返事すんな!」
「ご、ごめん」
「俊太、イラつくなよ」
俊太くんの横にいる男の子、子分一号が肩に手を置きながら、僕の方を見る。
この目線は何度も浴びてきた。相手を下に見ているときの、嘲笑うような生暖かい泥に似た目。
「サンドバッグがいなくなると困る気持ちはわかるけどさァ」
俊太くんは子分一号の言葉に眉間のシワを深くさせると、「どうなんだよ弓」と唸るようにつぶやいた。
「いや、僕にもわかんなくて……」
「うるせーな!ハッキリ言えって俊太が言ってるだろ!」
しびれを切らしたように、子分三号が持っていたサッカーボールを僕に投げようとした時だった。
『うミィぃぃぃぃぃぃぃぃ』
耳鳴りがして、反射的に目をつむる。
手で耳を覆っても、モスキート音は手の隙間から容赦なく頭を一直線に貫いた。
「なんだよ、コレッ!」
子分三号の声に目をひらけば、彼に床から生えた謎の触手が絡みついている光景が目に入る。
これ、若葉さんのいう妖だよな。
ねばねばの粘液をまとった触手が、子分三号の体を絞るようにまとわりつき、ミシミシと軋ませる。
「い゛ぁあ゛!」
喉を押し潰されたような苦しげな声に、俊太くんも子分たちも僕も、全員が目を見開くしかできない。
「若葉さん!若葉さん!」
僕は一瞬の思考の後、弾かれたように若葉さんを呼びに行く。
応接室のドアを蹴飛ばさんばかりの勢いであけ、狂ったように若葉さんの名前を連呼する。
僕じゃ何も出来ない。
情けなくて泣きそうになりながら、それでも慌てた顔で振り返る若葉さんに向かって叫ぶ。
「若葉さん!助けて!」
若葉さんは何も言わなかった。呆然とする職員の人に一礼すると、立ち上がってすぐに僕の横を通り過ぎて、応接室を飛び出す。
彼はジャケットの内ポケットから小刀を取り出し、刀を抜きながら妖と一気に距離を詰める。
絡みついた触手をみるみる切り落とすと、子分三号を抱えて妖から離れた。
「コイツ、弓に何かしたか?」
「え?いや、何も」
「違う、妖じゃない。この子どもだよ」
若葉さんは小脇に抱えた子分三号を親指でさす。
「あっ、サッカーボールを投げられるかと……」
「やっぱりか」
若葉さんは忌々しげに妖を睨めつけると、頭を掻き回す。
「……弓、あれは単なる妖なんかじゃない」
床が水面のように揺れる。
「弓の守護霊が……暴走して妖になったモノだ」
「僕の、守護霊?」
『ゔい゛ぃ…いぃ……』
床からバケモノが生えて、全貌が明らかになる。
バケモノの声が出ているところは、クチバシのように見える。
「あれは、鶴だ」
若葉さんが静かにこぼした。
「鳳家が使う守護の術は……鶴として可視化される」
バケモノはタコ足で床を這うように進む。
バサ、と時折煩わしそうに体についた大きな羽を動かしながら。
「弓、下がってろ!」
若葉さんは近づいてくるバケモノのタコ足を短刀で切り落とす。
バケモノは体勢を崩して、狭い廊下で器用に倒れた。
しかしバケモノが寝転んでいるのは、わずかな時間だけ。
あっという間にタコ足を再生させると、再び巨体を重そうに起こしてこちらへ向かってくる。
「チッ、このレベルを俺だけで祓うのかよ」
若葉さんがボソリと吐き出した。
彼は短く息を吸うと、勢いよくバケモノの目玉に短刀を突き刺す。
『ぐゅぃぃいいいぃぃ』
バケモノから血の涙と、耳が壊れそうな絶叫。
バケモノは狭い廊下を暴れながら、玄関を壊して外へと逃げ出す。
若葉さんはそれに怯むことなく、次々バケモノを斬りつけていった。
バケモノはその度に絶叫するが、瞬く間にその傷を治してしまう。
「キリがねぇ!」
外に出たバケモノに斬りかかろうとした時だった。
「若葉さん!」
バケモノの触手に、若葉さんが殴られる。彼はあっさりと吹き飛ばされ、施設の生け垣に突っ込んだ。
僕と母さんが暮らしていたのは、小さなアパートだった。
田舎だから日当たりだけは良好で、いつもリビングという名の六畳ほどの洋室はポカポカしていた。
小学生の僕はこの洋室でよく日向ぼっこをしていた。
「母さん、絆創膏ある?」
「え、絆創膏?」
母さんは台所でテンポよく包丁の音を奏でながら聞き返す。
「そう絆創膏。今日図工の時間に切っちゃって、血が結構出たんだよね」
母さんは包丁を勢いよく置くと、ものすごい勢いで僕の前にやってきた。
「血が出たの!?」
僕は怪我をするのが久しぶりだから、すっかり忘れていた。
母さんは別に過保護でもないのに、やたらと僕の怪我を気にする人だった。
「まぁ、それなりに……ねぇ、なんでそんなに気にするの?」
母さんは見たことない顔をした。
眉を下げて、口を一直線に結ぶと、「んー」と口を閉じたままよくわからない音声を発した。
「あのね、弓。今はちゃんと話せないけれど、これだけは覚えておいて」
部屋のホコリがチカチカと西陽に反射する。
「弓の血は、特別なの。弓の血を誰かに飲ませたらダメ」
「誰が僕の血を飲むの」
僕は突然トンチンカンなことを言われて、吹き出した。それでも、すぐに真剣な顔のままの母さんを見て、僕も真剣になる。
「……いつか、弓の血を飲みたいと言う人が出てくるかもしれない。その時は本当に信頼できる人かちゃんと見極めなさい」
言っている意味が八割わからなかった。
ただ普段ヘラヘラとした母さんの本気の迫力に、僕はうなずくしかできなかった。
「若葉さん!大丈夫ですか!?」
「っ、へーきだ。枝が刺さって痛ってぇけど、クッション代わりになった」
若葉さんは生け垣に埋もれた上半身を起こし、枝や葉っぱを軽く手ではらう。
僕も若葉さんの背中に軽く刺さった枝を抜く。
「っ、弓!」
勢いよく背中を押され、僕も生け垣に突っ込む。
それとほぼ同時に、真横で雷が落ちたような轟音が響いた。
触手を地面に叩きつけた音だと気がつくのに時間はかからなかった。
「けほっ、若葉さん!」
土ぼこりの向こうに、生け垣に沈みこんだ若葉さんが片手をヒラヒラとさせるのが見えた。
「すみません!僕が……」
「まじで平気。
彼の片手を引っ張り、生け垣から起きるのを手伝う。
ふいに、自分の手首が枝で切れて、血が出ていることに気がついた。
「若葉さん」
「ん?」
「僕の血、飲みませんか?」
バケモノの足音か、僕の暴走する鼓動か、頭にドンドンと響く音は不思議と気にならなかった。
自分でもなんでこんな思考に至ったのかわからない。
それでも母さんがかつて教えてくれた僕の血を飲みたい人が、若葉さんのような気がした。
「何言って……」
今の自分の表情はわからない。でもきっと、あの日の母さんとまったく同じ顔に違いない。
「意味、わかってるんだな?」
若葉さんの目が鋭く僕を射抜く。
正直に怯んだことを表すように、差し出した手が一瞬だけ震えた。
「わからないです。でも、必要な気がしたんです」
若葉さんは何も言わなかった。
何も言わずに、僕の手首にキスするように、静かに滲み出ている血を舐める。
一度だけ、大きく鼓動が跳ねる。僕はたったそれだけだった。
「ふーっ」
若葉さんは違った。
「こんだけなのに、全ッ然違ぇな」
笑った口から、さっきまでは無かった牙がのぞく。
「弓、伏せてろ」
そう言いながら一度軽くその場で飛ぶと、僕の真横を風になって通り過ぎていく。
バケモノの触手を斬り落としながら、鶴のような本体まで瞬く間に近づいた。
『う゛いぃいいいい!』
バケモノは飛び立つ瞬間のように、羽を広げる。若葉さんはその羽に乗って、大きく飛び上がった。
「おらァ!」
短刀を投げると、鶴の目玉に突き刺さる。
彼は目玉に突き刺さった短刀に飛びつくと、そのまま重みと勢いを使って首の辺りまで一気に斬り裂いた。
「あった」
切り裂かれた首から、小さな黒色の玉が出てきた。
若葉さんはその玉を手に取ると、短刀で勢いよく突き刺す。
粉々になった玉の破片が、陽の光を反射して鈍く光る。
『───────!』
聞き取れないほど甲高いモスキート音のような絶叫をあげて、バケモノは雪だるまのように融けて消えた。
「じゃ、弓が東京に来るあれやこれは全部決まったから安心しろ。担当のヤツが三日後に迎えに来るから」
「はぁ……」
怪我一つない若葉さんに違和感を覚えつつ、突っ込む気力のない僕は曖昧に返事をする。
「どうした?」
「いや、僕なんかが行っていいのか未だに……」
若葉さんは目線を上にやってしばらく何か考えると、もう牙のない歯を見せて笑った。
「弓、趣味あるか?」
「趣味、ですか?うーん」
母さんの姿が思い浮かぶ。
「……弓道、ですかね。家族との思い出もあって」
「弓道なら、うちでは最高に役に立つから大丈夫だな」
「いや、別に上手くないですよ?」
親指をたててウインクする彼に僕は突っ込むが、丸無視して笑っていた。
「……それに、俺は弓に助けられた」
「え?」
ふいに真面目な顔で、若葉さんはつぶやいた。
「俺は、弓に鳳の家に来て欲しい。命の恩人の弓に。それが理由じゃ、不満か?」
僕は首を横に振る。
「不満じゃ、ないです」
「ならよし!」
──僕の、居場所。
そんな言葉がよぎって、心の奥がじわりと熱を帯びた。
「そう……下がっていいよ」
男は膝の上でくつろぐ猫を撫でながら、静かにつぶやく。
丸い窓に腰掛け、月明かりを浴びる姿は月に還るかぐや姫のように美しく儚げだった。
男に報告を終えた家来は、一礼すると部屋を後にする。
「弓は鳳家へ行くらしいよ」
男は猫に語りかける。猫は気持ちよさそうに男の色白な細い指に喉を鳴らした。
窓辺だけ畳で残りは板張りの薄暗い部屋に、細い光の道ができる。
障子があいて、その隙間から差し込んだ光だった。
肩上げされた深い紫色の振袖を着た七つほどの幼い少女が、顔を出す。
「弔様」
瑞々しい桃の果実のような唇が、男の名前を呼んだ。
「おや、童」
「夕餉の支度が整いました」
童、と呼ばれた少女は、きっちり切りそろえられたおかっぱを揺らす。
その髪は根元は白く、毛先に向かうにつれ艶やかな黒髪となる奇妙な髪色だった。
「ありがとう。今行くよ」
「弔様、嬉しそう」
男──弔は肩を揺らして笑う。
「ふふ、そうかい?そうかもね」
弔は立ち上がると、部屋の出口へと歩き出す。
「弓……愛しい私の三毛猫。早く会いたいなぁ……私の家族」
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