忌憚児奇譚

ダチョウ

第0話 -前編-

夏の風。


あぁ、そうだ。この人は夏の風だ。

彼が横を駆け抜けたとき、場違いにもそんなことを思った。


この人は初めて会った時から、夏の風だ。






母が入院したのをきっかけに、児童養護施設に入ることになった。


在宅治療や通院が難しく、数ヶ月の入院が最低でも必要となるらしい。

そうなれば父のいない未成年の僕が、あの小さな家に一人。それはよろしくない。


つまりは、そういうことらしい。



「大丈夫。お母さんはすぐに良くなって、おうちに帰れるさ」


看護師さんが僕に向かって励ますように言い、母さんも笑って頷いた。

母さんを担当してくれている、優しい男性の看護師さんだった。


だから分かる。

僕を心配させないために、優しい嘘をついていることを。


あぁ、きっと長くなるんだろうな、と思った。

なくなってしまった居場所を悲しむ余裕は、当時の僕にはなかった。





『ぎぃいいぃぃ』


不格好なトカゲとカエルを足して二で割ったようなやつは、飛び出た真っ黒な眼球をギョロギョロと慌ただしく動かしていた。


ちょうど見頃のひまわりの花壇の前で、ジョウロを持ったままトカエル(今僕が命名した)をぼんやり見つめる。


「おい」

「えっ、あ! ごめん!」


後ろを振り返れば、小学五年生の俊太くんがいた。

僕よりも背が小さくて華奢で年下なのに、なぜか僕より威圧感があって、実質ボスみたいなものだ。


児童養護施設で暮らしてもうすぐ三年。

母さんの病状は死ぬ半年ほど前から、変わらなくなっていた。


悪化はしていないけれど、改善もしていない。

先生たちが手を尽くしているのは知っているけれど、それが僕でもわかるほどに効果がないこともわかっていた。


そして今から半年前、母さんはこの世を去った。


その結果、一年程度と適当に言われていた児童養護施設を出ていく期限は、僕が十八歳になるまで延長となった。


「きめぇ。周りジロジロ見やがって」

「ご、ごめん」


小学五年生に舐められる中学生って、情けない。

脳内の自分も、現実の自分も、みっともなく頭を下げる。


「ヘンタイだろ、お前」

「いや、そうじゃなくて」

慌てて弁解しようとして、すぐに頭を下げた。


──いる。


俊太くんの後ろに、さっきのバケモノが。たったこれだけの時間で、移動したのだろうか。


『いぃいモィぃい』

ぬちゃ、と粘着質な音を立てて、バケモノの両生類だか爬虫類だかよくわからない手足が、俊太くんの口を塞ぐ。


「ゲホッ! ぐ、んむ……!」

「俊太くん!」


彼は喉の辺りを掻きむしり、必死に呼吸をしようとするが、うまくいかない。


まずいまずい、動け!

僕は持っていたジョウロを投げ捨て、俊太くんに駆け寄る。


トカエルの手足をどかそうとすると、そいつは『おぅあぃいあえぁあ』と言葉にもなっていない単語を発して、あっさりと去っていった。


後ろ姿を呆然と見送っていたけれど、我に返って倒れ込んだ俊太くんを抱き起こす。

「俊太くん、けがない?」


「バケモノ!」


彼はしばらく浅い呼吸を繰り返した後、息も絶え絶えにそう言った。

心底脅えたような瞳には、苦しさか恐怖か、涙が滲んでいる。


「まさか……さっきのやつ、見えるの!?」

「はぁ!? バケモノはお前だ!」


僕から逃れるように、俊太くんはすぐに立ち上がると「あいつらの言う通りかよ」と叫んで走り去って行った。


僕が、やっぱりおかしいのか。


何も言えず、僕は投げ捨てたジョウロを拾った。

プラスチックでできたゾウのジョウロは、投げ捨てた時に水が零れてしまったらしい。

さっきよりも、うんと軽くなっていた。



児童養護施設に来て二ヶ月くらい経つころから、よくわからないが見えるようになった。


バケモノとかお化けとか、とにかく曖昧で抽象的な言葉でしか表現できない存在。


最初のころは目線を感じる、何かいる、くらいだった。

だが母さんが死んでしばらくした頃から、形が明確に捉えられるようになった。


そして一ヶ月前から、事態は悪化した。


俊太くんのように、僕の目の前でそいつらは誰かに危害を加えるようになった。

そこから次第に、職員や周りの子どもが自分と距離をおいていることがわかるようになった。





若宮弓と書かれた名札の傾きを直し、リュックサックをせおう。目をつむってもできる、いつも通りの行為だ。


『ゲヒイ』

「……」

中学校の教室の窓の外から、カエルの頭にコアラの体をくっつけたような化け物が僕を見つめていた。


これもまた、いつも通り。


見ないふりをして僕は下駄箱から薄汚れて灰色になった、昔は白色だった運動靴を取り出す。


みんなが楽しそうに下校していく中、僕は首が痛くなるほどに下を向いて歩いた。


『ういじゃぁあ〜』

バケモノは、今日も元気に僕の周りに溢れる。

学校帰り、溢れかえるバケモノと目を合わせないよう視線は上げない。


これからずっと、僕は下を向いて歩き続ける人生なのだろうか。

僕のただでさえ暗雲たちこめる将来に、有り余るほどの天災が追加されたような気分だった。


『ぅみ…ゃんへむ』

蝉時雨に紛れて、バケモノの鳴き声が聞こえる。


「うるさい……」

周りを歩く人に聞こえないくらいのボリュームで、僕はつぶやく。

口にしないと、こっちがその感情で押しつぶされそうだ。


頼むからいなくなってくれ。せめてもう少しぼんやりと見えるくらいになってくれ。


お願いだから───


「何だこれ。イグアナ?」

『あぎっ』


バケモノの声と、男の人の声。


反射的に振り返ると、男の人が電柱の上で大きな刀でバケモノを斬っていた。


「え?」

「ん?」

バチリ、と音がしそうなほど、ハッキリと目が合う。


「見つけた!」


夏の風のような、男性だった。

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