第12話

 タナリアスの眉間に、皺が寄せられた。

 悪魔の中には元天使も多く存在する中、魔術師たちの召喚した悪魔が天使の存在の事実をこの世に語ってきた。なので天使の存在は明らかだとされているが、実際にこの地上で天使を見たと言う者はいないに等しい。

 悪魔によれば、天使は地上にいる時は翼を折り畳み自分が天使であることを口外しない。

 ならばごく身近に潜んでいたとしても、特徴を隠していてはその正体に誰も気づくまい。

 天使がこの地上で翼を広げていたとしても、人型で背に翼を生やした種族は沢山いるので、天使との判別は難しいものだ。


 無論、タナリアスも実際に天使を目にしたことはなかった。 

 悪魔以外、天使を見た者はいない……。

 だから彼らは、有耶無耶な存在なのだ。


「わたしがこの力を発現してしばらくたった日……白いスーツを着た男がわたしの目の前に現れて、矢を放ってきた。完全に、わたしを殺す気だったわ。だから反撃して、男を拘束した———そして彼の記憶を読んで、それで知ったの……その男は天使で、ガブリエルっていう天使にわたしを殺すよう命令されていたことを。ガブリエルは男に、わたしを消すことが神の御意志だって言ってた。」


 ガブリエルと言うと、旧約聖書に登場する大天使のひとりである。

 悪魔は大天使の存在を語っているが、やはり地上で天使を見た者がいないだけに、大天使の存在も有耶無耶である。


「そのあとも、何度か天使たちがわたしを殺しにきた。イルメルっていう天使の刺客が、すごく厄介な奴らなの。わたし、ずっと逃げてて……」


「それで、その話が君のパパとどう繋がってくるんだ?」


 タナリアスの問いにバレンの肩がびくりと震え、大きな瞳はあちこちへ泳ぎだす。

 それはまるで、罪を問い詰められた者の反応だった。


「あ……あれは嘘よ。あなたに匿ってもらうための。わたしの両親はふたりとも、毛皮刈りに合って死んでるから……。今はこんな見た目してるけど、わたし、ドワーフウサギなの。」


 そう答え、バレンは影のある表情を見せたあと俯いた。

 ドワーフウサギというと、10年ほど前に密輸業者たちの毛皮刈りによって絶滅したと言われている妖精一族である。


「……そうか。分かった。とりあえず、一つ提案をしよう。」

 

 改まったように、タナリアスはテーブルの上で指を組む。

 そして軽く喉を鳴らした後、こう告げた。


「私ひとりを頼るより、魔法省に助けを求めたほうがいい。君の話が真実かどうかを証明できれば、手を貸してく———……」


「ぜったいに、いやッ!」 


 バレンは食い気味に叫んだ。


「あいつらは、わたしを守ることを建前にわたしを利用する……最悪な連中なの!」


「それはどういう———……」   


 ドンッ


 突然、真横の窓ガラスが叩かれた。

 音に驚き、反射的にすぐさま振り向いたふたりの先にあったのは、窓ガラスに全身を張り付かせてこちらを覗き込んでいる者の姿だった。

 ブラックレンズの丸い形のゴーグル、その周りを装飾するいかつい棘——

 体格からして男と思われる彼は、フードを被りパンクなマスクで顔を覆っている。

 マスクの独特なセンスのせいもあってか、全身で食い入るようにしてこちらを見る姿はとても気味が悪かった。


「ぁ……」


 小さな声を漏らし、バレンはソファーをずれて静かに席を立った。

 そしてタナリアスの隣に回り、彼の腕を引く。


「落ち着きたまえ、ただの悪戯だ。店員に注意を———……」


「刺客なの!」


 叫び、バレンはタナリアスの腕を強く引っ張った。

 その時、甲高い悲鳴と共にガラスが割れる音が響く———


「きゃああああッッッ……」


 皿を落とし悲鳴を上げたウェイトレスの目の前には、大型犬ほどの大きさのある四足歩行の動物が立っていた。

 背骨や肋が浮き出ており、所々皮膚の一部らしきものが紐のように垂れ下がっている。その胴体から生えているのは生身の足ではなく、機械的な金属の義足——。

 大きな立ち耳、目の部分は吸い込まれたような食い込んだ跡があるだけで眼球は見当たらない。


 タナリアスはゆっくりと立ち上がり、バレンを自分の後ろへ隠した。


 ヴガゥッッッ


 咆哮を上げながら義足の獣が飛びかかった瞬間、タナリアスは手のひらを外へ向ける。

 そこから旋風のように渦巻く風が放出されると、それは飛びついてきた義足の獣を跳ね返すように壁へ叩きつけた。


「行くぞ!」


 タナリアスはバレンの手を引き、店のエントランスを通って外へ出る。

 通勤ラッシュの時間帯——。タナリアスは上手く人混みに紛れ込みながら、バレンの手を引いて早足に歩き続けた。


「今のは……君を追う奴らの使い魔か?」


「そうよ! さっきのマスクを被ったビースト使いと、もうひとり神父みたいな格好をした男が———……」


 タナリアスが急に足を止めたので、バレンは彼の脚に軽く鼻をぶつけた。

 衝撃は割と強めだったが、痛がるほどではない。


「わかりやすい特徴だな。」


 歩道を行き交う人混みの中で、流れに逆らい立ち止まっている人影——。

 髪はツーブロックのマンバンにまとめられ、神父にしてはずいぶんと物騒な雰囲気を纏った男だった。

 キャソックを着ており、浅黒い肌で眉に深めの古傷がある。


「お前が姿を消して、10年近く……どこかで……のたれ死んだとばかり、思っていたのだが……」


 その男は話し方も特徴的だった。

 重々しく低い声で、極めてゆっくりな口調で言葉を並べる。


「マーティンは……どうした?」


 キャソックに隠れた腰元から、剣が引き出される。

 ガードはなく黒いグリップと剣身だけの飾り気のないシンプルな剣を手に、神父はバレンたちの方へ歩きだした。

 人が密集しすぎているせいか、周りは武器を持った神父に気づいていないようだった。

 しかし、誰かが気づいた——そして、悲鳴が上がる。悲鳴を上げた者の視線を追って誰かが叫び、その者の視線を追って誰かが叫び……悲鳴は連鎖していく。

 次第に、神父の周りから人がはけていった。


 退路を確保しようと、タナリアスはぱっと周りを見渡す———……先ほどの義足の獣が、逃げ惑う人混みに紛れてこちらへ近づいてくるのが見えた。


「しっかり捕まっていろ。」


 そう言ってタナリアスがバレンを抱き上げた瞬間、彼の足元から煙のように濃い霧が噴出された。

 それが瞬く間に辺りへ拡散され、視界は一瞬で白に覆われる。


 バレンは強い風を全身に受けながら、タナリアスの体にしがみついていた。

 ひらひらと上に舞い上がる自分の髪を視界から避けた時、彼女は自分が空の上にいることに気づく。


「飛んでる……?」


 見下ろせば足元にビルが連なり、顔を上げればすぐそばに空がある……手を伸ばせば、雲に届くかもしれない。

 体が空気に溶け込んでいるような感覚に、こんな時だが、バレンは少しだけ気分が高揚していた。

 タナリアスの操る風が、バレンの耳元でひゅるひゅると大きな音を立てている……その風の音に負けじと、バレンは声を張ってタナリアスに語りかけた。


「ねぇ! あの霧って、あなたの魔法? 今飛んでるのも、あなたの魔法なの?」


「そうだ。」


「あなた、もしかして妖———……ひゃっ?!」


 急な下降や上昇を繰り返す、ぎこちない飛翔——。

 そこに安定感など一切なく飛び心地は最悪で、振り落とされるのではないかというほど、乱暴な運転だった。


「……悪いが、飛んでいる間の会話は必要最低限にしてくれ。」


 そう返す彼の口調には僅かに焦燥があった。

 その時、ふたりの隣を黒い物体が並走する———

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