野に咲き 空を彩る

1.

 俄かに廊下が騒がしくなった。女たちの悲鳴、罵り声、右往左往する足音。

 誰かが、甲高く店主を呼んだ。

 仰向けの彩羽あやはにのしかかったまま、店主は舌打ちをした。未練がましく、抵抗に疲れた彩羽の全身を視線で舐める。おもむろに身を起こしながら、まくれ上がった服の裾から露になった太腿、乱暴に開かれた胸元から半分覗く乳房に手を這わす。

 衣服を整え、店主は扉を開けた。鮮やかさを増した喧騒が、晩秋の冷たい空気と共に流れ込んだ。

「あ、店主。テゥアータです」

「廊下にテゥアータ人がいたんです」

 きぃきぃ喚く女たちに、店主は露骨に顔を顰めた。

「通報はしたのか」

「すぐ来てくれるはずです」

 言い捨てて、女たちは走り去った。店主も渋面で出ていった。

 彩羽は乱された服を直すと、廊下へ逃れた。女が作った垣を、後ろから覗き込む。

 なるほど、廊下のどん詰まりに、異人がふたり追い詰められていた。箒やお玉、麺棒を振りかざした女たちに囲まれ、青ざめ、震えていた。見たところ、商人か旅人の成りをした男女だった。

 男は夜空のような暗い青の髪と瞳で、女は冬の晴天を思わせる淡い水色の髪に灰色の瞳をしていた。明らかに地球人種の色味ではない。

 彼らは、震えながらも、無断で建物に侵入してしまった非を詫びていた。

「まったく、何でまたこんなところに」

 忌々しく誰かが呟いた。

 異人たちにも聞こえたのだろう。血の気を失った男の唇から、掠れた声が絞り出された。

「そー……に落ちてしまいまして」

 彼が口にした聞きなれない単語を、彩羽はそっと口の中で繰り返した。

 落ちたと言うが、頭上の天井に損傷はみられない。

 まだ昼前だ。川の中州に作られた花街へ入る道は、北に設けられた橋しかない。そこは守衛が厳重に警備している。門から最も離れたこの店まで通りを歩いてくれば、必ず誰かの目に留まるだろう。容易に忍び込めるところではない。

 考えているうちに、筋骨逞しい女が数名、廊下を駆けてきた。娼館内の警備を請け負っている女守衛たちだ。

「はい、どいてどいて」

 先頭の女守衛が、口々に騒ぎ立てる店の女を太い腕で掻き分けた。たちまちふたりの異人に縄をかけると、引きずっていく。地球人種の自治区である地郷ちさとは、テゥアータ人の居住を許可していない。それどころか、彼らは排斥対象だった。

 弁明を繰り返す異人たちの後ろ姿が、哀れだった。

 彩羽は心の中で密かに感謝を述べた。突然の彼らの出現により、自分は店主の乱暴から逃れることができた。その礼も兼ねて、見送る。

「さすが、オトコオンナね。あたしなんかもう、奴らがいつ変な力を使うかとヒヤヒヤしたけど」

 箒を握り締めていた沙月さつきが、わざとらしく安堵の息を吐いた。周囲の女たちも口々に同意を示し、第一発見者である沙月を労わり始めた。

「さあ、みんな持ち場に戻れ。ヒデト様のお屋敷に行く者は急いで準備をしろ」

 店主の叱責に、女たちはたちまちクモの子のように散っていった。

「お前もだ」

 冷たい目で見下ろされ、彩羽は背筋を冷たくして頷いた。

 踵を返す前に、手首を掴まれた。反射的に振り解こうとしたが、男の力に敵うはずもない。

 壁に背中を押し付けられた。血走った目が目前に迫る。必死に顔を背けるが、頭頂近くに結い上げた髪と壁に動きを阻まれた。荒い息が頬にかかる。彩羽は瞼をきつく閉じた。

「さっきのことを忘れるな。このまま客を拒み、業績が伸びなければ、二ヶ月後には他所へ売り払ってやる。ここがどんなに労わりある娼館か、思い知るがいい」

 恐怖に震え、声を発することも出来ない。

「お前は、青蘭せいらんの腹から生まれ落ちたときから、この『藤紫』の商品なんだ」

 指で、彩羽の甲の焼印を痛いほど強く擦る。三日月型にあしらわれた藤の花と、それを囲む四角い枠は、この店に借金で縛られた娼婦の印だった。

 背けた頬に唾を吐きかけ、ようやく店主は彩羽を解放した。

 無言のままひとつ頭を下げ、彩羽は一秒でも早くその場から離れたい一心で、足を動かした。

 狭く暗い廊下を、彼女の小さな足が駆けていく。

(お母さん。どうしてあたしを産んだの)

 母親譲りの艶やかな黒髪を揺らし、やっとのことで自室へ駆け込んだ。

 生活に必要な最低限のものを積むと、あとは辛うじて横になれる場所を確保するだけが精一杯の狭い部屋だ。

 寝台に座り込むと、拳を胸に押し当てた。右手にはめた指輪を抱きしめる。銀の台座に青い石を嵌め込んだ指輪は、彼女が十二のときに毒殺された母の形見だ。

母の喪が明けてすぐ、先代の店主は地郷花街法に背いて、親しい領主ヒデトに彩羽を売った。店主の部屋に呼び出され、彩羽には読めない帳簿を見せられ、無理やり「女」にされた。

 それから三年。成人し、正規の年齢で客をとれるようになったが、最初に植えつけられた恐怖心が消えることはなかった。客の手が触れようものなら体が強張り、取り乱す。その手のやり方が好みの客は喜んで彩羽を買った。彼女の男性恐怖症は、悪化するばかりだった。

 花街・流花ながれはな町で最も格式が高いと謳われる『藤紫』。店主の違法行為を除けば、店の女への待遇は良い方だ。他店に売られてしまえば、もっと酷い扱いをうける。それは、嫌だ。

 では、積極的に客をとるか。

 一夜に、複数の男に抱かれる。

 考えただけで全身が粟立ち、胃の辺りが気持ち悪くなった。

 それに、花街の外に彩羽を迎え入れてくれるところもない。それならいっそのこと、母のいる死後の世界に行ってしまいたいとさえ思う。

 涙目で部屋を見回した。しかし、自ら命を絶つのに使えそうなものは一つもなかった。鋏を含め、刃物は全て店主によって厳しく管理されていた。

「彩羽、あんたもヒデト様のお屋敷に行くんでしょ。さっさと支度しなさいよ、愚図」

 扉の代わりとして掛けられた厚い布越しに、沙月の蔑みを含んだ声がした。先ほど女たちに囲まれ、ちやほやされていたときと打って変わって、冷たい口調だ。

 領主ヒデトは、彩羽を違法に「女」にしたばかりではない。かつて『藤紫』で最も人気のあった母・青蘭に身請け話を拒まれ、怒りに任せて彼女を殺した憎き仇でもある。

 それでも、命じられたなら従わねばならない。それが、流花町に生きる彩羽たちの身の上だった。

 暗い気持ちのまま、彩羽は沙月のほか三人の女と共に、大門を潜って迎えのウマ車へ乗り込んだ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る