INTIKAM
雨音亨
第1話 姉妹
遠くに見える街のネオンの輝きとは裏腹に、足元に広がる漆黒をビルの屋上に座ったまま静かに見つめる瞳があった。
立てた片膝に埋めた顔を月明かりに照らされた艶やかな黒髪が撫でる。
強い風を受けながら、彼女はまだ遠い足音に耳を澄ましていた。
『標的、もうすぐチェックポイントを通過。追手3』
「了解」
イヤホンから聞こえる声に短く返事をして立ち上がる。
風に煽られたセミロングの髪が上空へと舞い上り、朱色の瞳と整った顔立ちが月明かりに浮かぶ。
「全方位監視スタート」
『全方位カメラ良好、サポート開始。今夜も無事に帰って来てね』
「了解。アルテミス、起動」
『承認確認。アルテミス起動!』
首のチョーカーがぼんやりと蒼い光を放ち、朱色の瞳を照らしていた。
episode1 姉妹
走っても走っても追いかけてくる足音に、諦める気配はない。
小倉詩乃は、後ろを振り返りながら人気のない暗い路地を駆け抜ける。
濡れたアスファルトと朽ちたビルが、幾重にも重なり街の明かりはまだ遠い。
息が切れて、肺が痛い。けれど、絶対に止まるわけにはいかない。
どうしてこんな事に。
酸欠気味の脳にそんな後悔がよぎり、不安が胸を締め付ける。
いつもなら絶対に踏み込まない場所に今、一人きり。
始まりは三日前。
突然、妹の美穂が姿を消した。
最初は友人のところにお泊りだろうと思っていた。
いつまでも子供だと思っていても、美穂ももう高校生なのだから、断りもなく外泊することもあるだろう。
けれど、次の日も連絡はなく、スマホも繋がらない。
不安になった詩乃はついに、三日目の昼に彼女を探しに出た。
スマホは今も繋がらない。
早くに母を亡くした小倉家では詩乃が美穂の母親代わりだった。
単身赴任の父も、美穂が中学に入学した辺りから、あまり家に帰って来なくなった。
実質、姉妹二人だけの生活。
連絡もなく美穂がこんなにも家を空けたのは初めてだった。
姉妹共通のパソコンに中に残っていた美穂のメールの中に、閉鎖地区内でのパーティの話題があるのを見つけた詩乃は、そこに向かう途中、男どもに追われる事になってしまった。
反射的に逃げ出して、ただやみくもに走るだけ。
治安が悪いのは知っていたけれど、まだ夜の8時すら回っていない時間に、まさか襲われそうになるなんて……。
「!?」
突然、詩乃の目の前に一人の男が立ちはだかった。
後ずさり、元来た道を戻ろうとする詩乃の退路を、追いついて来た二人の男が塞いだ。
「お姉さーん、鬼ごっこは終わり?」
痩身に緩いTシャツとジーンズ姿の青年がニヤニヤと詩乃に話しかけた。
「ホテルに俺たちを誘い込むなんて積極的だね~」
男の視線を追うと、路地にある建物が元ラブホテルである事が分かった。
「せっかくお誘い頂いたんだ。中に使える部屋があるか見てくるよ」
「あぁ」
Tシャツの男の隣にいた男が短く返事をする。
筋肉質な身体。それとは裏腹に狡猾そうな細い目。
詩乃の後ろに立つ男は、背も幅も大きく、動きは鈍そうだが力は強そうだ。
Tシャツの男が建物に向かい、じりじりと二人の男が前後から詩乃に詰め寄ってくる。
なんとか隙間を抜けようと走る詩乃の腕を、筋肉質な男の手が簡単に捕まえた。
「っっ!」
「ここまで楽しく追いかけっこしたんだ。もっと楽しもうよ、お姉さん」
「放して!」
抵抗する詩乃に男は涼し気な顔をしたまま、空いた方の手で詩乃の頬を打った。
乾いた音が路地に響く。
ジンジンと痛みだす頬と、殴られた衝撃で詩乃の目に涙が溢れた。
「楽しませてやるから、大人しくしてなよ」
「あら、ほんと?」
不意に頭上から女性の声が聞こえた。
次の瞬間、黒い影が詩乃の隣に舞い降り、詩乃を掴んでいた男の身体が吹き飛んだ。
+++
『もう!渚紗ちゃんはすぐそうやって無茶するんだから!』
ビルから飛び降りるついでに男を蹴り飛ばした足が着地の衝撃に痺れるのを感じながら、真野渚紗は耳に響く相棒の声を尻目に、周囲を確認する。
吹っ飛ばした男は壁にもたれたまま、まだ立ち上がれない。
女性の後ろの大男は驚きでフリーズ中。
もう一人の男はまだ建物から戻っていない。
『ちょっと聞いてる!?そのブーツはまだ試作品だから3階以上の高さからは降りちゃダメってあれほど……』
「足は折れてない」
『折れてからじゃ遅いっつーの!!!!』
軽快な反論を無視して、渚紗は女性の手を取る。
「もう少しだけ走れますか?」
渚紗と吹き飛んだ男を交互に見ながら困惑していた女性が、何度か頷いた。
「じゃ、逃げましょう」
そう言って、渚紗は女性の手を引いて走り出す。
「おい!何やってる!捕まえろ!」
まだ地面に座り込んだまま側頭部を押さえる男の声に、大男が反応して二人を追いかけ始めた。
「金津さん、使えそうないい部屋が……って、何してんすか?」
「いいから、お前もさっさと追いかけろ!」
後方でもう一人の男の足音が加わったのを感じながら、渚紗は相棒へと声を掛ける。
「隠れ家Cを使う。最短ルートと周囲状況を」
『ラジャラジャ~。周囲は渚紗ちゃんに送られてる映像と差異なし。後方から二人追跡中。吹っ飛ばした男は多分腰を痛めのかな?座ったまんまだねぇ。あ、そこの路地左ね』
朱色の瞳の中に矢印が浮かび、道を指し示す。
首のチョーカーに付いた全方位カメラが後方の男の姿をワイプの要領で視界の左上に表示し、距離が徐々に縮まって来ているのがわかる。
「お姉さん、ちょっとごめんね」
そう言って、渚紗は不意に身体を反転させて女性の身体を抱きしめた。
小さな悲鳴を上げる女性を抱えたまま、片手を頭上に伸ばす。
頭上から下りて来た鋼鉄製のロープが、渚紗の腕に絡みついた。
「やっと観念したみたいだな」
追いついてきた痩せぎすの男が笑う。
遅れて追いついた大男が汗を拭う映像が視界に映し出される。
「やっぱり大画面で見るなら、美人に限るわね」
そう呟いて、渚紗は腕の中に女性に目を向ける。
驚いた瞳が、困惑と共に渚紗を見つめていた。
「掴まっててくださいね」
女性に微笑んで
「ピックアップ開始」
そう告げた。
上空で鈍いモーター音が鳴り始め、風が吹き荒れる。
「な、なんだ!?」
顔を庇いながら後退する男たちを見つめる渚紗の身体が宙に浮かぶ。
『あー!!またそんな無茶をするぅぅ!!!』
「耐荷重は80キロでしょ?大丈夫、私3キロしかないから」
『普通の人間の体重が3キロなわけないでしょう!?!?』
耳から響く声に肩をすくめて、渚紗はしがみついている女性に軽くウィンクしてみせた。
高く持ち上げられた身体がビルの間をすり抜けていく。
渚紗に絡みついたロープの先には、黒塗りの大型ドローンが一台、壮大なモーター音を立てながら若干不安定気味に飛行していた。
+++
身体が浮き上がり、喉まで出かかった悲鳴をなんとか飲み込んで、詩乃は自分を抱える女性を見つめた。
顎のラインで切りそろえられたシンプルな黒髪が風に揺れている。
綺麗な顔。
恐らくまだ20代と思われる彼女の首のチョーカーとオレンジ色に僅かに発光した瞳が、闇の中に軌跡を描く。
「高いところは苦手ですか?」
男たちを置き去りにどんどん上昇しながら、彼女は詩乃に微笑みかけた。
「あ、あの」
「下より、夜景の方が綺麗ですよ」
反射的に下を見ようとした詩乃の視線を彼女の言葉が遠くの景色へと誘導した。
ビルの隙間から見える街のイルミネーション。
10年前のクライシスによる破壊から復興を遂げた場所。
煌びやかなその中に、こことは違う平和な時間が流れている事を詩乃は知っている。
光を失い見捨てられ、閉鎖された封鎖地区。
過去を忘れて何事もなかったかのように煌めく生活地区。
全ての場所の復興に当てる財源を失った政府によって分かたれた二つの世界。
「この子じゃ街までの飛行は無理なので、一旦隠れ家に向かいますね」
幾つもの路地を抜けながら、やがて彼女はこじんまりしたビルの立ち並ぶ場所へと詩乃を降ろした。
電気が供給されていない為に、酷く暗い。
月明かりにぼんやりと浮かぶ朽ちかけたビルの側面に『真野商事』という文字が微かに残っていた。
「こちらへ」
ビルを見上げ、立ち止まっている詩乃をドローンを小脇に抱えた彼女が手招きをする。
「あ、あの」
目の前には薄汚れた壁しかない。
「どうぞ」
そう言って、彼女はなんの躊躇もなく壁の中へと入っていった。
「え」
驚きの声を上げながら、そっと壁に触れてみる。
仄かな温もりと共に詩乃の手は壁の感触を捉える。
「見つかると厄介です。早く」
中から聞こえる声に促されて、思い切ってそのまま身体ごと壁の中へと進んだ。
するとそこには先ほどのぼろっちいビルとは異なり、きちんと整備されているであろう商業ビルが今も現役ですと言わんばかりの存在感を放ち、堂々とそこに建っていた。
「温感立体ホログラム……」
「正解です。詳しいんですね」
そう言いながら、彼女はビルの自動ドアを潜り抜けて中に入って行った。
+++
「ここには電気が通っているんですね」
エレベーターで24階まで上がり、降りたフロアには扉が一つ。そこはワンルームマンションを思わせる作りになっていた。
「必要最低限の電力だけしか今は通してませんけどね」
ライトグレーのソファに座りながら、差し出されたお茶のペットボトルを受け取って、詩乃は部屋を見回した。
シンプルな白い壁とマーブル模様の大理石風の床。
小さなキッチンと大きめの冷蔵庫。
黒いシーツに覆われたベットと掛け布団。
どれもまだ新しく、使用されている感じがしない。
「あのホログラムは、医療用に使用されている物と同じなんですか?」
クライシス後、親を亡くした子供たちの為に神奈重工が研究開発した特殊幻影装置。
基本的にはAIを搭載した人型アンドロイドに被せて使用するものだが、その特徴は『温度』がある事。
詩乃はあまり詳しくないが、なんでも投影密度を上げ、量子を密集させる事で幻でありながら、単独でも軽く触る程度なら感触を有し、温もりを感じられるという画期的な代物。
主にカウンセリングや精神安定、被災後のケアとして今でも多くの施設等で使用されている。
「あれは副産物で、実はこっちが先だったんですけどね」
『密度次第じゃ、銃の弾だって防げちゃう一級品なのですよ!』
不意に可愛らしい声が部屋に響いた。
と、テーブルに置かれていたデスクトップパソコンの画面が点灯し、メガネをかけたまん丸いピンク色のキャラクターが画面の中に現われた。
『ようこそ!物知りなお姉さん~』
ニコニコと微笑みながら手を振るキャラクターに、詩乃はソファの横に立ちペットボトルのお茶を飲む女性へと戸惑い気味の視線を送った。
すると彼女は微笑みながら小さく肩をすくませ、画面へと目を移した。
詩乃もつられるように再び画面を見つめる。
『小倉詩乃さん。32歳。妹さんは17歳の美穂さん。お父様は商社にお勤めで現在は海外勤務の真っ最中』
「なっ……」
突然読み上げられる自身の個人情報に、詩乃は反射的に立ち上がる。
『あー。驚かせたならごめんなさい。ちゃんと事情はわかってますよって伝えたかっただけなんです』
「あ、貴女達は……」
『あらら、相棒相棒。あいつら仲間を引き連れて来たよ。どうやらここを嗅ぎつけたみたい。お姉さんに追跡装置でもついてたかな?』
「失礼」
詩乃の横に立つ女性が、詩乃の服や髪に触れる。
頭を優しく撫でる右手の感触に僅かな違和感を感じた。
そういえばこの人、ワイヤーを片腕に巻き付けたまま二人の人間の体重を支えていた。
不安定な状態の中でも反対の手は詩乃を決して落とさなかった。
普通ならば食い込むワイヤーに耐え切れず、抱きしめ続けた手は痺れて緩んでもおかしくない。
「あった」
詩乃の髪の隙間から小さな黒い欠片が取り出された。
一見するとただの埃にしか見えない。
『お姉さんは私がここで守るから、それ持って暴れて来て』
「了解」
『無事に帰って来てね』
「うん」
短い会話を済ませ、女性は詩乃に背を向けた。
「ま、待って!貴女達は一体、なんなの?」
このビル
大型ドローン
温感立体ホログラム
朱色に光る眼
蒼く輝くチョーカー
違和感のある両手
そして、詩乃のパーソナルデータの入手。
どれを取っても普通ではない。
いや、そもそもなぜ閉鎖地区にこんな施設を有しているのだろう?
確かここに来る前、隠れ家Cと言っていた。という事は他にも存在している可能性が高い。
なぜ、自分を助けてくれるのか。
それもわからない。
『書き込んでくれたでしょ?秘密の掲示板に』
「あ、あれは……ただの都市伝説だと思って……」
「確かに初代のように復讐を行っているわけじゃないけどね」
そう応えながら、なぜか彼女が寂しそうに笑うのが気になった。
『でも、都市伝説じゃないですよ。だって私たちが』
「復讐代行者、INTIKAM」
+++
詩乃がその噂を初めて耳にしたのは、大災害からしばらく経った頃だった。
多くの人の命を奪い、人々の心と経済に甚大な被害をもたらした未曾有の大災害は、世界の在り方さえも変えてしまった。
突然の、あまりに大きすぎる日常の変化に戸惑い、大切な人を失い、傷つきながら、それでも人々はなんとか復興をやり遂げた。
が、当の昔に財政難に陥っていた政府は、その復興範囲を限定していた。
そして、その復興範囲に選ばれなかった場所。
それこそが今、詩乃が不思議な女性といる『封鎖地区』と呼ばれる場所だった。
人々の暮らしを営むという役目を失った街は、あらゆる犯罪の温床として新たな使命を担っている。
激化する凶悪犯罪、銃の密売、薬物の横行。
見事に復興を遂げた煌びやかな街の影に潜み、闇深く蠢く悪意。
運悪く、或いは自ら進んで毒牙にかかる人々が急増する中、まことしやかに囁かれる噂。
とある手順でネットの検索サイトを開き『復讐者』と入力すると現れるフォーム。
そこへ、具体的に自分の身に何が起きたのか、復讐したい相手は誰なのかを入力すると、ランダムで復讐が実行されるという。
その執行人こそが
「INTIKAM」
詩乃は小さく呟いて、目の前にいる女性を見つめた。
淡く光る朱色の両目の採光が軟らかく、詩乃を見つめ返す。
「貴女達が?」
「二代目だけどね」
『私達は復讐をするんじゃなくて、犯罪に巻きこまれそうな人、犯罪を犯しそうな人を助けるの』
画面の向こうから聞こえる言葉に、詩乃は一瞬、眉間に皺を寄せた。
『あ、ヤバい。相棒!話しの続きは迎撃しながらよろしくぅ!』
明るい声に「分かった」と答えて、黒髪の女性が部屋の出口へと向かう。
「あ、あの」
呼び止める詩乃を振り返ると、彼女は自身の耳を指さした。
「離れてもちゃんと聞こえてるから大丈夫」
「いえ、そうじゃなくて、1人で戦うつもりですか?」
『彼女なら大丈夫。それに1人じゃないですから』
「守ってあげた報酬は……」
「え?」
突然、報酬を要求されて戸惑う詩乃に、軽くウィンクしながら「貴女の体でいいですよ」と彼女が言った。
その美しい微笑みに詩乃の体温が上がる。
視線が自然と、彼女の唇の輪郭をなぞった。
『相棒〜?体内のナノマシン全部排出させちゃうぞ♪』
優しいトーンではあるが、怒りを孕んだ声がスピーカーから鋭く響く。
「ふふ、駄目だって。残念」
さして残念そうでもない微笑を残し、彼女は部屋を出て行った。
+++
「チーフ、また例のタレコミです」
部下の声に佐伯蓉子は覗き込んでいたPCの画面から顔を上げた。
窓の外はすっかり暗くなり、遠くまで続くネオンの煌めきが美しい。
けれど、この場所でその景色に見惚れる者はいない。
「情報は?」
ダークブラウンの光沢を放つ髪が肩から背へとするりと流れ落ちる。
端正な顔立ちは父に、少し垂れた切れ長の目は母に似ているらしい。
顔を上げて蓉子は部下の一人である神田省吾へ目を向けた。
生真面目そうな顎のラインに似合わない日焼けした褐色の肌。
窮屈そうにスーツの中に納まっている鍛えられた肉体。
今年で32歳になる年上の部下は、どこか痛いのか僅かに顔をしかめている。
「またD地区の情報です。
「引き取りに来い……ね」
唇に添えた指を軽く噛んで蓉子はキーボードを操作する。
「送信者はやっぱり……」
「はい」
画面に表示された情報の中に浮かび上がる英語の羅列。
KANIMI-T
「蟹身なんて美味しそうな名前ですよね~。ま、毎度情報も美味しいですけど」
蓉子の机の前に佇む省吾の後ろでのんきな声がする。
「つまらない事を言ってる暇があったらさっさと発信場所を特定しなさい」
そんな事だから使えないって言われるのよ、と辛辣な言葉が後を追うのを蓉子は苦笑いで見守る。
「とっくに終わってます~」
あっかんべーと今にも舌を出しそうな勢いで
その閉じた両目を覆うバイザー型の眼鏡は、クライシスで失われた彼の視力を補助すると同時にネットへ直に接続できる機能を持っている。
彼の瞳は全て電子の力によって世界を認識している。
容子たちには見えないキーボードを仁の指が叩く。
「いつもと同じ。どれだけ調べても辿り着くのはネカフェやホテル。今回はビジネスホテルだったから捜査依頼に時間かかって大変だった~」
「それで結局今回も誰もいなかったわけね」
仁の言葉を受けてつまらなさそうに返答する女性。
彼女こそ蓉子の上司であり、組織の総責任者。
八神
蓉子より二つ年上のこの人は父とも交流があり、蓉子が幼い頃からの知り合いでもある。
クライシス後、上昇の一途を辿る封鎖地区を温床とした事件解決の為、再編成された警察組織の中に新たに創設された特殊部隊。
それが警視庁特別警備捜査班係。
時にテロ対策を含む危険と隣り合わせの職務に左遷組と影口を叩くものもいる。
が、多くのメンバーは自らの意思で志願した者たちばかりだった。
そんな彼らを指揮し作戦実行許可の権限を持つ部署。それが蓉子の属する最高指令室。
集まる情報を精査し、出動の要請、または許可を出しつつバックアップを担当する。
「蟹身の正体如何に~」
仁ののんびりとした声を横目に事態は薫子によって迅速に片づけられていく。
蓉子のパソコン画面上に表示されたアイコンが、この件について既に回収班の出動が薫子により承認された事を示していた。
画面に残ったのはタレコミのメールだけ。
差出人の名前が僅かに明滅する。
ネット内における仁のスキルはかなり高い。
その仁に尻尾を掴ませない相手。
「この人物からのタレコミ最近特に多いですね」
「連日って感じ~?まぁ昨日回収できたのは死体だけだったけど」
省吾の言葉に頭の後ろで手を組んだ仁が応える。
「この間保護した子は?」
「まだ病院のはずです」
蓉子の質問には省吾が応えた。
「確か、姉が見舞いに来ていたようですが、退院には至っていません」
「そう……」
蓉子の視線が僅かに下がる。
封鎖地区で起こる犯罪被害者の多くが子供や女性。
光に満ちた世界を侵食し突然現れる闇。
その境界線は曖昧で気づかずに迷い込んでしまう者も少なくない。
「早く良くなるといいわね」
「幸い発見が早かった為、暴行はされていませんでしたから、襲われた時の精神的ショックが原因ではないかと医者が」
「そう……」
脳裏に過去の光景が
暗い部屋に座り込む小さな身体。
心も身体も痛めつけられ、あまりに多くを失ってしまった少女。
彼女を抱きしめる母の姿。
「蓉子ちゃん、コーヒーでも飲まない?」
薫子の言葉に過去を見つめかけていた瞳がパソコンの画面を捉えた。
差出人の名前だけが変わらず明滅を繰り返している。
「……はい」
「えー、チーフだけ~?僕たちは~?」
「上職者会議」
席を立つ蓉子の姿を確認した薫子が駄々をこねる仁に冷たく言い放つ。
「二人の分も買ってくるわ」
省吾に告げると、お構いなくと小さく頭を下げた。
「大丈夫?」
新庁舎の屋上から遠く夜の街を見つめる。
薫子の質問に一瞬だけ間を置いて
「はい」
と答えた。
「嘘ばっかり」
手にした缶コーヒーで喉を潤す薫子の横顔をチラリと盗み見る。
ショートヘアの黒髪が風に揺れていた。
温厚そうな、それでいてとても強い瞳。
すっきり通った鼻筋。
薄めの唇を彩る紅い口紅。
「思い出してたでしょ。お母さんの事」
蓉子に見られている事を知っていて、あえて無視するかのように、遠くを見つめたまま薫子が問う。
「はい」
蓉子も視線を街へと向ける。
復興前よりもずっと進化し、美しく整備された街並み。
至る所にある暗闇さえなければ、きっともっと綺麗なのに。そんな事をぼんやり思う。
「KANIMI-T……」
薫子が小さく呟く。
「簡単なロジックね」
「はい」
手の中にあるまだ開封されていない缶コーヒーを見つめて、蓉子が頷いた。
一体どういうつもりなの?
怒りと共に沸き上がる疑問が胸を締め付ける。
蓉子を捉えて離さない過去の情景。
夜空に舞い上がる炎。
振り向く母の姿。
解けた髪が火の粉と共に舞いあがり、その全てが……。
「蓉子」
そっと顎に触れる冷たい指先を感じるより早く、唇に熱い感触が広がった。
重なり合う舌の感触に蓉子は薫子の服の袖を引き寄せる。
甘い音を立てながら、絡み合う薫子の温もりが蓉子の怒りを優しく溶かしていく。
「過去に囚われないで。人は今しか生きられないのよ」
唇を離し蓉子を覗き込む瞳に小さく頷いて、今度は自ら唇を重ねる。
「る……こ姉……」
二人の時だけ使用する呼称に、強請る甘さが混じっている事に気づいた指先が、蓉子の深い場所へと降りていく。
そう、簡単なロジック。
KANIMI-T
並び替えて出てくる言葉は
‐INTIKAM‐
+++
INTIKAMと名乗った女性が出ていった扉を見つめる詩乃に、パソコンの画面内で転がる眼鏡ピンクのキャラクターが神妙に頭を下げた。
「私たちは貴女に謝らなければなりません」
ポツリと呟く。
「謝る?」
「はい」
僅かな間を置いてからピンクの不思議生物は話し始めた。
「私たちはINTIKAMを継ぐものです。ですが、さっきもお話しした通り私たちは犯罪を未然に防ぎたいと思っています」
ピコピコと動くコミカル姿に似つかわしくない真剣な声が室内に響く。
「ただ、残念ながら今の世界はいともたやすく境界を越えてしまう人が多いのが現状です」
10年前に起きた
あまりに多くのものを失くした人々は、その心の一部までも失ってしまった。そんな話しを聞いた事があるなと詩乃はぼんやり思い出す。
「一人でも多くの人をこちら側に留めたい。でも……」
「犯罪が多すぎて……人の心が荒みすぎて、手に負えない?」
「荒んでいると言うより、そうならざる得ない状況が多すぎると言えます」
「誰もが好んで悪事に手を染めていない、と?」
「そう生きる事を容認している人間もいます。でもそうじゃない人もいる。貴女や美穂さんがそうだったように」
詩乃が画面を見つめると、そこには防犯カメラの映像から取り出したであろう画質の荒い写真が何枚も折り重なって表示されていく。
「……」
薬局にいる詩乃。封鎖地区から息を切らせて生活地区へと逃げ戻る姿。
封鎖地区へと向かっているであろう美穂の姿。
そして病院に搬送されていく様子。
姉妹の様々な、ここ数日の映像で画面が埋め尽くされていく。
「美穂を助けたのは、貴女たちなのね」
「私たちは……間に合いませんでした」
詩乃の脳裏に病院で眠る美穂の姿が浮かんだ。
「それでも、貴女達のおかげであの程度で済んだってことね」
殴られたであろう全身の打撲。
封鎖地区に足を踏み入れてそれだけで済むはずはないと思っていた。
ここは犯罪者たちの狩場だ。
僅かでも隙を見せてしまった獲物は、ただ奪われ蹂躙されるだけ。
「美穂さんを引き留めるには私たちは遅すぎました。そして、貴女を止める事すら出来なかった」
ピクリと詩乃のこめかみが動く。
「……」
沈黙が部屋に満ちる。
静寂に背を向けて詩乃はペットボトルの蓋を開けると、一口、喉を潤してからゆっくりとソファに腰掛けた。
「私たちは貴女達姉妹を救えませんでした」
パソコンから響く声を、詩乃は画面を凝視しながらただ黙って聞いていた。
+++
少しノイズ混じりの千歌と詩乃の声が耳の奥に聞こえる。
遅すぎた事象。それはそのまま自分の罪を突き付けられている気がしてしまう。
『全てを救うなんて傲慢ですよ、先輩』
INTIKAMを引き継ぐと決めた時、千歌はそう言った。
秒単位で誰かが傷つき、誰かが死んでいく。
取り返しのつかない事象があちこちで起こり連鎖していく。
助けた誰かが明日、誰かを傷つけるかもしれない。
助けた誰かの未来が更なる不幸に見舞われる可能性もある。
運命という道筋や偶然という宇宙の計算式に人間が介在する事の危険性。
その重すぎる責務は、人が背負いきれるものではない。
他人の幸、不幸を決めつける事の愚かさ。
あらゆる点で千歌は、渚紗が行動を起こす事に反対した。
『目の前にある不幸が未来の幸福に繋がる事もあると思うんです』
千歌の言葉に苦々しく反論した思い出。
『私の負った傷は癒えない。きっと私が生きている限り永遠に』
『それでも、最後に『色々あったけど悪くなかった』って言えるように生きる事こそが人間の責務じゃないですか?』
『千歌はそう言える?その身体で』
『……言えるかどうかは……まだわかりません。でも、言いたいと思っています』
まだ大学生だった頃の千歌は、とても強い瞳をしていた。
自身に降りかかる不幸の全てを跳ねのけ、自らの意思で未来を掴もうとするひたむきさ。
きっと今でもそれは変わっていないだろう。
思えば、渚紗の状況よりもあの時、千歌の方が大変だったはずなのに。
『それでも私は、防げる悲しみがあるなら防ぎたいと思う。助けられる命が、心があるなら、守りたいと思う』
『それは……家族を、守る為ですか?』
『……うん』
たとえそれが、傲慢だとしても。
「アルテミス。起きてる?」
聞こえてくる千歌の声を遠くに聞きながら、渚紗は静かに呼びかけた。
隠れ家を覆う温感立体ホログラムを抜けると、世界は光を失い静寂と闇が支配する。
ビルとビルの間を通る生ぬるい風が、渚紗の髪をかき上げ、吹き抜けていった。
瞳が暗視モニタに変わり、通常では見えない暗闇に景色が浮かび上がる。
視界の端には近隣の防犯カメラの映像。
十数人のうろついている男たちの姿が見えた。
『YES。渚紗』
渚紗の問いかけに、電子的な声が返ってきた。
「彼ら全員を同時に相手した場合の勝算は?」
『私がいる限り貴女の勝算はいつでも100%です。ですが、すでに警捜(警視庁特別警備捜査班係)がこちらに人を差し向けました。全員を一度に倒す場合、60%の確立で彼らと遭遇します』
「やっぱり各個撃破だね」
『そもそも、同時に相手にする必要性を感じません』
「いや、たまには闇討ちじゃなくて大立ち回りとかかっこよくやりたいじゃん?」
『ナルシズムの為に千歌の負担を増やす行為に賛同しかねます』
「あー、はい、すみませんでしたっと」
応えながら、渚紗は暗い道を駆け出す。
アルテミス。
神奈重工が莫大な資産を注ぎ込み開発した最新型AIにしてスーパーコンピューター。
その本体がどこにあるのか渚紗も知らない。
ただ渚紗が常人以上に活動出来ているのは彼女のおかげに他ならない。
体内に注入されたナノマシンと首につけた全方位カメラ付きのチョーカーを通じて、視力及び聴力補助、両腕の義手の整備、そして戦闘のサポートをアルテミスが行っている。
渚紗の視界に映し出される特殊な映像もアルテミスの力の賜物と言っていい。
『渚紗、ストップ。ショックガンスタンバイ』
「OK」
腰の後ろに携帯していた銃を取り出し、安全装置を外す。
一見するとただの拳銃に見えるが、弾ではなく電流を発射する千歌の力作の一つ。
彼女の言葉を借りるなら、超遠距離型スタンガン。正式名称は……忘れた。
『22時』
アルテミスの声に渚紗は僅かに腕を動かし引き金を引く。
誰もいない建物の影から人が飛び出すと同時に電気の球が命中し、2秒程痙攣して倒れた。
『3時』
今度は右手を真横に伸ばして引き金を引く。
右側で人の倒れる音。
『3時、22時、18時、18時、22時』
アルテミスの声に合わせて渚紗はその方向へと身体を回転させながらただ引き金を引く。
男たちが次々と倒れ、痺れる身体にうめき声をあげる。
渚紗の視界にはこちらに向かってくる警捜の隊員たちの姿がワイプで見えていた。
が、その中に期待していた人物の姿はない。
逢ったところで言葉を交わすどころか姿を見せるわけにもいかないのに、何を期待しているんだろうか。
毎回裏切られる期待に少しだけガッカリして、同時に少しだけ安心する。
『渚紗。上』
アルテミスの声に反射的に数歩後ろに下がった。
さっきまで渚紗がいた場所に巨体が落下し、地面を揺らす。
土煙の中、大きな身体がゆっくりと立ち上がった。
詩乃を追いかけていた三人の中の一人。
浮き上がった血管、血走った目。
「女を相手するのにドーピングするにはまだ若すぎない?」
軽く首を傾げて銃を撃つ。
が、男の身体が目の前から消え失せ、電気の球が闇に吸い込まれる。
背後から感じる圧力に前方へと身体を回転させると、すぐ後ろで風を切る音がした。
「パワー型とスピード型の併用?生身なら肝臓が死んじゃうよ?」
体勢を立て直しておどける渚紗に巨体が迫る。
会話不能。
ただ低く唸るだけの男の拳を渚紗はしゃがんで避ける。
強化型ドラッグ。
自分で服用したのか、させられたのか。封鎖地区では快楽系ドラッグに引けを取らない人気商品。
だが、その代償は
「はっ!」
懐に入り込んだ渚紗が渾身のパンチを男の腹に叩き込む。
『パルス放出』
声と同時に渚紗の手から過電流が男の身体を突き抜け、その全身から煙があがる。
ドラッグによる過負荷で脆くなった男の全身の骨が、電流の衝撃で何本が折れる音がした。
ドサリと大きな音を立てて白目を剥いたまま巨体が地面へと伸びた。
鍛えてもいない筋肉を無理やり使えばどうなるか、分かりきっているというのに。
「どうしても使いたいなら、ちゃんと身体を鍛える事ね」
それでも心臓や肝臓にかかる負担は軽減出来はしないだろうけど。
『18時』
アルテミスの声に銃を向けた手を何者かが弾き飛ばした。
舞い上がる銃が地面に落ちる前に、渚紗の顔面に鋭いパンチが飛んできた。
が
「何!?」
男の驚愕の声。
無理もない。
男の拳は渚紗に到達する10㎝手前で見えない壁に阻まれていた。
「あら、金津さん。もう腰は治ったの?」
「うるさい!」
「あなた達ってドーピングしないと女一人相手に出来ないのね」
渚紗の挑発に詩乃を追っていた男の一人、金津の目が血走る。
「てめぇ!なにもんだ!」
映画でしか聞けないセリフを恥ずかしげもなく口にする男に渚紗は少しだけ好感を覚えた。
全力で悪役している生き様は嫌いじゃない。
本来なら黙ってぶっ飛ばすところだが、彼のそのセリフに免じて答えてやることにする。
「
ニヤリと笑ってみせる渚紗の手に、空中へと弾き飛ばされていた銃が戻った。
+++
ピッピッピッ
意識の遠い場所で音がする。
これはなんの音だろう。
ピッピッ
ああ……命の音か。
美穂は暗闇の中、自身の奏でる音を聞いていた。
ピッピッピッピッ
小気味よい心臓の音。
あの時も体中で鳴っていた美穂の命の音。
でもあの時はもっと激しくて、もっと早かった。
ぬるぬるとした手の感触。
鼻につく鉄の匂い。
運命のあの日。
自分の使命を悟ったあの瞬間。
本当は小さい頃から分かってた気がする。
なんとなく知っていた、自分のあるべき姿。
けれどそれは、世間ではあまり良くない事だとも分かっていたから、ずっと我慢してきた。ずっと抑えてきた。
でも、世界はやはり美穂にそれを望んだ。
望んでくれた。
だから美穂はこの道を進む。
お姉ちゃんの為に。
お姉ちゃんの為だけに。
+++
「まだ業務時間中だぞ」
省吾の声にビクリと身体を揺らし、仁は慌ててネットとの接続をオフにする。
「なんで分かったの」
「雰囲気で」
仁はしぶしぶ面白くもない社内ネットワークへと接続を切り替えた。
さっきまで目の前で揺れていた綺麗な女性の肌の艶めきが名残惜しい。
仁の視界の中に直接映し出される映像は、他の誰にも見えないはずなのに。
元機動隊隊長などという立派な肩書を持っていると、洞察力も高いらしい。
「封鎖地区E12。最近ずっとZZZに所属していた思われる人物が殺害されていた件、及び昨日の大量殺戮について、その後進展は?」
省吾の問いに、ここ数日の調査報告に一瞬で目を通す。
「特に何も。防犯カメラも動いてない場所での犯罪だから、そもそも目撃者もいなければ証拠もない。もしあったとしても、それを警察に提供してくれるような奴はいない」
「KANIMI-T以外は?」
「うん。死体が発見されているから内部紛争とも考えられないしね」
タレコミ事態がイレギュラー。
それなのにKANIMI-Tは正確な情報を送ってくる。
「今日でZZZを壊滅に追い込めると思う?」
「そうあってほしいな」
ZZZの上層には麻薬カルテルの存在が見え隠れしている。
彼らは封鎖地区に拠点を置いてはいるが、ほとんどの人間はそこで暮らしているわけではない。
光の恩恵を受けながら、染みのように闇を広げる。
ZZZだけなく、そんな奴らが各封鎖地区のあちこちに存在している。
「犯人はやっぱりKANIMI-Tかな?」
「さあな。捕まえた奴らから何か聞ければいいんだが」
その時、仁の視界に緊急事態を知らせるアラートが表示された。
「あ、まずい」
「どうした」
目の前に病院の監視カメラの映像が映し出される。
広めの個室。空になったベット。
「入院してたあの子、病院からいなくなったみたい」
「保護対象を攫われたのか?警護は何をしてた!」
立ち上がる省吾を手で制す。
「保護じゃないよ。監視してたんだ」
「何?」
省吾を無視して仁はバイザーの横をタップする。
無数のアドレスの中から課長の電話番号を呼び出しコールした。
+++
「……んっ!ぁっぁあ!」
片手で口元を覆い、必死で声を押さえながら、それでも堪えきれない甘い声を漏らして一際激しく震える蓉子の様子に、薫子は満足げに微笑んだ。
蓉子の胸元に埋めた顔を上げると荒い息を繰り返すその唇を塞ぐ。
もう一度、指先に力をこめようとした薫子の手首から、小さな電子音がなった。
ブレスレット型デバイス。
そこに仁の名前が浮かび上がっていた。
「なに?」
軽くブレスレットに触れて応える。
「課長、あの子いなくなりました。課長の読み通りでしたね」
「そう。すぐ戻るわ」
熱くぬるんだ場所から指を引き抜き、ペロリと舐める。
「蓉子、仕事よ」
まだ朦朧としている蓉子の、はだけたブラウスのボタンを留めていく。
「るこ……姉……?」
「こら、しっかりしなさい」
口づけを強請る唇にまだぬるみの残る指先で線を引く。
「続きは帰ってからゆっくり、ね」
耳元に囁いて、蓉子から離れた。
「あ、待って、る……待ってください、課長」
追いかけてくる蓉子を振り返らずに屋内へと続く扉を開ける。
「私たちも出るわよ」
薫子の言葉に背後で蓉子の気配が変わるのが分かった。
「はい!」
僅かに振り返ると仕事モードに戻った蓉子の顔がそこにはあった。
+++
「……貴女達はどこまで知っているんですか」
警戒を強めながら訪ねる詩乃に、画面に映るピンクのキャラクターが少し考える素振りを見せる。
「うーん……おおまかな事は多分だいたい分かってる……かな」
詩乃の手の中にあるペットボトルの容器がメキッと小さな音を立てる。
「起こった事は知ってる。でも詳細までは分からない。いわば物語のあらすじだけ知ってる感じかな。ネタバレ含めて」
「……そう……ですか」
「お父さん、死んでるよね?」
詩乃が反射的に顔を上げると、ピンクのキャラクターが微笑んだように見えた。
「犯人は妹さん、だよね?そしてそれはきっと貴女を護る為だった……と私は推測してる」
パソコンの画面に死亡事件の記事がアップされていく。
「1年くらい前から少しずつZZZのメンバーが殺されてる。光の中から足を踏み外した人間が死ぬ。それ自体は珍しくもないし、最初は頻度もまばらだったから、警察も彼らを狙った犯行だとは気づいてなかった。でも、数か月前から突然殺しのスピードが加速し、殺害方法が過激になった事で警察が動き出した」
「私は……」
「美穂さんがZZZを狙う理由も多分、貴女の為。違いますか?」
スピーカーから聞こえてくる声に責める気配はない。
ただ平淡に、世間話をするような軽々しさで、詩乃とそして美穂の秘密を指摘する。
「あの子は……美穂は……私の事が大好きで……」
「そうみたいですね。羨ましい限りです」
詩乃の脳内で記憶が駆け巡り、全てが始まりそして全てが終わるきっかけとなった場面で静止する。
「私たちの母は大災害で死にました」
平和で幸せな日常。
仕事に行き、ただいまと帰れば夕飯の香りと母の笑顔、そして抱き付いてくる美穂の温もりと寡黙な父の姿。
繰り返される毎日。
大きな不満もなく、日々の些細なストレスに意識を向けながら、それでも何一つ欠けることなく満たされた日々だったと、今なら分かる。
ずっと続いていくと思っていた。
美穂が成人し、年老いていく両親を助け、自分もまた老いていく。
何一つ大成しない、でも見上げた空をただ美しいと感じられる日常を繰り返し、家族と共にいられる日々を詩乃は望み、自身の未来としていた。
それなのに。
あの大災害で母は死んだ。
何一つ欠けていなかった詩乃の世界の中で、大切な大切な欠片が抜け落ちた。
まだ幼かった美穂は母の喪失を受け入れられず、一時期言葉を話せなくなった。
父の憔悴もまた酷かった。とても仲の良い夫婦だったから、もしかしたら最後まで立ち直れなかったのかもしれない。
「父は、母をとても愛していました」
だからこそ、悲劇は起こってしまった。
「母が亡くなってから、私は会社を辞めて家事を引き受け、美穂の傍にいるようになりました」
母の代わりにはなれないと分かっていたけれど、妹の心の傷が少しでも癒える手助けができると信じていたから。
「元々、私に懐いていた美穂はますます私から離れなくなって、ご近所では仲良し姉妹って有名で」
父は父で母を忘れる為かどんどん仕事にのめり込み、気が付けば月の半分も家にいない日々が続いていた。
「ある日、珍しく父が酔って帰って来たんです」
その時の家の匂いも景色も、詩乃は鮮明に覚えている。
「いつもなら会社かホテルに宿泊して帰ってこないはずの遅い時間でした」
美穂と一緒に眠っていた詩乃は玄関の開く音で目を醒ました。
キッチンに行くと水を飲んでいた父が、のろのろと詩乃を振り返った。
ああ、友理奈、そこにいたのか。
嬉しそうな父の顔。
安心したような微笑み。
瞳に涙さえ浮かべて。
「会いたかった、ずっとお前に会いたかった、友理奈。そう言って、父は私を抱きしめました」
戸惑う詩乃を両腕で優しく包み込んだまま、父は泣いていた。
お前がいなくなってから、毎日が辛かった、と。
「後で調べて分かった事ですが、父は業績不振を理由に会社を解雇される事が決まっていたようです」
お前の作るご飯が食べたい。また一緒に旅行に行こう。
涙ながらに言い募る父の腕を、詩乃は振りほどけなかった。
そして……。
愛してる。
繰り返しそう言って父は詩乃を押し倒した。
「父には私が母に見えていました。きっと一人でずっとずっと色んな事に耐えていたんだと思います」
頬を撫でる優しい唇に詩乃は混乱した。
咄嗟に父を拒もうと手が動く。
でも。
友理奈……友理奈……。
泣きながら首筋に口づける父を、詩乃は突き放せなかった。
今、父は母と邂逅している。
明日にはきっとお酒と共に記憶も消えてしまっているだろうけど。
夢でも、幻でも、嘘でも、父は今、母に会っている。
父の手が太腿からさらにその奥へと伸びた時、詩乃は覚悟を決めた。
そっと父の背中を抱きしめ
……あなた。
そう呟いた。
「あの時、私がちゃんと拒んでいれば、きっと今、貴女達と出会う事も美穂が沢山の人を殺す事もなかったかもしれません」
交わり終えた後、半裸状態の詩乃の胸元で父は静かに寝息を立てていた。
脱がされたパジャマのズボンは床に投げ出され、下着は片足に引っ掛かったまま。
胸元のボタンは全て外され、胸元が露わになっていた。
あの時。
すぐに父から離れ、服を着ていれば間に合ったかもしれない。
でも、その時の詩乃は半ば放心状態で、流れる涙もそのままに、ただぼんやり白い天井を見つめていただけだった。
ゴンッと、突然鈍い音がしたのは、事が済んでからどれくらい経ってからの事だろう。
胸元に生暖かい感触が広がって。
そして
このケダモノ!お姉ちゃんから離れろ!
そう叫ぶ美穂の声が聞こえた。
「美穂には、父が私を襲ったように見えたんだと思います」
父の後ろで二人を見下ろす美穂の手に、血まみれになったゴルフクラブが見えた。
美穂、待って。
そう言ったように記憶している。
けれど美穂は止まらなかった。
こいつ!こいつ!よくもお姉ちゃんを!
そう言いながら何度も父を殴打して
二度とお姉ちゃんに触るな!!
そう叫んだ。
「お二人のお父様が亡くなった記録はネット上にはありません。ZZZとの関係が出来たのは、美穂さんを護る為に生存偽装の協力を依頼したから、ですね?」
「……はい」
絶命した父の遺体の片づけとまだ生きているように偽装するために、詩乃は闇ネットワークで『万屋』と呼ばれている連中の手を借りた。
そして、彼らの裏に潜んでいたのがZZZという組織だった。
裏の世界の人間と関わるとどうなるかなんて考える余裕もなかったし、美穂を護る為ならどうなっても構わないとも思っていたかもしれない。
「あの時はとにかく必死で」
「貴女が支払った代償を考えたら、もっと綿密な生存偽装をしてもらってもお釣りが来ると思います」
スピーカーから聞こえてくる声には、相変わらず批判めいた響きはない。
そして同情の気配も、ない。
ただ事実を事実として語っている、そんな口調だった。
余計な感情を含まない対応が今の詩乃にはありがたかった。
「貴女は優しい方ですね……」
いつの間にか空になったペットボトルを見つめて詩乃は瞳を閉じる。
声は応えない。
彼女は詩乃の支払った代償を知っている。
ならば結末も知っているはずなのに。
「言わないんですか?」
ゆっくり開いた目に自身の両手が見える。
色白の肌に薄いピンク色の爪。
人が求める美が再現された指先。
見下ろした視界に映る胸もまた、人が心地よいと感じる平均的な大きさと柔らかさに設定されている。
足も、腕も、顔さえも。
全てが造形された『人』という名の芸術品。
「私は……小倉詩乃はすでに、死んでいるんだと」
+++
私の世界にはいつもお姉ちゃんがいた。
もうこの世にいない母。家にいない父。
まだ小さかった手を伸ばした先にあったのは、いつも暖かな姉さんの笑顔と優しい手。
その両手で抱きしめられる度に、他に何もいらないと、そう言える程の幸福があった。
お姉ちゃんだけが、世界で一番きれいで、姉さんだけを世界で一番愛していた。
それなのに
あいつらは私のこの世で一番大切な人をいとも簡単に奪っていった。
心の中にくすぶっている自分の、一般的には良くないと言われるであろう衝動の正体に気づいたのは、六学年相当の学習をしている頃だったと思う。
それまで無意識に感じていたそれを表に出してはいけないだろう事は幼いながらに分かっていた。
何より姉さんには絶対に知られたくなかった。
世界で一番きれいなお姉ちゃん。そして
世界で一番汚い私。
「でも神様は隠す事をやめていいって言ってくれたんだよ、お姉ちゃん」
狂ったように人口の明かりで照らされた生活区を横切る夜の高速道路を弾丸のように走り抜けていく。
非接触対物センサーが他の車を勝手に避けてくれるから、美穂はただ目的地を思い描くだけ。
有線でつながった美穂の思考をバイクが読み取り、自動でそこへ向かって走っていく。
持ち主以外の人間に従わせ、スピード制限等のリミットを外す為のハッキングは美穂にとって今や造作もない事だった。
『悪い事をしたら相手も悲しいし自分もいつか悲しむの。だから誰より自分の為に優しい貴女でいてね』
幼い頃に見た姉の笑顔。
もし、
そんな事を一瞬思って、美穂は風を切るバイクの上で首を振る。
あの時。やっと己の深い欲求を解き放てると感じたあの瞬間の歓喜を、美穂は今だに覚えている。
父が姉を犯したと分かったあの刹那。
ああ、やっと私は正義を成せるのだと。
やっと正義の名の元に人を殺せるのだと。
やっと使命を果たせるのだと。
だって……悪人は滅びるべきだから。
殺さなくちゃいけないから。
振り下ろしたゴルフクラブの軽さ。それはまるで汚れた父の命の軽さのようだった。
砕ける骨と肉にめり込む感触。引き抜いたゴルフヘッドに糸引く血と飛沫。興奮に早鐘のように脈うつ鼓動。
やっと満たされた衝動に緩む口元を隠しきれなかった。
お姉ちゃんに嫌われてしまう。
そう思って慌てて口元を隠したら、ゴルフクラブが手から滑り落ちて、ゴンッと鈍い音を立てた。あの時、世界中の誰よりも傷ついていたはずのお姉ちゃんは私を抱きしめて泣いていた。
『ごめん……ごめんね……美穂……』
どうして謝られたのか今も良く分からない。
泣いている姉の姿が悲しくて、訳も分からず一緒に泣いた事を覚えている。
もしも
人を殺す事がいけない事なら、悪人を私の前から消してくれればいい。
お姉ちゃんを傷つける全てをこの世から消してくれればいい。
それをしないのは、世界の怠慢。
正義の怠惰。
神様の欺瞞。
「お姉ちゃん、今行くからね」
人を作ったのが神ならば、人の罪は神の罪。
神の意思により造られし我らに罪無し。
お姉ちゃんの罪は私の罪。
お姉ちゃんは今も綺麗なまま。
世界で一番、綺麗なまま。
+++
「死と言う概念が昔と随分と変わりましたから、詩乃さんが死んでいるか否かは貴女のみが決められる、と私は思っているんですよ」
パソコンのピンク色のキャラは相変わらず生真面目な声で詩乃に応える。
「機械と人、人とネットワーク、すべてが繋がり代替えされ、生物としての生死そのものが概念化してますし、私自身、生物と呼べる部分を随分失っていますから」
そう言って画面のキャラが照れたように頭を掻く仕草をする。
「昔は、他者がいて初めて人は人たらしめると言った人がいるみたいですけど、現代社会において自分を定義できるのは自分のだけだと思っています。まぁ言い換えると私が私と言う限り私は私で私の自由ってな感じで。だから貴女も好きにすればいいと思うんです」
「好きに……」
「はい」
画面の向こうにいる人物は果たしてどういう人間なのだろう。
今更ながらそんな疑問が浮かんだ。
詩乃をここまで導き、今も恐らくZZZの残党と向き合っているであろう女性は戦闘要員だろう。
全てを指揮し状況を左右しているのは間違いなく画面の向こうの彼女なのだ。
どこまでを知っていて、どこに導こうとしているのだろう。
「私は……」
「はい」
彼女なら理解してくれるだろうか。
二つの認識に苦しむ私の事を。
長年、誰にも打ち明けられなかった迷いを終わらせてくれるだろうか。
「私には、自分はGSS20812特殊個体だという自覚があります。ですがそれと同時に小倉詩乃である事を知っています」
GSS20812
クライシスが起こる以前、とある資産家が生を永らえる為に神奈重工に莫大な投資を行い開発生産させた特殊個体アンドロイド。
人と同スペックを目標に作られた機体は、肺や心臓等、内部構造まで人に類似している。
生きていた頃と同じ感覚を味わえるようにとの思いがあったらしい。
記憶データを元に高性能AIに自我をそのままコピー出来るというふれこみで、当時かなり量産された人気機種だった。
今も数体稼働しているが、詳しい数値を詩乃は知らない。
なんとなく、同類がいるという感覚をネットワークに繋がった時に感じるだけ。
でも、彼らに連絡しようとは思わなかった。
小倉詩乃である自分には必要ないから。
向こうから連絡が来ることもなかった。
機体同士の繋がりをアンドロイドは求めない。
「私は自分がどう死んで、なぜこの身体で生きているのかを知りません。死んだ時の記憶がないから」
生前の記憶。
小倉詩乃としての思い出はある。
心の痛みも罪の意識も覚えている。
でも、どうしても死んだ時の記憶を思い出せない。
なぜ死んだのか。
美穂がZZZのメンバーを殺している理由。
「貴女は知っていますか?INTIKAM」
自分が自分になった理由。
生まれた訳を。
為すべきことを。
『それは知らないといけない事?』
不意にスピーカーから外にいるはずの女性の声が聞こえてくる。
『普通に生きている人間だって、自身の起源や生まれた訳なんて知らずに生きてるし、期待されてたとして、それに応える義務なんてないんだし』
「お、さすが相棒、いい事を言う」
ピンクのキャラクターが頷いて答える。
「でも……」
『貴女の記憶を機体に移植したのは妹さん。そして貴女に幸せに生きていて欲しいと思ったからこそ、貴女の記憶の一部を消した。そんな事は気づいているんでしょう?』
「……はい」
『なら、貴女は貴女のまま、妹さんの側にいてあげればいいって私は思うけど。勿論、貴女がそうしたいならって話しだけど。貴女みたいな素敵なお姉さんがいて羨ましい限り』
「すみませんね、素敵じゃないパートナーで」
画面でピンクのキャラの目がじっとりと横目になる。
『そんな事は言ってない。というか同じセリフさっき言ってなかった?』
「忘れた~」
『記憶容量増やした方がいいんじゃないの?』
「な!私のスペックを馬鹿にするとはいい度胸です!相棒!」
『馬鹿にはしてない』
「いいえ、今しました!」
二人のやり取りに僅かに微笑む。
短い時間しか二人に接していないが、信頼しあっている事が分かる。
美穂とこういう関係を築けていたなら少しは変わっていただろうか。
小倉詩乃は死なずに済んだだろうか。
美穂が帰って来なかった日。
不安で押しつぶされそうだった。
もしかして死んでしまったのではないのかと。
あいつらに殺されてしまったのではないかと。
まっさらな状態で残っているGSS20812はほぼ皆無といっていい。
万が一見つかったとしても法外な値段が付けられていることだろう。
部分的な破損ならば義体で回復出来る。けれど、すべてを破壊されてしまっては復旧することは出来ない。
美穂の死体を見たくなくて、すぐに動くことが出来なかった。
探し始めた矢先に警察から連絡が来た時は回路が停止するかと思った。
入院していると知った時の安堵感。
『私たちは間に合わなかった。小倉詩乃さん。私からも改めて謝罪します。本当にごめんなさい』
「え?」
突然の謝罪に首を傾げる。
『貴女がまだ人の身体だった頃、私たちに連絡をくれていた。でも私たちはまだ準備が出来ていなくて』
そういえばINTIKAMは2代目だと言っていた。
代替わりがあったのがその頃なのだろうか。
『結果、貴女は命というあまりに大きすぎる代償を払う事になってしまった。だから、妹さんを止めるのは私たちの贖罪でもあるの』
「本当は貴女が手を下す前にZZZを片付けたかったんですけど……」
『それも……』
一瞬の沈黙。
そして
「お姉ちゃんを返して」
聞きなれた声が外にいる女性のスピーカーを通して詩乃の耳を打った。
+++
「監視していた?少女を?」
「そうよ」
蓉子の質問に完結に応えて、薫子は自動で進む公務車の窓から外を見た。
光に包まれたハイウェイ。その向こうで眩しく輝く生活区。そしてその中にありながら穴の様に黒く穿たれた封鎖地区。その闇の一つに向かい、車は今疾走している。
「保護していたのではないのですか?」
小倉美穂。
彼女の生体反応を追って、二人を乗せた車は進んでいる。
車内に取り付けられた机を挟んで座る蓉子が身を乗り出した。
「どうしてそんな……」
「彼女がZZZ《トリプルジー》メンバー殺害の犯人だから」
「え?」
困惑する蓉子を一瞥して、再び窓の外へ瞳を向ける。
「初めてZZZのメンバーが殺害されたのが一年前。封鎖地区付近でのナイフによる殺傷。当時、特に気にする必要もない事案だった。それから数回に渡りあらゆる手段でメンバー達が殺されていった。まるで殺す方法を試すようにその手段はエスカレート。そして3か月前、マシンガンによる大量殺人が起こった」
「その犯人があの少女だと?」
「あの子の診察結果だ」
そう言って、僅かに視線を机に向け、指先で触れる。
薫子の中にあるファイルの一部が机の上で立体となって浮かぶ。
「これは……」
そこに表記されているのは、破損部品パーツの一覧。
そして
「A26382型……代替型バイオロイド……」
10年前。大災害により多くの仲間を失った人類が最初にしたことは、その心の傷を埋める事だった。
神奈重工が開発した初期のバイオロイド。
画期的と呼ばれたこの機体はしかし、まだ未熟なAIしか搭載しておらず、人間同様に成長するその肉体とは裏腹に精神的な成長は見込まれないという致命的な欠陥を保有していた。
移植した記憶の定着率が高く、成長する故に寿命があり大きな欠損にはパーツ交換対応できない為に、生きている人間が乗り換えるボディとしては定着しなかった。
大災害で亡くなってしまった人の代替品。
本人の意思を介さない、生き残った人間のエゴによって生みだされた代用品。
その後に開発された半永久機関を備えたGSS20812を最後に神奈重工は、機械ボディの開発中止を余儀なくされている。
「初期バイオロイドの暴走……?」
「違うな」
蓉子の推理に首を振る。
「ZZZは麻薬カルテルとの繋がりを後ろ盾にあらゆるビジネスに手を出していた。そのどれかに彼女の姉が関わってしまったのだろう」
「どういう事ですか?」
薫子は再び机に触れる。
「彼女の姉の重感知センサーの記録だ」
病院のエレベーターに乗る女性の姿とその横に数値が示されていた。
武器を隠していたり、重装備の機械ボディ保有者を識別するため、重感知センサーはどこの施設でも設置されている。
「75kg……」
映し出されている女性は細身。
それが意味するところ。
「姉もバイオロイド……?」
「いや、恐らくこちらはGSS20812機体だろうとの専門家の意見だ」
「ということは……」
「妹が先に死んで、バイオロイドの肉体を得て生きていた。そして、その後に姉が死に新しい身体を手に入れた」
「小倉美穂がZZZメンバーを殺す理由は、まさか……」
「姉が彼らによって殺された」
+++
ああ……心臓の音がうるさい。
興奮している?高揚している?
助けたい。取り戻したい。
大事な私のお姉ちゃん。
「お姉ちゃんを返して」
センサーは、おんぼろなビルの奥に姉がいる事を示している。
暗闇が広がる路地に倒れている馬鹿ども。
なぜ生かしているのだろう。
こんな悪い奴ら、殺してしまえばいい。
生きていたってなんの役にも立たないのに、なぜ生かしておくのか。
それとも、私に新しい殺し方を試させてくれるとでもいうのだろうか。
「ねぇ、聞いてる?」
暗闇に立つ女に話しかける。
黒い綺麗な髪も黒い服も闇に溶け、首元のチョーカーの青と瞳のオレンジ色だけが暗がりの中に浮かび上がって輝いている。
「返したら、もう殺さない?」
「はぁ?」
女の声をせせら笑って、周りを見渡す。
殺さなきゃいけない奴らは、まだこんなに生きている。
ZZZが終わったら、その上にいる奴ら。
そして、まだまだ数多存在する悪党共を殺さなくちゃいけない。
「そんな事したら、悪い奴らが野放しになるじゃない」
「彼らは私達が止めるから」
「はぁ?」
再び、女の言葉を笑う。
「じゃあ、お姉ちゃんが嫌な目に合ってる時、あんた達は何してたの?今、酷い目に合ってるかもしれない人はどうするの?」
「すべては救えないかもしれないかもしれない。でも……」
「馬鹿じゃないの?なんにも出来ないくせに正義の味方気取り?」
僅かに俯いて黙り込む女に向かって、美穂は足を踏み出す。
「安心しなよ。全部私が殺してあげるから。悪い奴全部。お姉ちゃんの為にさ」
ゆっくり近づいていく。女は動かない。
『だからさぁ、それをやめなっていってるんだよねぇ』
突然、女のいる方向から別の女の声がして、美穂は歩みを止めた。
『貴女、本当は単に人を殺したいだけって気づいてる?人間が嫌いで仕方がないのよ。でも、人を殺してはいけないってプログラムを無視できないから、お姉さんを使ってそれを突破してる』
「何を言って……」
『自分の欲望を満たしたいなら、堂々とそうしなさい。お姉さんと正義を言い訳に使うな!』
「知った口きかないでよ!何も知らないくせに!!!」
一瞬かがんで、足に乗った重みを一気に放出させて突進する。
足に括り付けて来た大型のナイフを一気に目の前にいる女に突き立てた。はずだった。
「千歌……挑発しないで。とばっちり受けるのは私」
『ごめんごめん。つい』
女の手前10㎝でナイフは何かに阻まれ、それ以上進めない。
「お前!」
美穂はそのまま後ろに飛んで、距離を取る。
「そう。あんたが
女にオレンジ色の目が、美穂を見つめる。
「知ってるよ。5年前の事件。見事な殺人だったね」
『それは……』
「偉そうに。人殺しが人殺しに説教なんてしないでよね!」
もう一度切りかかる。が、やはり見えない壁に阻まれた。
「チッ……、それなら!」
左腕を作動させて肘から下を関節とは逆に折り曲げる。
そこに現われる銃口。
「これならどう!?」
放たれる銃弾が女を近距離で襲う。
煙が上がり、辺りを覆っていく。
「!」
突然、目の前に迫った光の球を接触寸前で横に転がって避ける。
銃口を向けたまま、片膝をつく美穂に煙の中から光の球の追撃が来た。
軽く飛び跳ねながら簡単に躱せるものの、視界が悪いにも関わらず、球は確実に美穂を捉えて向かってくる。
「面倒!」
再び、マシンガンを連射する。
当たった手ごたえはない。飛んでくる球を避けながら、こちらも弾を弾き出す。
球の発射位置に踏み込んでナイフを振り下ろし、周囲を足で払う。
手ごたえは、ない。
「もう誰にも触らせないってのは本当なんだ」
熱くなった銃口を冷ます為に、美穂は一旦、動きを止める。
襲ってくる気配はない。
相手の目的はどうでもいい。
お姉ちゃんさえ戻ればそれでいい。
美穂は知っている。
目の前にいる女は殺すべき相手じゃない。
この女は被害者だ。
お姉ちゃんと同じ。
「男どもに好き勝手に弄ばれるのって嫌だよね。昔のデータ見たよ。あんたは5人だったよね。そして5人とも死んだ」
煙がゆっくりと晴れていく。
オレンジ色の瞳がうっすらと、やがてはっきりと美穂の目に映る。
「あんたなら分かってくれると思うんだよね。私の気持ち。違う?」
哀し気なその色がなぜか美穂をイラつかせる。
「分かるから、止めたい。もう誰かを殺すのはやめて。お姉さんの為に」
「なんで?」
お姉ちゃんの為に殺すのに。
お姉ちゃんみたいな人がいなくなるように殺すのに。
それの何がいけないのだろう。
私は正しいのに。
なぜやめろなんて言うのだろう。
『あんたのせいでお姉さんまで人殺しになっちゃったって、気づいてないの?』
また別の声。
こいつは何を言っているのだろう。
さっきから訳が分からない。
「はぁ?お姉ちゃんがそんな事するわけないじゃない。お姉ちゃんはね、この世で一番綺麗で、優しい、私の宝物なの。分かる?」
『先日、ZZZの拠点の一つに毒が撒かれた。一般的な薬剤を組み合わせた古風な薬剤だったけど、呼吸器官を機械化していなかったメンバーは全員死亡。それによりZZZの拠点は貴女が破壊したものを含めて全て壊滅。最後に集められていた残党共も今ここに転がっている」
「まだ全員じゃないかもしれないじゃない」
それに悪党はこいつらだけじゃない。
まだまだ、殺さなくちゃいけない人間なんて山ほどいる。
「ZZZに関して言うなら、これでほぼ全員よ。その他のメンバーは逮捕されて離隔エリア。5年前に施行された人類正常化法令のおかげで、ここに戻る事はない」
「でも……」
『まだ分からない?終わらせてくれたのよ。お姉さんが。貴女の復讐を』
復讐が終わった?
お姉ちゃんの?
そんな事がある訳がない。
お姉ちゃんがどんな目にあったと思っている?
用事があるからと出ていってからたった二日だった。
たった二日後、変わり果てた姿のお姉ちゃんに何があったかなんて、嫌でも想像がついた。
お父さんが死んで三か月くらい経った頃。
少しづつ出かける頻度が多くなる姉に理由を尋ねた事があったけど、大丈夫だと弱々しく笑うだけ。
腕に増えて行くアザの意味をなぜもっと考えなかったのか。
なぜ思いつかなかったのか。
どんどん痩せて、夜に声を殺して泣く姉になぜもっと深く事情を聴かなかったのか。
いや、知っていた。
本当は分析なんてとっくに終わっていた。
認めたくなかっただけだ。
姉の苦難は自分のせいだと。
父を殺してしまったせいだと。
衝動を抑えられなかったせいだと。
だって、それは正義なのに。
正しい事をしたのに。
認めたくなかった。
でも、救いたかった。
助けたかった。
だから、あの日、姉の後を追った。
そして見た。そこで行われていた全てを。
全裸の姉に群がり、卑猥な笑みを浮かべる男たちの群れを。
薬を打たれて豹変する姉の姿を。
強化薬剤の中に催淫効果のあるものがあると後で知った。
そして、その二日後、姉は変わり果てた姿で美穂の元へ帰って来た。
薬のショック症状だと、ごみの様に姉の身体を床に転がした男たちは説明した。
美穂が殺した父親の死体の処理と生存偽装を請け負う代わりに、彼らがお金と姉の身体を要求した事。
その支払いがまだ残っていると男どもは笑った。けれど、美穂にはそんな奴らの事なんてどうでもよくて。
ただ、浅黒く変色した姉を見下ろして、何かを叫んだ。
何を叫んだかなんて覚えてない。
気が付いたら、男たちは死んでいた。
自分の左腕から銃口が出ていて、煙が小さく立ち上る。
いつ、こんな装備をつけたか覚えてない。
お姉ちゃんがくれたプレゼントだと思った。
そんな事よりお姉ちゃんを生き返らせないと。
そう、思った。
お父さんが大切に保管していた義体にお姉ちゃんの記憶と思考パターンを入力する。
もう動かなくなった身体から抽出できた記憶データは少なすぎて、生前にお姉ちゃんが残していた記録データを使った。死ぬ前の事なんて覚えてなくていい。あんな奴らの事なんて忘れてしまっていい。
ああ、でも、あいつらは覚えている。お姉ちゃんの事。何人関わったのだろう。何人がお姉ちゃんを汚したのだろう。綺麗なお姉ちゃんを。私の大切なお姉ちゃんを。私の宝物を誰が、何人が壊したのだろう。
まぁいい。全員殺せば問題ない。
そしたら、誰も覚えてない。あんな事はもう誰も覚えてない。
世界から記憶が消えれば、それはなかった事だ。
お姉ちゃんには何も起きなかった。
だから、お姉ちゃんは綺麗なまま。大切な私だけのお姉ちゃん。私だけの宝物。
まずは、恋人みたいにお姉ちゃんと微笑み合い、求め合い、そして手下共にお姉ちゃんを分け与えていたあの男から殺さなくちゃ。名前なんてどうでもいい。顔を忘れる事はない。
まずは、一人。顔を知ってる奴から順番に。
本当は最初の男を肉片にしてやりたかったけど、仕方ない。
左腕の使い方がよく分からなかったから。でももう使いこなせる。
もう何人でもまとめて殺せる。
悪い奴らは殺していい。殺さなくちゃいけない。
「復讐は終わらないよ」
悪い奴がいる限り。
『……貴女がいる限り、お姉さんは不幸な道を歩むのね』
熱した頭に冷水のように声が響く。
闇の中に立つ女の声じゃない。
勘に触る声。
『貴女だけが覚えている。お姉さんに何があったかを』
「何を……」
『貴女さえいなければ、世界から記憶は消える。分かっているでしょう?覚えている存在が消えれば、それはなかった事と同じ。知ってるでしょう?世界から貴女達が消える方法』
誘う。その声が。
『お姉さんの不幸をなかった事に出来る方法を』
知っている。
知っている。
ああ。美穂だけが知っている。
全て消えてもまだここに記憶があった。
お姉ちゃんの中から消えた記憶がまだここに。
「そう……か」
なかった事にしなければならない。
あんな事。
お姉ちゃんの為に。
お姉ちゃんの為に。
「私の宝物……」
誘われるままに、左腕の銃口が美穂のこめかみに向かう。
ここにある記憶さえ消えれば、お姉ちゃんは。
「ダメ!!!!」
空に響く銃声と叫び声が重なって、美穂の耳に響いた。
+++
「姉が殺された?一体どこからそんな情報が?」
地面から僅かに浮上し進む車内に雑音はない。
電子映像から出る僅かなノイズだけが蓉子の耳に響く。
「仁が見つけ出したのさ」
そう言って薫子が新たな映像を机の上に投影した。
それは、どこかの閉鎖された廃棄場跡の写真。
「ここに腐乱した死体とバイオロイドの部品の一部と思われる機械パーツがあったらしい」
「この死体が小倉詩乃だと?」
「いいや、こっちの死体は小倉啓介。父親だろう、というのが仁の推測だな」
「父親……」
「調べによると、小倉啓介はここ最近はずっと帰国していない。が、違法廃棄事件の資料の中にこの遺体情報があったらしくてな、それで調べてみたらしい」
「その違法廃棄事件とZZZとの繋がりは?」
「直接的なものはない。だが、完全になかったかと聞かれれば、ノーだろうな。麻薬カルテルと政府上層の人間が繋がっていたなら、違法廃棄事件とZZZの関係も見えてくるかもしれないが……」
薫子の瞳の中に電子映像の明かりが映り込み、僅かに明滅する。
「管轄外だ。あまり首は突っ込めない」
「……はい」
警察組織の内部構造は、大災害後大きくその姿を変えはしたものの、やはり古くからの慣習がすぐさま消えてなくなるわけではない。
他部署の事件に深く関われば、火傷どころでは済まない。
関わっている人間の大きさによっては、自分たちの部署が潰されかねない。
そうなっては、蓉子としても非常に困った事になる。
やっと、手の届きそうな場所まで来たのに。
「DNA鑑定も出来ない、と?」
「そもそも、この廃棄場そのものが既にこの世にない」
「え?」
「違法が発覚してから1ヶ月で施設は解体。埋め立てられ、何やらよく分からない施設の建設予定地になって1年以上経っている。そもそも、死体の情報も汚染等の危険回避の為に倫理委員会が記録した廃棄物一覧にあったものらしい」
「死体があったのに、なぜ問題にならなかったんですか?」
「仁によれば、そのデータごと握りつぶされた可能性が高いらしい。その情報もかなり深く探らないと出て来なかったレベルで隠蔽……というより、消去されていた」
「真っ黒じゃないですか」
「まぁな。でもそれよりも気になったのがバイオロイドのパーツの方でな。そこも仁に追わせた。小倉啓介は、大災害後に合計2体のバイオロイドを購入した形跡があった」
「2体?ですが、小倉詩乃は……」
「ああ。もう一体の詳細が気になったから、どこの
「それで?もしかして小倉啓介自体がバイオロイドだった、とか?」
「いいや」
そこで言葉を切り、薫子は椅子と一体化しているコンソールを操作した。
短い電子音の後、二人が向かい合うテーブルの横に壁が小さくスライドし、中から珈琲が2杯姿を現した。
「バイオロイドの意識定着の方法を知っているか?」
差し出された珈琲を受け取りながら、蓉子は僅かに首を傾げる。
「確か……新型のGSS20812と違って、生きた人間の乗り換え先としての使用より、死んだ人間の代替品としての傾向が強かった機体ですよね?」
「ああ」
「生前のその人の行動パターンを、近親者が膨大なチャートで解答して、それをAIが人格として統合する……んでしたか?」
「そう。だから、バイオロイドには生前のその人の人格、というよりは、残された者が見ていた、あるいは望んだ姿が反映される。よって、AIが抱え込む矛盾は膨大な量になり、結果、バイオロイドの脳の成長は身体に比例しなかったといわれている」
「AIが抱え込む膨大な矛盾……」
チャートを埋めていく作業の中で、失った人の行動を100%模倣して答えられる人間などいない。
自分自身でさえよく分からない自己を他人が模倣するなど不可能に近い。
「その矛盾を克服するために、自身の存在を再設定し、記憶を上書きする個体が出現した。バイオロイドの大量廃棄の原因になった要因だな」
多くの人が、失ったものを取り戻せると信じて購入した機体は、しかし、購入した本人の不備によって、その期待を裏切られる事になった。
もう一度会えると信じていた購入者の目の前に現れたのは、姿を模しただけの別人。
「後から思い出を追加できる機能が実装されたものの、それはさらなる人格変質を生み出す結果となった。人ではなく、人形として、その姿で傍で微笑んでくれるだけでいい。そんなささやかな願いを持つ者だけが彼らを大切に扱い、今も稼働している個体は存在している。人を模して造られたはずの彼らが人形としてのみ尊重される。なんともやるせない話しさ」
手にした珈琲を見つめたまま、蓉子は少しだけ廃棄されていった多くのバイオロイド達を想った。
押し付けられた記憶、行動、癖、言語。矛盾だらけのそれらをなんとかつなぎ合わせて、やっと自分を見つけたはずの彼らは、それを押し付けた人間によって否定され、廃棄された。
彼らのどこに非があったのだろう。
未熟なAIも、矛盾だらけの人格も、彼らのせいではないのに。
人の形を望んだのも、誰かの代替品になる事を望んだのも、彼らではないのに。
「小倉啓介と一緒に廃棄されていたバイオロイドのパーツなんだが」
薫子の声に蓉子の思考が中断する。
「製造番号が辛うじて残っていてな。人格形成依頼者は勿論、小倉啓介。そして彼が復元したかったのは、彼の妻である小倉友理奈」
「友理奈……?しかし……」
「ああ。友理奈を名乗る個体は確認できていない。で、もう少し深く探らせてみた」
落ち着いた様子で薫子は珈琲を口元に運ぶ。
僅かな沈黙。
「友理奈、啓介夫妻の子供は美穂一人。詩乃なんて人間は、存在しない」
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INTIKAM 雨音亨 @maywxo
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