シュレディンガーの猫とバスカヴィルの犬
藤村灯
第1話 藍崎瑠々子と犬の呪い
「犬でやすか」
「そう。犬の呪いで、私もうすぐ死ぬんです」
目をすがめ首を傾けての
老店主の経営するこじんまりした喫茶店。昼下がり、落ち着いたBGMの流れる店内には、瑠々子たちの他に4人ばかりの主婦のグループが噂話に花を咲かせている。
「ま、ま、ちょいと声を抑えて頂いて。怪談話にゃまだ日も高いってもんですよ」
アーモンド形の青い目にふわふわと癖のある細い金の髪。エンマが着ているのは近くの有名私立女子高の制服だが、根本が黒い脱色したショートの髪に、藍地に青い蝶の柄の羽織を羽織った瑠々子とでは、とにかく目を引く。主婦たちの視線で、井田端ばなしの肴になりつつあるのを察すると、エンマは目元を赤く染め、座り直し両手でオレンジジュースのグラスを掴み直接口を付けた。知らない家に連れてこられた仔猫のように見える。
「お国はどちらで? ずいぶん日本語が達者でいらっしゃるが」
「越してきたのは5歳のころです。以前はイングランドのコーンウォールに住んでいました」
「へえ、イギリス。そういや、ノッティングヒルだかハンバーガーヒルだか、犬の怪談話がありやしたね。確か、探偵さんの出てくる……」
「『バスカヴィル家の犬』ですね。コナン・ドイルのシャーロック・ホームズの冒険シリーズの」
「そう、それ」
『ノッティング・ヒルの恋人』は恋愛もので、『ハンバーガー・ヒル』に至ってはベトナム戦争の映画でイギリスですらない。瑠々子の記憶の怪しさに、緊張気味だったエンマの頬が緩む。
「無体の限りを尽くした領主さまの家系が、黒犬の祟りを受けるってえ筋だったかと思いますが。あっちではよくある因縁話なんで?」
「昔よく出たって道や、教会の墓地のお話は聞いたことがありますが。家に憑くのはいたずら妖精、家系にってことなら家人の死を予言して嘆くバンシーか、あとはもっと直截的な、先祖に恨みを持つ“名前のある誰か”の亡霊のほうが普通だと思います」
「なるほど。これが四国やそこらなら、狗神憑きの話かって見当も付くもんですが」
「やっぱり! 日本にもある話なんですね!?」
ふたたび身を乗り出すエンマに気圧されながら、瑠々子は半ば独り言のように続ける。
「蛇に管狐。祟り殺すために憑くのとは違いやすがね。もっとも、あれはあれで厄介な代物で、以前関わった日にゃあ、結局村ひとつ解体する羽目になりましたが」
「……藍崎さん、本当に霊能者なんですか?」
穏やかでない話の流れに、エンマは微妙な表情で身を引く。
「瑠々子で結構でやす。ご友人の紹介でしたっけ。何とお聞きかは存じやせんが、あたしは別に霊能者じゃあございやせんぜ。筋モンと思われるよりは、まだ近いかもしれやせんが」
腑に落ちない表情のエンマに、瑠々子は口元だけで笑って見せた。
「あたしはガキの頃からちょいと“見える”タチでして。厄介事を避ける方法を、他人さまより少しは身に付けてるってだけの話でさ」
「それじゃあ瑠々子さん、私に何か憑いてるの見えますか?」
ストローを噛んだまま首を傾げる瑠々子に、エンマはあからさまな落胆の表情を見せた。
「まあまあ、まだ詳しい話を伺っちゃあいやせんぜ。あなたの仰る犬ってのは、代々の当主を祟って早死にさせるってことで? その……親父様も?」
「父は……私が七つのころ、飛行機事故で死にました。大勢の方が亡くなられた事故で」
スマホで検索し、瑠々子に記事を示すエンマ。英文を読み下せない瑠々子だったが、大きな事故だったので当時の報道を微かに記憶している。
「飛行機を落とすなんざぁ、犬っころのしわざじゃなさそうでやすね。それに、七つの娘を残してってのは無念ではございやしょうが、呪い祟りを言い立てるほどの若死にでもないでやしょう?」
「それでも! 何人ものご先祖様の死に犬が関わってるって聞いていますし、鍵の掛かった部屋で変死した人までいたって話なんですよ!? 最近一人でいると感じるんです。ずっと何かに見られているような感覚や、夜道で後をつけてくる気配を!」
「密室殺人、ねえ」
それこそホームズ先生の出番でやしょうが、これだけ可愛い娘さんなら、後をつける男の一人もいるもんでやしょう?
――喉元まで出かかった台詞をストローごと噛み締めながら、瑠々子は思案を巡らせた。エンマの問いには首を傾げるのみに留めたが、はっきりしない、何か良くない“縁”が絡んでいるのは確かなようだ。思い当たる筋は無くもないが、当たりならば少々瑠々子の手に余る。
後ろでは、耳で拾った瑠々子たちの会話の断片をふくらませた主婦たちが、流行りのホラー映画の話題で盛り上がっている。
「そうだ、エンマさん。退魔祓魔はあっしの領分じゃあありやせんが、そっち方面得意な知り合いを紹介するくらいはお役に立てますぜ?」
「本当ですか!」
歓喜の声を上げたエンマだったが、だらしなく椅子に身を預ける瑠々子の浮かべる薄笑いを前に、漠然とした不安を抱かざるを得なかった。
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