第39話
「え?あ、あれ?クリス?あれ?侯爵様は……?」
侯爵が急に姿を消してしまった。そして、代わりに侯爵がいた場所にはクリスがちょこんと座っていた。私はきょろきょろと辺りを見回すが侯爵の姿はなかった。
「あの……侯爵様はどこにいかれたのでしょうか?」
侯爵に抱きしめられている状態でいたため、侯爵の姿は見てはいなかったのだ。だから侯爵がどこに消えたのかもわからない。
そばにいたお父様とお母様なら何か知っているかと問いかけるが、お父様もお母様もクリスに視線が固定されてしまっており、私の声が聞こえていないようで返答はなかった。ならば、と、ロザリーに尋ねてみるが、こちらも何故かクリスに視線を向けたままで私の声が聞こえていないのか返答がない。
「なんで、皆クリスを見ているのかしら?」
クリスがいつからここにいたのか私は知らない。だって、侯爵に抱きしめられていてまわりを気にしている余裕などなかったから。
大好きなクリスが来ていたのに、侯爵に気を取られていてクリスに気が付かなかっただなんて。私のクリスへの愛はその程度だったのかとショックを受ける。どこにいても、なにをしててもクリスが来たらすぐに見つけられると思っていたのに。
「ふふっ。アンジェリカはまだ気が付かないのかしら?」
大好きなクリスが急に現れたこと、侯爵が急にいなくなったこと、大好きなクリスの存在に今まで気が付かなかったことに対して混乱していると、ローゼリア嬢がクスクスと笑いながら言った。
「え?どういうこと?」
ローゼリア嬢の言っていることがわからなくて首を傾げる。
ロザリーやお父様やお母様に視線を移してみるが、三人ともクリスを凝視したままなのでローゼリア嬢の言葉の意味を尋ねられそうにない。
「誰かから聞くより自分で気が付いた方が良いと思うわ。」
ローゼリア嬢はそう言って何も教えてくれなかった。
私はいつもと違って大人しく座っているクリスに視線を向ける。クリスは私と視線があった途端、慌てたようにふいっと視線を逸らした。
おかしい。いつものクリスじゃない。
もしかして、ローゼリア嬢が言いたいのはクリスのことだろうか。
「クリス、どうかしたの?」
クリスの様子がおかしいことに気を取られて、私はすっかり侯爵が急に姿を消したことは頭の中から消し飛んでいた。
「にゃ……。」
私は項垂れているように見えるクリスをそっと抱き上げると、胸に大切に抱き寄せる。クリスに頬ずりしながら、クリスの様子を伺うと、クリスが戸惑ったような声を上げて放して欲しいともがいた。
珍しい。クリスが私の腕の中で暴れるだなんて。いつもは大人しく抱かせてくれるのに。
「クリス……本当にどうしちゃったの?」
クリスに拒絶されたような気がして私は気落ちしてしまう。
誰に何を言われるよりも、誰に何をされるよりも、クリスに拒絶されることが一番辛く悲しい。
「にゃう……。」
クリスは暴れるのをやめて、身体の力を抜いた。長く黒い尻尾が力なくだらりと垂れ下がっている。相当ショックなことでもあったのだろうか。私はクリスのことがとても心配になってきた。
「ロザリー。クリスに何があったのっ!」
クリスを凝視したまま固まっているロザリーに声をかける。ずっとクリスを見ていたみたいだから、きっとロザリーだったら何か知っているのではないかと思ったのだ。
ロザリーは私に話しかけられると、「はっ」としたように顔を上げて私を見た。
「アンジェリカお嬢様……。」
だが、ロザリーはそれ以上何も言わない。
「クリスの様子が変なの。なにがあったの?教えてちょうだい。」
「そ、それは……。」
ロザリーは何か考え込むような仕草を見せ、戸惑ったように視線を彷徨わせた。
なにか、そんなに言い辛いことでもあるのだろうか。
「ロザリー。どうしたの?何か言い辛いことでもあるの?クリスは何か病気なの?治らないの?」
クリスがどうしてこんなに元気がないのかわからなくて不安になってくる。ロザリーが口ごもるのも、不安を加速させる。私に言えないようなことがクリスにあったのかと不安になってくる。このままクリスが私を置いてお空に旅立ってしまうのではないかと最悪なケースが思い浮かぶ。
「……アンジェリカお嬢様。あの……その……気を確かにお持ちになってくださいっ。」
ロザリーは言いにくそうに口を開いた。
「えっ……。クリス、死んじゃうの?嘘よね?嘘だと言ってちょうだい。」
ロザリーの言葉に私の不安は一気に加速する。まさか、気を確かに持つようにとロザリーに言われるとは思ってもみなかった。ロザリーがそんなことを言うだなんて、やっぱりクリスは重い病にでもかかってしまったのだろうか。
私は抱き上げたクリスをジッと見つめる。足の先から頭のてっぺんまでクリスをジッと観察する。どこが悪いのだろうかと観察をするが見た目からでは判断がつかない。
毛艶だっていいし、体格だって太ってもいないし痩せてもいない。ちょうど良い体格だと思う。お髭だって、元気がなくて下に垂れてしまっているが問題ないように思える。
私は抱き上げていたクリスをソファーの上に降ろしてあおむけにすると無防備にさらけ出されたクリスのお腹に耳をあてる。
クリスの身体からはドクッドクッという人間よりも少しだけ早い鼓動の音が聞こえてきた。だけれども、異常はないように思える。
今度はクリスの身体にしこりでも出来てしまったのかと思って、クリスの身体を頭の先から尻尾の先まで確認するように触っていく。
だが、弾力のある身体があるばかりで特にしこりのようなものもないようだ。
「どこもなんともないように思えるのに……どうしちゃったの、クリス。ロザリー、クリスは死んじゃうの?違うわよね?気を確かに持ってってどういうことなの?はっきりと言ってちょうだい。」
私はクリスが死んでしまうのではないかという不安に駆られてロザリーに問いかける。本当はクリスに問いかけた方が早いと思うのだが、なにせクリスは猫だ。人間の言葉がわかっているように振舞っていても猫なのだ。私は、猫の言葉なんてわからない。
と、そこまで考えて「ハッ」とした。
そう言えば、侯爵はクリスの言葉がわかったのではなかっただろうか。
確か、私が侯爵家に着ていくドレスに困っていた時、クリスが侯爵に連絡してドレスを用意してくれたはずだ。そうすると侯爵だったらクリスの言葉がわかるかもしれない。
私は一欠けらの希望を抱いた。
「侯爵様は!侯爵様はどこなの!先ほどまでいらしたでしょ?どこに行ったのかしら?」
侯爵だったらクリスの言葉がわかる。そう確信した私は侯爵を探すことにした。先ほどまでここにいたのだからそんなに遠くまで行ってはいないはずだ。
「あ、アンジェリカお嬢様……そ、それは……。」
だが、なぜかロザリーは侯爵の行方を告げるのも戸惑っているようで口を閉ざしてしまう。お父様とお母様を見ても、こちらを見て口をパクパクと動かしているだけで、声にならないようだ。
「急用があってお屋敷に戻られたのかしら。私、ちょっと侯爵家に行ってくるわっ!!」
そう言って私が家から飛び出そうとすると、ローゼリア嬢が私の手を取った。
「待ちなさい。やっと日が昇ったばかりよ。今から侯爵家に行ったらご迷惑になるわ。もう少し待ちなさい。それに……クリスは死なないわ。だから、安心なさい。それからアンジェリカはもう少し状況を理解するように務めた方がいと思うわよ。後で侯爵家に一緒に行ってあげるから、少し仮眠を取りましょう。」
ローゼリア嬢はそう言ってクリスを抱きしめている私の右手を取ると私の自室の方に向かって歩いて行った。
「え?クリス、大丈夫なの?じゃあ、なんでこんなに元気がないの……。」
クリスが大丈夫と言われて安心したが、私は訳がわからないままローゼリア嬢に手を引かれるがまま自室に向かったのだった。
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