赤月-AKATSUKI-

月夜野すみれ

第一章 天満夕輝

       一


 街灯が夜道を明るく照らしていた。

 両側に建つ団地はまだ明かりがついている家が多かった。

 天満あまみつ夕輝ゆうきは気が付かなかったが、天空では満月が輝いていた。

 満月は下手な街灯より明るい。昔、中国の砂漠にある寺院では勉強部屋に天井がなかった。暑い日中を避けて、夜、月明かりで勉強をするためである。


 夕輝はこの春高校に入ったばかりで、今は予備校からの帰りだった。

「それでさ、佐藤のヤツが……」

 クラスメイトの小林と話していた夕輝は誰かに手を掴まれた。

 振り返ると十歳くらいの赤い着物を着た女の子が夕輝を見上げていた。

十六夜いざよい

 少女が言った。

「え?」

 聞き返した夕輝の声に小林が振り返った。

「どうした?」

「来て」

 少女が夕輝の手を引っ張った。

「迷子か」

 小林が言った。


 日はとうに暮れている。

 今は四月で日は大分長くなっているから、日が暮れるのは割と遅い。なのに、日が沈んで残照も見えないと言うことは今は相当遅い時間と言うことだ。

 周囲を見回しても親や兄弟、友達らしい人影は見えなかった。

 すぐそこに公園がある。きっとそこで時間を忘れて遊んでいたのだろう。

 こんな時間に小さい女の子を一人で歩かせるわけにはいかないな。


「ごめん、小林。俺、この子送ってくるわ」

「分かった。じゃあな」

 小林の背を見送り、

「じゃあ、行こうか」

 と、その子に声をかけると、少女が笑みを浮かべた。


 人懐っこい子だな。


 前に雨が降っていたとき、傘を差さずに歩いている小学生に、傘に入っていかないかと言ったら断られて走って逃げられてしまったが、昨今はそれくらいじゃないと危険だ。

 俺がこの子の親なら、こんな時間に知らない人についていくなって叱るけどな。

 送っていくのはいいが、変質者と間違われたらどうしよう。

 少女は何も言わず、夕輝の手を引いて歩いて行く。

 街灯と月明かりに照らされた道を少女に導かれて進んでいった。

 街灯を通り過ぎる度に、背後の灯りが一つ、また一つと無くなっていくが、満月が辺りを明るく照らしていたので夕輝は気付いていなかった。

 とうとう最後の街灯も通り過ぎた。


 あれ? 街灯がない……。


 夕輝はようやく辺りを見て街灯がなくなっていることに気付いた。


 箱根山に入った……にしても街灯はあるからなぁ。


 首をかしげたとき、叫び声が聞こえてきた。金属がぶつかる音も聞こえる。

 意外に近い。

 複数の人間が争っているようだ。

 覆面の男が五人と、顔を隠してない男が三人。

 いや、四人だ。

 一人は樹にもたれて蹲っていた。

 覆面の一人が振り上げた日本刀の刀身が月の光を反射した。

 このままでは樹にもたれた男が斬られてしまう!


 とっさに鞄を放り出して駆け寄った夕輝の手に、いつの間にか刀が握られていた。

 夕輝はその刀で、振り下ろされた覆面の刀を弾いた。

 青白い火花が取った。

 覆面が更に斬り付けてきた。

 その刀を跳ね上げざま、左肩に突きを見舞った。

 刀が着物を破り、その下にある肩の肉まで切り裂いた。

 血飛沫ちしぶきが上がり、辺りに血の臭いが立ちこめた。

 その大量の血とその臭いに思わずたじろいだ。血の臭いなんて初めて嗅いだ。勿論、血を見るのも紙で指を切ったときくらいだ。

 生臭い鉄に似た臭いに自分が刃物で人を傷つけた事を思い知らされた。

 剣道をやってはいたものの、喧嘩なんて幼稚園の頃の取っ組み合いくらいしかしたことがない自分が、日本刀で人に斬り付けたのだ。

 左肩の怪我は意外に深かったらしく、男の刀を持つ手が震えていた。それでも尚、こちらに立ち向かってくる。

 左足を少し引いて相手の刀をよけたとき、他の男達の戦いが目に入った。


 髷を結った着物の男が覆面男に小手を見舞った。

 浅く入った刀は、それでも敵の親指を切断した。親指が血を引きながら飛んでいく。

 それを見てはっとした。

 辺りに立ち込める血の臭いが更に強くなった。

 突きだけではなく、斬り付けても相手を傷つけてしまうのだ。

 かといって手を抜けば自分が斬られる。


 周りで男達が斬り合っているらしく、剣戟けんげきの音が聞こえる。

 夕輝の相手をしている男はあまり剣術にたけていないらしく、油断しさえしなければやられることはなさそうだった。

 しかし、戦いの決着はなかなかつかなかった。

 次々と打ち込んでくる刀を捌きながら、どうすればいいのか必死に考えた。

 とにかく、これ以上怪我はさせたくなかった。殺すなんてもってのほかだ。

 だが、敵は頭に血が上っていて刀を引いてくれそうになかった。


 夕輝の方も必死になるあまり、日本刀で戦っているという異常さに気付いてなかった。何故自分が日本刀を持っているのかということにすら。

 どうすればいいのか分からないまま、振り下ろされた刀を、下から峰で跳ね上げた。

 そのときようやく、峰打ちというものを思い出した。

 素早く刀を峰に返す。

 峰に返しても突けば刺さってしまうから、突きは使えない。それでも、峰で打ち込めば斬れたりはしない。

 打ち込まれた刀を払うと、小手を打った。

 左肩に深い傷を負っていて、左手は殆ど添えてる程度だったところに右手首を打たれて、刀が落ちた。

 すかさず、右肩に打ち込んだ。


 当たる直前で両手を絞って力を加減した。

 いくら峰に返しているとは言え、刀は鋼の棒だ。そんなもので頭を殴ったら死んでしまう可能性があったので頭を避けて肩を狙ったのだ。

 男が膝をついた。

 そのとき、別の覆面が襲ってきた。

 振り下ろされた刀を弾き、小手を見舞った。

 覆面が夕輝の刀を弾いた。

 そのまま突いてきた刀を横に弾くと、抜き胴を見舞った。

 覆面が腹を押さえてうずくまった。

 そこへ別の男がよってきて、覆面を後手に回わして縄をかけた。


 見ると戦いは終わっていた。

 ほっとした瞬間、身体の力が抜けた。

 眩暈を感じ、膝が崩れそうになったとき、

「助かったぜ、あんちゃん」

 男の一人が肩を叩いた。

 夕輝は倒れそうになるのを必死でこらえた。

「いえ……」

「俺の名は平助ってんだ。あれが伍助……」

 その声を聞きながら夕輝の意識が遠のいていった。


       二


 目を開けると古い木製の天井が見えた。

 どこかおかしい。

 何か違和感があってよくよく見てみると、電灯がなかった。

 夕輝は身体を起こした。

 硬くて薄い布団に寝ていたせいか体中が痛い。

 上に掛けられていた、これまた薄くて古びた着物のような物をどけたとき、廊下を歩いてくるような足音がしたかと思うと襖が開いた。

 薄茶色っぽい色の着物を着て、髷を結った中年の女性が顔を覗かせた。


「起きたみたいだね」

「あの……ここはどこですか?」

「あたしんちだよ。って言っても分からないよね」

 女性が笑った。

朝餉あさげが出来てるよ。食べにおいで」

 そう言われて腹がすいているのに気付いた。


 女性の後について短い廊下を歩いて行くと、半分が畳で半分が土間になっている部屋についた。


 土間なんて初めて見た。

 いや、うちの玄関も靴で入るところは土間って言うのか? 土じゃないけど。


 畳の部分にはこれまた髷を結って着物を着た男性が二人と、やはり髷を結った地味な着物の太った中年女性がいた。

「おう、起きたのかい」

「よく眠れたかい」

 男二人が声をかけてきた。

「あ、はい……その、お陰様で」

 夕輝はよく分からないまま頭を下げた。


「おいおい、頭なんか下げんなよ」

「礼を言わなきゃなんねぇのはこっちだぜ」

「え?」

「なんだい、夕辺のこと覚えてねぇのかい?」

「夕辺……」

 夕輝はそのとき、少女の姿が見えないのに気付いた。

「あの、俺と一緒にいた女の子知りませんか?」

「女の子? いや、見なかったぜ」

「妹か誰かと一緒だったのかい?」

「いえ、知らない子です。迷子だったらしいので送っていく途中だったんです」


 あの子は無事に帰れたんだろうか。


 夕輝は改めて部屋を見回した。

 土間には時代劇で見るようなかまど(多分)があった。

 大きな茶色いかめ(多分)も置いてある。

 竈の上は格子のついた窓になっていて、ガラスが入っていないらしく、朝の冷たい風が吹いてきていた。

 そして、やはり電灯がなかった。

 ついでに水道もなかった。


 部屋の隅にある……あれ、ひょっとして行灯?


 女性二人は夕輝を男性二人の向かいに座らせると土間に降りていって食事の支度を始めた。


 夕輝が朝食を終えると、男性の一人が早速口を開いた。

「夕辺はあんがとよ」

「あんたは命の恩人だ」

「いえ、そんな大層なことは……」

 夕輝は慌てて手を振った。


「あんたの名前ぇ聞いていいかい? 俺ぁ平助ってんだ。こいつぁは伍助、日本橋辺りを縄張りにしてる御用聞きで、そっちにいんのが俺の女房のお峰と、お前ぇが助けた正吾の女房のお花」

「うちの人はまだ動けないんで代わりにお礼に来たんだよ」

 お花が言った。

「天満夕輝です」

 夕輝が誰にともなく頭を下げた。

「随分と礼儀正しい子だねぇ」

「育ちが良さそうだね」

「いえ、そんなことは……」

「けど、お前ぇ、月代剃ってねぇな。もしかして無宿者むしゅくものかい?」

「無宿者……ってなんですか?」

「うちはあんのかい? 家族は?」

「家ならありますけど……家族は両親が……」

「それなら無宿者じゃぁないね」

 お峰が笑顔で言った。

 何故か少し緊張していたような様子だった平助と伍助がほっとした表情を見せた。

「あの、ここはどこなんですか?」

馬喰町ばくろちょうだよ」

 平助が答えた。

「馬喰町?」


 馬喰町なら都内だよな。


 夕輝は地下鉄の路線図を思い出そうとした。

「なんだ、馬喰町を知らねぇのか。『えど』だよ、『えど』。『えど』なら知ってんだろ」

「『えど』って、江戸時代の?」

「江戸時代? 何でぇそりゃ」

 伍助が不思議そうな顔をした。

「えっと、徳川幕府の……」

「徳川……幕府?」

「徳川って公方様のことだよな?」

 伍助が言った。

 平助が膝を叩いた。

「そうそう! ここは公方様のお膝元よ!」

 公方って確か将軍のことだよな。

 犬公方って将軍がいたもんな。


「東京……じゃないんですか?」

「何? 京? 京ならずっと西だぜ。東海道の一番向こう端だな」

「あれ、京に行きたかったのかい? 迷ったのかね?」

 お峰が言った。

「ずいぶん壮大ぇな迷子だな、おい」

「東海道、西に行くところを東に来ちゃったのかねぇ」

「何言ってやんでぇ。どこの世界に西と東を間違える馬鹿がいるんでぇ。お天道てんと様見りゃ、東と西の区別くらいつくだろうが」

 平助も伍助も早口で、確かにちゃきちゃきの江戸っ子という感じだ。

「あ、京都に行きたい訳じゃないです」

「じゃあ、どこへ行こうとしてたんだい?」

 お峰が優しく訊ねた。

「家に帰ろうと……」

「その家ってのはどこにあるんだい?」

「東京です」

「東京ってのはどこだい?」

「えっと……」


 なんか話が堂々巡りしてるような……。


「お前ぇ、一体どこから来たんでぇ」

「……もしかして異人さんとか? おかしな着物着て、髷も結ってないし」

「異人だったら言葉が通じねぇだろうが」

「確かに言葉は通じてるけど話は通じてないよ。言葉遣いもちょっとおかしいし」

「言葉はともかく、確かに頭は変だな。髷結ってねぇし」

 みんなの視線が夕輝の頭に集まる。

「髷を切り落とされたって感じでもないしねぇ」

「じゃあ無宿者とか」

「今、無宿者じゃねぇって分かったばかりだろ」

「どっちかってぇと坊主が髪剃るの怠けたみてぇに見えねぇか?」

 伍助が言った。

「あ、小僧さんかい? 修行がつらくて逃げ出したとか? 山奥のお寺にいたんなら『えど』を知らなくても不思議はないんじゃないのかい」

「お坊さんじゃないです」

 夕輝はようやく割り込む隙を見つけて言った。

「じゃぁ、どこから来たんでぇ」

「だから、東京……です」

「東京ねぇ。どこの国だい?」

「どこの国って……『えど』って……」


 自分が江戸時代の江戸にいるなんて、にわかには信じがたかった。

 しかし、この家には電灯がない。ガラスもない。都内の馬喰町ならビルが見えなければおかしいが、窓の外にビルは見えない。


 きっと何か誤解があるのだ。

 江戸時代に来るなんてあり得ない。

 自分は今どこにいるのだろうか。

 ちゃんと家に帰れるのだろうか。


 だんだん不安になってきた夕輝は、思わず家を飛び出した。

 外に出た夕輝の目に飛び込んできた光景は信じられないものだった。

 道は舗装されておらず、行き交う人々は皆着物を着て髷を結っていた。男の半分くらいは着物の裾を帯に挟んでいる。褌が丸見えだが当人も周りの人間も気にしている様子はない。


「日光江戸村?」

 思わずつぶやいたとき、

「――――!」

 上から降ってきた鳴き声に空を見上げると、トンビとおぼしき鳥が弧を描いて飛んでいた。 

「あの鳥は……」

「何だ、お前ぇんとこにはトンビがいねぇのかい」

 後からついて出てきた平助が訊ねた。


 都内にトンビがいるところってあったか?


 ビルが無いのもどこかの田舎に来たからではないのか。

 ふと気付くと何とも言えない臭いニオイがした。

 それが徐々に大きくなってきた。

「おい、肥取りだ。よけな」

 トイレが汲み取り式と言うことはやはり上下水道の整ってない田舎なのではないだろうか。

「肥取りはよけないといけないんですか」

「いや、別によけたくなけりゃよけなくてもいいけどよ。肥杓に付いた糞が飛んで着物を汚されるぜ」

 夕輝は慌ててよけた。

「それにしても、お前ぇでけぇな」

 平助が夕輝を見上げて言った。

 確かにみんな百五十センチから百六十センチくらいで、百八十センチの夕輝を見上げている。

 まるでガリバーにでもなった気分だ。


「あの……、すみませんが夕辺のところに連れて行ってもらえませんか?」

「そこからなら帰れそうなのかい?」

「迷子ってそんなもんだろ。連れてっておやりよ」

 お峰が言った。

「おう、じゃ、今から行くか」

「はい。お願いします」

 鞄は夕辺放り出してしまったので荷物は何もない。

「ただ、その格好で出歩くのはまずいね。上には羽織を羽織って、下は袴をはいていくといいよ」

 お峰はそう言うと、羽織袴を用意して夕輝に着せてくれた。

「頭はこれを被っていきな」

 と言って最後に菅笠を被せてくれた。

 夕輝はお峰に礼を言うと平助と伍助について歩き出した。


 夕輝達三人は近くの桟橋から細い船に乗った。

 猪牙舟ちょきぶねという舟らしい。

 どこまで行っても川の両側には時代劇のような江戸の町並みが続いていく。


「ここはどの辺ですか?」

「神楽坂だな」

「神楽坂!?」

 夕輝は目眩がしそうだった。


 確かに両側に建物はあるが現代的なビルはない。荷車は通りかかるが自動車は走ってない。それどころか人力車さえ見かけない。


 いや、人力車って江戸時代には無かったんだっけ?


 神楽坂の桟橋で舟を下りると、後は歩きだった。

「結構歩きますね」

「疲れたかい」

「いえ、そうじゃなくて……俺をあの家まで運ぶの大変だったんじゃないですか?」

「何、牛込御門をくぐってからは辻籠に乗せたから大したことなかったぜ」

「辻籠って……」

「お前ぇんとこは籠もねぇような田舎なのかい? ほら、あそこにあんだろ。あれだよ、あれ」


 平助が指したのはまさに『籠』だった。

 竹の棒に紐で吊り下げた浅い籠に申し訳程度の座布団が乗っていた。

 時代劇で見るような囲いはなかった。

 両側に下ろす覆いが上に跳ね上げてあった。しかし、時代劇に出てくる籠は木の板で覆われているように見えたが。


「お金かかったんじゃないですか? 俺、お金持ってないんですけど……」

「命の恩人から金とりゃしねぇよ」

「すみません、有難うございます」

「よせやい」

 夕輝はもう一度、遠ざかっていく籠を見た。

「俺、意識がなかったのにあれに乗って落ちませんでしたか?」

「そこんとこぁは抜かりねぇよ」

「捕り縄でくくりつけたから落ちたりしなかったぜ」


 捕り縄……。

 護送される囚人にしか見えなかったんじゃ……。

 ますます気分が落ち込んできた。


       三


 更にしばらく歩くと、辺りは田んぼと畑と林だけになった。

 小川のせせらぎが聞こえてくる。田舎で聞けば癒やされるであろうその音色も、今は心を暗くする。


 夕輝達が通りかかったとき、川に黒っぽい何かが飛び込んだ。

「今のは……」

「カワウソだろ」

「カワウソ!? ニホンカワウソですか!?」

「ニホンカワウソ? なんでぇそりゃ。カワウソはカワウソだろうが」


 絶滅したニホンカワウソがいるってことは……。

 認めたくないと思っていたのだが、さっきから空を飛んでいるきれいな白っぽい鳥はシラサギじゃなくてトキなんじゃ……。


 この分では夕辺のところに行っても現代に帰れるか怪し――。

「あそこが穴八幡……」

「穴八幡神社!?」


 と言うことはここは早稲田だ。

 でも、早稲田大学はない。東西線の早稲田駅も。穴八幡神社へ上がる階段の下の交番もない。

 見慣れた建物は何もなかった。

 あるのは田んぼと畑と林だけだ。それと小川。

 夕輝は駈けだした。

 現代へ帰れる何かを探して必死に走り回った。

 しかし、いくら探しても帰り道は見つからなかった。


 日暮れ時になり、どこかで鐘が六回鳴った。

「もう暮れ六つだ。今日のところは帰ろうぜ」

「……はい」

 夕輝は肩を落として平助と伍助の後に続いた。

「何、心配すんな。俺達は御公儀の御用を勤めてんだ。探索が仕事だからお前ぇの家も見つけてやるよ」

「そうそう。きっと見つかるぜ。大船に乗った気でいな」

「家に戻れるまではうちにいればいいぜ。いつまでいてもいいからよ」

「有難うございます」

 夕輝は暗い声で言った。


 戻ってきた夕輝を見ると、お峰は何も言わずに夕食を用意してくれた。ここでは夕食とは言わずに夕餉ゆうげと言うそうだ。朝食が朝餉である。

「迷子になったんならそんなに遠くから来たんじゃねぇよなぁ」

 平助が首をかしげた。

「でも、ご府内ぇじゃねぇよなぁ。どこの国のもんなんだろうなぁ」

 何故か一緒に食事をしている伍助が言った。


 伍助の家はここなのか?


「えっと……」


 江戸藩……なんてないよな。

 あれ?

 江戸ってどこに属してたんだ?


 夕輝は首をかしげた。

「それにしても、『えど』を知らないなんて、お前ぇ一体ぇどこの田舎から出てきたんでぇ」

「口に気ぃつけろぃ。夕辺の剣術すごかったじゃねぇか。きっとお侍ぇに違ぇねぇや」

「『えど』を知らねぇ侍ぇがいるかい! 稽古場の中には身分に拘らずに教えてるところがいくらでもあるじゃねぇか」

「そりゃ、そうだけどよ。でも、刀持ってたじゃねぇか」

「それに、名字があるよね。名字帯刀御免の家柄じゃないならお侍さんだよね」

「それもそうだ」

「それに、おかしな形はしてるけど、一応羽織袴着てたしね」

「でも、足を見てみろよ。侍の足じゃねぇぜ」

「足でお侍さんかどうか分かるんですか?」

 夕輝は驚いて訊ねた。


「侍ぇは子供の頃から腰に大小してるだろ。だから左足が太くなるんだよ」

「どんな格好してても侍ぇは足を見りゃ分かるぜ」

「それじゃあ、お侍さんが町人に変装したりするのは無理って事ですか?」

 遠山の金さんは牢人のふりでもしてたんだろうか。

「できなかないよ。御家人株売って町人になるお侍もいるし、それを買ってお侍になる町人もいるからね」

「武家の身分を剥奪されるヤツもいるしな」

「名字があるけど商家じゃないんだろ」

「はい」


 サラリーマンは何に当たるんだろうか。


 夕輝は首をかしげた。

「どっかの郷士とか。それなら普段刀差してなかったかもしれないし」

「郷士……?」


 郷士ってなんだろう。


「ええい、はっきりしねぇな! お前ぇ、一体ぇ誰でぇ」

 平助が苛ついたように言った。

「誰と言われても……」

 夕輝が困惑して俯いたとき、

「あ!」

 お峰が声を上げた。

「なんでぇ、素っ頓狂な声出しやがって」

「昨日の捕り物の時、頭打ったんじゃないのかい? ほら、頭打つと物忘れするって言うじゃないか」

「なるほど」

「いきなり倒れたのも頭打ったせいか」

 平助が手を打った。

「それで覚えてねぇんだな」

「名前だけでも覚えてて良かったねぇ」

 本気で良かったと思ってくれているようだった。

「それにしてもこの頭じゃ髷が結えないね。無宿者だと思われても困るし」

 お峰が言った。


「前髪が長いよね。もしかして元服前なのかい?」

「元服? それって平安時代の公家がしたって言う……」

「何言ってやんでぇ。元服は公家じゃなくたってするだろうが」

「そうなんですか?」

「お前ぇんとこは元服しねぇのかい?」

「はい」

「東京ってとこは変わったとこなんだねぇ」

 お峰が不思議そうに言った。

「でも、元服前って年にも見えねぇな」

「それなら髷を結わないと。けど、この短さじゃねぇ」

「しばらく付けびん付けとくしかねぇやな。ほら、お花の知り合いが芝居用の付け鬢持ってただろ。ちょっと行って借りてこい」

「あいよ」

「あ、俺、お金持ってないんです」

 財布に多少は入っていたが、ここでは使えないだろう。

「借りるのに金なんかいらねぇやな」

「後で煮物でも届けとくよ」

「すみません」

 夕輝は恐縮して頭を下げた。

「あはは、気にしなくていいよ」

 お峰は笑って手を振った。

「でも月代さかやきらなきゃね」


 お峰によると、髪結床は各町に一件はあり、人別帳にんべつちょうに載っているものはそこで月代を剃ることになっているのだそうだ。

 月代を剃っていないものは無宿者として佐渡の金山に送られるらしい。そこでやらされるのは強制労働だ。


「りょ……旅に出た場合どうするんですか?」

「旅に出るには手形がいるだろ。手形を見せれば剃ってもらえるんだよ」


 さっきから「かみぃどこ、かみぃどこ」って言ってるけど、話の流れからして「髪結床かみゆいどこ」だよな。

「真っ直ぐ」も「まっつぐ」だし。

 江戸時代って、地方出身者は訛りですぐに分かったって言うけど、江戸っ子の訛りも結構激しいんだな。


「そういや、手形を持ってなかったって事は関は越えてねぇよな」

「てこたぁ、そんなに遠くから来たんじゃねぇな」

 平助と伍助は『えど』郊外をどう探索するか話し合い始めた。

 町方の支配は『えど』市中だけなのだそうだ。だから、郊外を探索するにはそれなりに方法を考えなければならないらしい。

「その着物もどうにかした方がいいね。いくら月代剃って髷をつけてもその格好は目立つからね」

「適当に用意してやれよ」

「はいよ」

 平助の言葉にお峰が頷いた。

 予想以上に厳しい世界のようだ。

「あの、俺、この世界……ここのこと、何も知らないんです。だから、面倒だと思いますけど色々教えてください」

「かまわねぇよ」

「ホントに何も知らないんで、赤ん坊に教えると思って一から教えてください」

 夕輝は手をついて頭を下げた。これが作法にかなってることを祈りながら。


「よろしくお願いします!」

「よせやい。そんな馬鹿っ丁寧に言われると尻が痒くならぁ」

「しかし、身元が分からねぇんじゃなぁ」

「剣術が上手ぇんだろ。どっかの稽古場けいこばに通ってたんじゃねぇか」

「そうか。稽古場を訪ねて歩きゃいいんだな」

「けど、『えど』のもんじゃないんだろ。ご府内の稽古場じゃ分からないんじゃないのかい?」

「何、稽古場が違っても腕が良けりゃ噂くらいは聞こえてんだろ。探索の時、気ぃ付けとくぜ」

「有難うございます。お世話になりっぱなしになってしまってすみません。お礼も出来るかどうか……」

「礼をするのはこっちだって言ったろ。遠慮はいらねぇよ」

「すみません、有難うございます」

 夕輝は言葉に甘えて世話になることにした。他に行く当てがないのだ。この人達に頼るしかない。


「それにしても、お前ぇの事ぁなんて呼べばいいんだろうな」

「郷士だとしたら一応庶民よりは上だろ。やっぱ敬語……」

「いえ、普通に話してください。名前も夕輝で」

「そうかい、じゃあ、夕ちゃんって呼ばせてもらおうかね」

 お峰が言った。

「おう、夕輝。家に帰れるまでは俺のこと親だと思ってくんな」

「はい。有難うございます」


 にゃ~ん


 そのとき、三毛猫が夕輝の足に頭をこすりつけてきた。


 そうだ、今が江戸時代ならあのこと聞いておかないと。


「この子はミケだよ」

 お峰が三毛猫を抱き上げて言った。

「あの、生類憐れみの令って……」

「生類憐れみの令? それならとっくになくなったぜ」

「聞いてなかったのかい?」

「御触は町役人ちょうやくにんが徹底するはずじゃねぇか」

高札場こうさつばに張り出されたんなら見てなかったんだと……」

 夕輝が小さい声で言い訳した。

「いや、そういう大事なことは高札場じゃなくて町役人が直接教えるもんだぜ」

 平助が言った。

「でねぇと字が読めねぇヤツに徹底できねぇからな」

 それもそうだ。

「『えど』以外のところでは違うのかね」

「んなたねぇだろ。お前ぇの住んでたとこ、田舎っつーより人里離れた山奥って感じだな」

 まさか世界有数の大都市ですとは言えなかった。


 それにしても、江戸時代の知識が幼稚園の頃、祖母と一緒にTVで観た遠山の金さんと水戸黄門だけの自分が、この時代で上手くやっていけるんだろうか……。

 暴れん坊将軍の名前も知らないしなぁ……。


 日本の歴史は小学校のときに習ったが、江戸時代に辿り着く前に三学期が終わってしまったので、夕輝の日本史の知識は室町時代で止まっていた。


       四


 翌朝、お峰と共に髪結床へ言って月代を剃った。

 人別帳に入ってないと剃ってもらえないのではないかと訊ねると、平助が店請たなうけをしてくれたらしい。店請というのは身元保証のことだそうだ。


 月代を剃ったせいか頭の天辺がすーすーする。

 こんな天辺だけ剃った頭で現代に帰ったらどう思われるだろう。

 髪結床から帰るとお峰が家の中を案内してくれた。

 後ろから平助と伍助がついてくる。

 伍助は夕辺どこかへ帰っていったから、ここに住んでいるのではないはずだが今朝も朝餉を一緒に食べていた。


 御用聞きってそんなに暇なのか?


 夕輝はお峰が用意してくれた着物を着ていた。褌の付け方から帯の結び方まで教わってようやく着られた。

「そこが井戸で、あれが手水場ちょうずば

「あの、トイレは……」

 室内にはなかったから外にあるはずである。そこらの物陰でするのでないなら住居の近くにあるはずだ。

「戸入れ? 押し入れのことかい?」

「いえ、そうじゃなくて……えっと、お便所?」

「なんでぇ、かわやのことかい」

「だから手水場はそこだって。我慢してたのかい? 行っといで。お小水が右で大きい方が左だよ」


 手水場ってトイレのことだったのか。


「いえ、今はいいです」

「それにしても『お便所』ときたね」

「そういえば、京がどうとか言ってたし、もしかしてお公家さんじゃないのかい。話し方もゆっくりっていうかおっとりしてるし」


 公家って言うとおじゃる丸か。

 おじゃる丸って観たことないんだよな。

 観てれば公家の振りが出来たんだろうか。

 適当に「麻呂は~」とか「~でおじゃる」とか言って……も通用しないか。


「公家ってのは髷を結わねぇのかい」

「それは知らないよ。お公家さんなんて会ったこともないもの」

「あ、公家じゃないです」

 三人のマシンガントークに隙を見つけて答えた。

「違うって事は分かんだな。お前ぇ、ホントに物忘れなのかい」

「えっと……」

「えっと、えっとってはっきりしねぇな!」

 平助の苛立った言葉に、

「すみません」

 夕輝は頭を下げた。

「まぁまぁ、話したくねぇことぁは話さなくていいじゃねぇか」

 話したくないわけではないが、話が通じるとも思えなかった。


 どうやらここは昔の東京らしい。

 しかし、浦島太郎の逆バージョンなんて言えるわけがない。

 頭がおかしいと思われるのがオチだ。

 夕輝にはここに知り合いはいない。

 見知らぬ世界でこの人達に見捨てられたらどうしていいのか分からない。

 帰れるまではこの人達の親切にすがるしかないのだ。


 浦島太郎か……。

 竜宮城でしばらく過ごしたら現代に戻ってた、なんてことにはならないだろうか。

 玉手箱は送ってくれた亀にあげよう。


「そっちは湯屋だよ」

 お峰が廊下の突き当たりを指した。

 確かにお湯というかお風呂の匂いがする。

「うちは湯屋だから入り放題だぜ」

「湯屋も見とくかい?」

「はい」

 お峰について湯屋に入った。

「ここは峰湯って言うんだよ」


 板の間には壁に沿って衣装棚が取り付けられており、中央の壁に二階へ上がる階段があった。

 衣装棚の上の壁に何か書いた紙が貼ってあった。


 ……読めない。


 いわゆる草書とか行書とか言う字体だ。

 日本語の筆記体も読めるように勉強しておけば良かった。


 お祖母ちゃんもこんな字書いてたよな。

 母さんが、達筆すぎて読めないって言ったら、今時の嫁は、とか何とかって言ってたっけ。

 こんなことになるならお祖母ちゃんに習っておけば良かった。


「読めるかい?」

「読めません」

 夕輝は素直に認めた。

「字が汚くて読めねぇのかい。それとも字ぃそのものが読めねぇのかい」

 お峰が、なんだい字が汚いだなんて嫌だねぇ、と言った。

 どうやらお峰が書いた字らしい。

「楷書なら読めるんですけど……。字が汚いとかじゃなくて、この……草書? 行書? が読めないんです」


 そうか、江戸時代は字体も違うのか。

 てことは、この時代にしばらくいるなら字を習うところから始めなければならないと言うことだ。


「お前ぇんとこは字が違ったのかい」

「はい」

「へぇ」

「国によって字が違うんだねぇ」


 国?

 と思ったが、江戸時代は各藩が国という概念だったんだと思い出した。

 そういえば……。


「あの、今は何月なんですか?」

「菖蒲月だぜ」


 菖蒲月?


「それは何月なんですか?」

「だから菖蒲月だっつってんだろ」

「えっと……お正月が最初の月ですよね?」

「おう」

「そこから数えて何番目ですか?」

「正月が初春月だろ、次が梅見月、桜月、卯の花月、菖蒲月だから、五番目だな」


 五月って事か。


 当然旧暦だろうが、ここへ来る前は四月だったから、季節に関してはほぼ変わらないようだ。

 しかし、初春月だの、梅見月だの、月の名前も改めて覚えなきゃなんないのか。


 でも、昔の月の数え方って睦月とか如月とかじゃなかったっけ?


 まぁ、そっちも覚えてなかったからどちらにしても覚える必要があるのだが。


 お峰は家の中を案内し終えると、今度は外に出た。

 夕輝が後に続いて表に出たとき、この前の少女が立っているのに気付いた。


「あ、君……一昨日はゴメンね。君もこっちに来ちゃったの?」

 少女に声をかけると、お峰が振り返った。

「この子が昨日言ってた子かい?」

「はい」

十六夜いざよい

 少女が夕輝を見上げて言った。

「え?」

 夕輝が聞き返した。

「十六夜」

 再び少女が言った。

「もしかして、俺のこと?」

 少女が頷いた。

「誰かと勘違いしてるんじゃないのかな? 俺は……」

「十六夜」

 そう言って少女が微笑んだ。

「あんた、名前はなんてんだい」

 お峰が少女に訊ねた。

骨喰ほねばみ繊月丸せんげつまる

「ほねばみ……せんげつまる? 変わった名前だね」

「十六夜、朔夜さくやが呼んでる、行こう」

 骨喰繊月丸と名乗った少女が夕輝の手を取って引っ張った。

「朔夜? 朔夜って誰?」

 十六夜という名前にも朔夜という名前にも心当たりがない。

 夕輝は当惑してお峰の方を振り返った。繊月丸は夕輝の手を引っ張っている。


「その子を送ろうとして帰り道が分からなくなったんだろ。なら、その子についていけば何か分かるんじゃないのかい?」

「あ、そうか」

 繊月丸は相変わらず手を引いている。

「じゃあ、行ってきます」

「はいよ」

 夕輝は踵を返してから気付いた。もし家に帰れたとしたらここへはもう戻ってこられないはずだ。

「あの、もしかしたら帰ってこられないかもしれないので……その、お礼が出来なくてすみません」

「分かったよ。こっちのことは気にしなくていいからね。帰れるようなら迷わず帰るんだよ」

「有難うございます」

 夕輝は頭を下げると繊月丸について歩き出した。


       五


 大きな川の橋を渡り、次に小さな橋を渡り、細い川の横を歩いて行くと寺が見えてきた。大小いくつもの寺が並んでいる。

 二人はそのうちの一つに入っていった。

 境内の中は木々が生い茂っていて静かだった。


「ここ」

 繊月丸が立ち止まった。

 夕輝は周りを見回した。


 そのとき、木の陰から長い髪を後頭部で束ねた若い男が出てきた。

 紺色の羽織袴で腰に大小を差していた。

 涼やかな目元に通った鼻筋、長身白皙の整った顔立ちをしていた。

 落ち着いた印象の侍だった。

 そのとき、背後から殺気を感じた。

 振り向きざま、いつの間にか手に持っていた日本刀で、振り下ろされた刀を受けた。

 すごい力だ。手が痺れる。

 刀を振り下ろした男はにやりと笑った。


 浅黒い肌に太い眉、ぼさぼさの髪で、この男も髷を結っていなかった。

 男は素早く刀を引くと喉元めがけて突いてきた。

 夕輝は刀を弾くと峰に返して小手を見舞った。

 夕輝の刀が弾かれる。

 後ろに跳んで二の太刀をよけた。

 男は一歩踏み込んで突いてきた。

 刀を上に弾くと胴に打ち込んだ。

 男はそれを後ろに跳んでよけると、すぐに前に踏み込んで上から振り下ろしてきた。

 夕輝が左足を引き体を開いてかわすと、男は刀身を返して横に払ってきた。

 それを刀で受ける。

 刀身から火花が散った。

 男が逆袈裟に切り上げた。

 刀身を巻き付けるようにして跳ね上げると、とっさに喉めがけて突きを繰り出した。


 よけられた!


 二人の動きが止まった。

 男の刀は夕輝の首の横につけられていた。


「そこまで。どうだ、残月ざんげつ

「ま、十六夜ならこんなもんだろ」

 ここは怒るべきなんだろうか。

 いきなり斬り付けられたのだ。

 しかし、繊月丸が彼らと引き合わせたことを考えると帰る方法を知っているかもしれない。

 そのとき、繊月丸の姿が見えないことに気付いた。いきなりの斬り合いに怯えて逃げたのだろうか。

「繊月丸……ちゃん?」

 夕輝が呼びかけると、

「繊月丸ならそこにいるだろうが」

 ぼさぼさ頭が夕輝の手を指した。

「え?」

 訳が分からないまま手を見下ろすと、突然刀が夕輝の手を離れ、少女の姿になった。

「なっ!」

 夕輝は思わず飛び退いた。

「これはどういうことだよ! あんた達は一体何者だ!」

 驚きのあまり、つい声を荒げてしまった。

「私は朔夜。そいつが残月。その子が繊月丸」

 朔夜と名乗った青年が穏やかな声で答えた。


「そして、君が十六夜。我らは天満の一族だ」

「冗談じゃない! 勝手に親戚にするな! お前達みたいな親戚がいるなんて訊いたことないぞ!」

「本来なら君の手は借りないはずだったからな」

「俺の手って、じゃあ、俺が江戸時代に来たのも……」

「私が呼んだ」

「ふざけるな! 現代に帰せ!」

「それは出来ない。君の力がいるんだ」

「お前らの勝手な都合で、なんで江戸時代に連れてこられなきゃなんないんだよ!」

 朔夜はしばらく考え込むように夕輝を見ていた。

ぼう凶月きょうげつになった。惨劇を止めなければならない」

「望ってなんだ! それと俺とどんな関係があるんだよ!」

「次の望が要る。君が」

「冗談じゃない! 勝手なこと言うな! 俺を家に帰せ!」

 朔夜は小首をかしげた。

「……いいだろう。残月に勝てたら帰してあげよう」

「ホントか!?」

「嘘はつかない。繊月丸は君が気に入ったようだ。君に預ける」

「ま、せいぜい頑張れよ」

 二人はそう言うと林の中に消えていった。


「この人は天満夕輝さん、これからここで暮らすことになったからよろしくやっとくれ」

 お峰はそう言って奉公人に夕輝を紹介した。

 奉公人は五人。

 番頭の亥之助は四十歳くらい、顔が丸くて目が細い。笑みを浮かべているような顔をしていた。

 それに、三十代の痩せた男と、大柄な――と言っても百六十五センチくらいだが――二十代半ばくらいらしい男と、やはり二十代半ばくらいの中肉中背の男。それに夕輝と同い年くらいの男の子だった。

 三十代の男は小助といって狐みたいな顔をしていた。

 二十代半ばくらいの大柄な男は仙吉と言って顔は怖そうだが、はにかみやらしく夕輝におずおずと笑って見せた。

 もう一人、二十代半ばの男で、せかせかした様子をしているのは三助の良三。三助というのは下男で、客の背を流したりする仕事をするそうだ。

 夕輝より少し若い男の子も背が高い――百六十センチちょっと――が、猫背でのっそりしている。その男の子の名は由吉と言った。

 紹介されると五人はすぐに仕事に戻っていった。


「あの、俺も何か手伝います」

「そうかい、それじゃあ、小助に聞いてみとくれ」

 お峰の了解を取ると、夕輝は湯屋の裏に回った。

 仙吉が薪を割り、小助が湯を沸かしている。

 由吉は薪の調達に行っていた。

 番頭の亥之助は番台にいるらしい。

「小助さん、俺も手伝います」

 夕輝はそう言うと、薪を小助のところへ運んでくるようにと指示してくれた。

 抱えられるだけの薪を抱えて小助の元へ持っていく。

 袖や裾が邪魔だな、と思って仙吉達をよく見ると、上半身は腕まくりをし、下は裾をまくり上げて帯に挟んでいる。足はもちろん、褌まで見える。

 夕輝は迷った。

 仙吉達と同じ格好をするべきか。

 しかし、足どころか褌まで見えるような格好をする勇気はなかった。


 夕輝が迷っていると、

「夕ちゃん、どうしたんだい?」

 お峰がやってきた。

「あ、あの、俺もあの格好した方がいいんでしょうか?」

 夕輝はちらっと仙吉に目を走らせた。

「尻っぱしょりしたくないのかい?」

「その……足を見せるって言うのに慣れてなくて……」

 正確には足ではなくて褌を見せたくなかったのだ。


 現代でも腰パンなんてしたことなかったし。


「そうだねぇ。お侍さんなら確かに尻っぱしょりはしないねぇ」

 お峰は考え込むように言った。

「そうだ、いいものがあるからこっちおいで」

 そう言って家の中に入っていくお峰の後をついていった。


 お峰が出してきたのはスラックスのようなものだった。股引ももひきというのだそうだ。

 腰と足首の所を紐で結ぶようになっている。

「これを履けば尻っぱしょりしても恥ずかしくないだろ」

「はい」

 夕輝は着物の下に股引を穿くと、着物を尻っぱしょりした。

「上はこれを使うといいよ」

 と言って峰湯の半纏と襷を貸してくれた。

「有難うございます」

 夕輝は襷掛けをすると薪運びを始めた。


 薪運びは思いの外きつかった。何往復かすると息が切れてきた。身体中汗だくだ。

 それにしてもこの程度でへばるとは思わなかった。

 剣道も習ってるし、運動はそこそこやっているつもりだったが、まだまだ足りないようだ。

 へたっていると、仙吉が湯屋の二階で客の相手をしてくれないか、と言ってきた。夕輝のことを気遣ってくれたらしい。有難くその言葉に甘えて湯屋の二階に上がった。

 二階では湯から上がった男達が将棋や囲碁などをしていた。

 その片隅に、若い男達が集まっていた。

 覗いてみると三十代くらいの男が本を開いていた。

「なぁ、これが読めるかい」

 男が本を周りの男達に回した。

 夕輝のところに回ってきた本を手に取った。

 表紙に「論語」と書いてあった。


 子曰、弟子入則孝、出則悌。

 謹而信、汎愛衆而親仁。

 行有余力、則以学文

 (学而篇六)


「子曰く、弟子入りては則ち孝、出でては則ち悌たれ。謹みて信、汎く衆を愛して仁に親づけ。行いて余力有らば、則ち以て文を学べ」

「お、じゃあ、意味は分かるかい」

「えっと……親孝行をして、目上の人に従い、言動を慎み、言行を一致させて、人を愛することに勤め、他の人を愛するあり方に近づけ。それでもまだ余裕があるなら古文を学べ……だったかな?」

 周りの男達から歓声が沸いた。

「あんた、すげぇな。読み方知ってるなら教えてくれよ」

 男が尊敬の眼差しで夕輝を見た。

「え?」

「頼む!」

 男が夕輝に拝みながら頭を下げた。

「俺ぁ大工なんだけどよ、近所のご隠居がこれを読めたら大きな仕事紹介してやるって言うんだよ。俺ぁこんなの読めねぇし、でも、今度子供が生まれるから仕事が必要だし、困ってんだよ」

「俺も詳しくは……この部分は学校で習ったことがあるから知ってただけで……」

「学問所に行ってたのかい?」


 学問所?

 江戸時代の学校は寺子屋じゃないのか?


「えっと、そう……です」

「知ってることだけでいいからさ、俺に教えてくれよ」

「兄ちゃん、長八もこう言ってんだから教えてやれよ」

 野次馬の一人が言った。他の野次馬も、そうだそうだと相鎚を打った。

 どうやらこの男は大工で長八と言うらしい。

「字は読めますか?」

「学問は出来ねぇが読み書きくらいなら出来るぜ」

「それなら、俺に字を教えてもらえませんか?」

「漢文が読めるのに字が読めねぇのかい」

「はい」

「じゃあ、これどうやって読んだんだい」

「これは楷書だから……すみません」

「いや、いいけどよ。じゃ、俺が字を教えるから、あんたは漢文を教える、それでいいな」

「はい、よろしくお願いします」

 夕輝は頭を下げた。


       六


「夕輝、漢文が読めたんだってな」

 夕餉の席で平助が言った。

「やっぱ二本差しじゃないのかい」

 お峰が言った。

「でなきゃ、漢文は読めるのに普通の字が読めないって事は清から来たんじゃないのかね?」

「清?」


 今の中国は清なのか。


「……中国人じゃないです」

「なんだい中国人ってな」

「……清の人じゃありません」

「だろうなぁ。清から来たならこんなに流暢に言葉が出来るわけねぇやな」

「それもそうだねぇ。あ、でも、通事つうじとかってことはないかね」

「『つうじ』ってなんですか?」

 夕輝の問いに、平助とお峰は顔を見合わせた。

「違うみてぇだな」

「そうらしいねぇ」


 訊いてみると通事というのは中国語を通訳する人のことらしい。中国以外の国の言葉を通訳する人は通詞というそうだ。どちらも読みは『つうじ』だが。

 その晩は疲れていたからか、夕餉を食べて横になるとすぐに眠りに落ちた。


「夕輝、今夜ちょっと手伝ってくれるか」

 翌朝、朝餉を食べてると平助に言われた。

「はい。いいですよ」

「捕り物かい? 危ないんじゃないかい。あんたはともかく、夕ちゃんはまだ子供なんだし……」

「何言ってんでぇ。夕輝は俺なんかより強ぇんだぞ」

「それにしても……」

「捕り物の人足が足りねぇんだよ! しょうがねぇだろ!」

「あ、俺なら平気です」

 斬り合いが怖くないわけではない。しかし、この前相手にした男が大した腕ではなかったことで、夕輝の頭には自分が斬ってしまう心配はあっても、斬られてしまうかもしれないと言うことは思い浮かばなかった。

「すまねぇな」

「ただ木刀か何かを貸してもらえますか?」

「木刀? 刀持ってんのに使わねぇのかい」

「え? 俺、刀なんて持ってませんよ」

「お前ぇの部屋にある刀。ありゃ、お前ぇが持ってたヤツじゃねぇか」


 そういえば、繊月丸があったんだっけ。

 いや、繊月丸の場合、いるなのだろうか。

 一日中刀の姿のまま壁に立てかけてあるから、「ある」がふさわしい気がするが、女の子の姿を取ったところを思い浮かべると、「いる」と言わなければならない気もする。


「でも、人を斬りたくないんです」

「確かに斬られちゃ困るな。捕り物は生け捕りにしねぇとなんねぇし。よし、東様に刃引きの刀貸してしてくれるように頼んでやるよ」

「東様ってのはこの人に手札を渡してる北の御番所の定廻り同心なんだよ」

 お峰が説明した。

「北の御番所?」

「北町奉行所って言えば分かるかい?」

「ああ、遠山の金さんの」


 いや、遠山の金さんは南町奉行所だっけ?


「なんだい、遠山の金さんってな」

「なんでもないです」

 夕輝は手を振ってから、首を傾げた。

 遠山の金さんって実在の人物じゃなかったのか?


 夕輝は湯屋の手伝いが一段落したところで繊月丸を持ち出し、湯屋の裏手で素振りを始めた。

 一心に刀を振っている間だけは現代のこと――学校や家族――を忘れることが出来た。


「……き、夕輝、夕輝! おい!」

 平助の声に我に返った。

「あっ! すみません。なんですか?」

「こちらが俺に手札を渡してくださってる、北の御番所の同心の東藤治郎様だ」


 平助が一人の侍を紹介した。

 四十代半ばくらいか。

 黄色と黒の縞模様の着物に、黒い羽織を着て刀を二本腰に差していた。

 袴ははかず、羽織の裾を帯に挟んでいた。


「天満夕輝です。よろしくお願いします」

 夕輝は頭を下げた。

「これが刃引きの刀だ」

 東は使い込まれて古びた日本刀を差し出した。

「有難うございます」

 夕輝は頭を下げて受け取った。

「今夜は頼んだぜ」

 東はそう言うと帰って行った。

「平助さん、俺、もう少し素振りしてます」

「夕輝、剣術は好きかい?」

「はい」

 剣術じゃなくて剣道だけど。

「じゃあ、どっかの稽古場へでも通っちゃどうだい」

 稽古場というのは道場のことらしい。

「それは……」

「金の心配ぇならしなくていいぜ。俺の仕事を手伝ってんだ。お前ぇが強けりゃ、それだけ俺も安心ってもんだ」

「それじゃあ、お言葉に甘えさせていただきます」

 確かに、捕り物の手伝いをするなら強ければ強いだけいいだろう。

「だからよ、俺ぁ親代わりなんだからそんなにかしこまらなくて……まぁ、いいか」


 平助がいなくなると、繊月丸が少女の姿になった。

「十六夜、どうして刀を借りるの? 私のこと嫌い?」

「そうじゃないよ。だけど、繊月丸を使ったら斬れちゃうだろ」

「斬れない方がいいの?」

「うん」

「じゃあ、刃引きになる」

「そうか。なら次から頼むよ」

「分かった」

 繊月丸は頷いた。

「あ、繊月丸」

「何?」

「あのさ、君が俺をここへ連れてきただろ」

「うん」

「じゃあ、俺を連れて帰ることは出来ないか?」

 繊月丸は小首をかしげてしばらく考え込んでから頭を振った。

「朔夜に言われた通りにしただけだから」

「そうか」

「十六夜、帰りたいの?」

「うん」

「そう」

 繊月丸は困ったような表情で俯いた。

「あ、繊月丸は気にしなくていいよ。俺が自分で何とかするから」

「分かった」


「あの方が与力の佐々木義太郎様だ」

 平助が言った。


 与力というのは同心の上役だそうだ。

 十人程の男達が集まっている中で、平助が一人の男を指した。

 黒い羽織袴に笠をかぶっている。

 羽織の下には剣道の防具のような黒いものをつけていた。

 羽織の後ろの裾の部分が割れていて、そこから腰に差した二本の刀が出ている。

 打裂羽織ぶっさきばおりというものだと平助が教えてくれた。打裂羽織の背中の裾が割れてるのは刀を通すためかと思ったが、馬に乗るとき邪魔にならないようにするためらしい。刀を差しても羽織の裾がめくれないようにというのもあるらしいが。


 後で聞いてみるとお峰に、

「あんたの筒袖つつそでの羽織もそうだろ」

 と言われた。


 筒袖の羽織……。

 制服のジャケットのことか。

 確かに背中の真ん中の裾が割れている。あれは馬に乗るためだったのか。


「あんたかい、この前ぇ助けてくれたのは」

 突然、見知らぬ男に声をかけられた。

 角張った顔に濃い眉が印象的だった。

「ありがとよ。あんたのおかげで命拾いしたぜ」

 頭を下げた男に、

「いえ、俺はそんな……」

 慌てて手を振った。

「俺ぁ正吾ってんだ。よろしく頼まぁ」

「よろしくお願いします」


 夕輝達は浅草寺の北に広がる畑にいた。

 浅草にだだっ広い畑があるなんて眩暈がしそうだ。

 少し離れたところに一軒家が建っていた。仕舞屋しもたやと言うそうだ。そこが捕り物の場所らしい。

 男の中には長い柄の武器らしきものを持っていた。先の方がU字型になっている。


 あれは刺又だな。


 学校の安全教室で、刃物を持った不審者を取り押さえるときの道具として警官が持ってきたことがある。

 他にも先がT字型でとげとげが付いている長柄のものや、先の方にとげとげの付いている長柄のものもあった。

 T字型のものは「突棒つくぼう」と言うものだと平助が教えてくれた。

 先の方にとげとげが付いているのが「袖搦そでがらみ」といい、刺又、突棒とあわせて捕り物の三道具なんだそうだ。

 はしごを持ってるものもいる。

 はしごも捕り物道具らしい。


 伍助は蚊取線香を入れる豚の焼き物を大きくしたようなものを持っていた。

「これ、なんですか?」

龕灯がんどう提灯だ」

 どうやら提灯の一種らしい。

「おい、行くぞ」

 御用提灯が一斉に掲げられ、伍助は龕灯に火を入れた。

 龕灯は横に穴が開いていて、懐中電灯のように前を照らすことが出来る提灯だった。

「御用!」「御用!」


 夕輝は平助と共に目指す家に飛び込んだ。

 中で酒を飲んでいた男達が一斉に立ち上がった。

 五人のうち、一人は牢人のようだが、残り四人は町人のようだった。一人だけ刀を横に置いていたからそう判断しただけだが。

 五人とも、だらしない着物の着方からして真っ当な職業には就いてなさそうに見えた。

 陶器が倒れてぶつかる音が響く。

 行灯の近くにいた男が火を消した。


 一瞬暗くなったが、すぐに伍助達が龕灯で部屋の中を照らした。

 捕り方の一人が柱にL字型の杭を打ち込んだ。横棒の部分を柱に打ち込み、縦棒の部分にろうそくを立てた。打込燭台うちこみしょくだいという物だそうだ。

 男達が雨戸を蹴倒して庭に飛び出した。


 夕輝達が後に続く。

 牢人が近くにいた捕り物人足の一人に斬りかかった。


「待て!」

 夕輝は後ろから牢人の方に刀を振り下ろした。

 牢人が振り返って夕輝の刀を受けた。

 青い火花が散った。

 夕輝と牢人は二の太刀を繰り出した。

 夕輝は小手に、牢人が胴に。

 夕輝の刀が牢人の手首を打った。

 牢人のそれは夕輝の着物の腹部をかすめた。

 夕輝は青眼に構えた。

 牢人が八相に構える。

 瞬間、睨み合ったかと思うと、夕輝は真っ向に、牢人が袈裟斬りに振り下ろした。

 刀と刀が弾き合う。

 返す刀で踏み込んで胴を払った。


 入った!


 牢人の刀が夕輝の肩をかすめて流れた。

 牢人が腹を押さえながら膝をついた。

 すぐに捕り物人足達が牢人を取り囲んで押さえつけると縄をかけた。

 周囲を見ると町人達も捕まっていた。

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