第五章 花筏

       一


「どうせ歌舞伎町に来るならきれいなお姉ちゃんがいる店がいいんだけどな」

 紘彬がいつもの調子で言った。

「石川の兄はホストだそうですから客以外は野郎ばかりかと」

「そうだよなぁ。この時間じゃ、客は来てないだろうしなぁ」

 紘彬はぼやきながら歌舞伎町を歩いていた。


 昼間の歌舞伎町は、明るい日差しに照らされて、饐えた臭いのする通りやビルのボロさが晒されていた。

 毎朝、町内会の人達が掃除をするのでゴミはほとんど落ちていない。

 路地から出てきた三毛猫が、紘彬達を見て一瞬立ち止まった後、道を横切ってビルとビルの隙間に入っていった。

 歌舞伎町は昼間でも大勢の人が行き交っている。カラオケやゲームセンター、映画館などに来ているのだ。


 紘彬と如月は石川信介を探しに来ていた。

 母親が連絡先も勤め先も知らないというので、紘一が言っていた「歌舞伎町でホストをしているらしい」という言葉を頼りに、ホストクラブを回って聞き込みをしているのだ。

 新宿警察署から貰ったホストクラブのリストの長さを見るとげんなりする。


「あーあ、歌舞伎町に来るのがイヤだから今の署にしてもらったのに」

「今の署にしてもらったってどういうことですか?」

「警察幹部の父親が俺の曾祖父ひいじいちゃんと同じ部隊でさ、知り合いだったんだよ。その人に頼んだ」

「部隊って戦争の……」

「そ。曾祖父ちゃん、南方の方に行っててさ、そこで一緒だったんだって。それでその人の息子とも知り合いなんだよ。俺にも警官になれって良く言ってたんだ」


 勤め先のリクエストを聞いてもらえるほどだとしたら紘彬は警察上層部にかなり強力なコネがあるという事だ。

 そうだとしたら、どうしてキャリアから外れる事になったのだろうか。

 少々の不祥事なら揉み消してもらえそうなものだが。


 如月がその点を訊ねると、

「揉み消してくれたから首にならなかったんだよ。俺は別に首でも良かったんだけどな」

 明るい口調でとんでもないことを言う人だ。

「俺、出世したいなんて思ってないし」

 それは前から知っている。

「だいたい、警視総監にでもなってみろよ。命狙われたりするんだぜ」

 怖いよなぁ、等と腕を組んで言っている。


 警視総監は警視庁のトップで、たった一人しかいないんだからまずなれませんよ。


 と言おうと思ったが、紘彬はキャリアだったのだから、如月より近いところにいたことは確かだ。

「自分は早く警部補になって、故郷に転勤したいですけどね」

「確かに家から通えると楽でいいよな」

「自分の場合、左遷されて派出所勤務にでもならない限り家から通うのは無理ですよ」

「故郷で警官になりたいなら何で東京でなったんだ?」

「地元の警官採用試験に落ちてしまいまして……次に採用試験があったのが東京で……」

 如月は恥ずかしそうに小声で言った。

「落ちてもすぐにまた受けられるのか?」

「はい。試験の日程は都道府県ごとに違いますし、年に何度かあるところもありますから場所にさえこだわらなければ、年に何回か受けられるんですよ」

「それで東京の警官になったのか。その割には訛りないな」

「訛ってるといじめられるんですよ」

「ひでぇな」

 本気で不快そうな口調で言った。

「仕方ないですよ」

 如月は苦笑した。


 訛りが違うといじめられるのはどこにでもあることだ。

 如月の小学校にいた埼玉から転入してきた子も、標準語を話すという理由でいじめられていた。

「堂々とお国言葉しゃべれよ。俺方言好きだぜ」

「桜井さんだって標準語話してるじゃないですか」

「俺のは標準語じゃなくて東京弁。だからお国言葉だよ」

 東京弁がお国言葉というのは今イチぴんと来なかった。

「江戸の言葉とは違うんですか?」

「下町の言葉はあんまり変わってないかもしれないけど、うちは下町じゃないからな」

「江戸時代は侍だったんですよね?」

「そうだけど、だからって、拙者、桜井紘彬でござる、なんて言わないだろ、今時」

 それもそうだ。

「じゃあ、世が世なら桜井さんはお殿様ですか」

「道場主だぞ。殿様が道場主なんかするわけないだろ。一介の武士だよ」

「なるほど」

 そんな話をしているうちに次のホストクラブに着いた。


「藤崎くん、子猫の貰い手、ついた?」

 紘一が次の授業のノートと教科書を鞄から取り出していると、花咲が話しかけてきた。

「一匹だけ貰われてった。残り二匹はまだ」


 ラッキー!


 花咲の方から話しかけてきてくれるなんて。

「じゃあ、今日家に行っていいかな? 子猫の写真撮って貰い手募集のチラシに載せたらどうかと思って」

「いいよ」

 紘一は信じられないという面持ちで花咲を見た。


 夢じゃないよな。


 花咲の方から家に来たいなんて言ってくれるなんて。それもお邪魔虫抜きで。

「如月さんには足向けて寝られないな」

「え?」

「いや、なんでもない」

 紘一は慌てて手を振った。


「歌舞伎町にホストクラブっていくつあるんだよ」

 歩き回ってうんざりした顔で紘彬が言った。

「正確な数知りたいですか?」

「……いい。次は?」

「あそこみたいです」

 地図と首っ引きになっている如月が灰色のビルを指した。


 紘一は夢見心地で歩いていた。

 小柄な花咲は紘一の肩くらいまでしかなかった。

 横を見ると花咲のつむじが見える。

 何となくシャンプーのいい香りがする……ような気がする。

 明治通り沿いにあるファーストフード店の角を曲がり、坂を下っていった。

 坂を下りきって住宅街に入っていくと、自分の家の前に人相の良くない男が三人、立っているのが見えた。

 紘一は足を止めた。

 男達がこちらを向いた。

 殺気立った様子で近付いてくる。男の一人に見覚えがあるような気がしたが、誰なのか分からなかった。

 紘一はかばうように花咲の前に立った。


「お前が藤崎紘一か」

「そうですけど。どなたですか?」

「お前に殺された石川信雄の兄だよ!」

 信介はそう言うとポケットから飛び出しナイフを出した。残り二人の男達も続いてナイフを構えた。


 背後で花咲が息をのんだ。

 とっさに花咲を逃がそうと左右を見回したが、二人の男が後ろに回り込んできた。

 紘一は手振りで花咲を民家のカーポートの車と塀の間に入れると、その前に立った。

 花咲の逃げ道を塞ぐことになるが、紘一が倒されない限り攻撃を受けることはない。

 男達の狙いは自分のようだから花咲を逃がすことも考えたが、囲まれているし、人質に取られると困る。

 鞄を地面に落としながらさりげなく尻ポケットから自分のスマホを出すと、後ろ手に花咲に渡した。


「俺の従兄に電話して。桜井紘彬。出なかったら如月風太」

 男達に視線を向けたまま言った。

 紘一は上着を脱いで右手に持つと腰を落とした。

 左側の男が最初に仕掛けてきた。

 ナイフを構えたまま突っ込んでくる。

 紘一がよけると男の体が泳いだ。

 右側の男と信介が続けざまに攻撃してきた。

 紘一は右手に持った上着を右側の男のナイフに叩き付けて巻き付け、思い切り引きよせながら、ナイフを持った信介の右手を蹴り上げた。

 信介のナイフが飛ばされた。

 上着を巻き付けた男の襟首を掴むと背負い投げで地面に叩き付けた。

 最初の男が体勢を立て直して斬りかかってきた。

 突き出された腕をとって引き寄せると、背負い投げをかけた。


「紘一がナイフを持った連中に襲われてる!? ……分かった、すぐ行く!」

 歌舞伎町で電話を受けた紘彬は如月に今聞いた内容を話した。

「中山巡査の電話番号知ってますか? 警邏中なら中山巡査の方が早く着くかもしれませんよ」

 その言葉に、スマホの電話帳から中山の名前を探し当てると、電話をかけた。

 覆面パトカーを止めたところまで戻っている時間が惜しかったので、タクシーを止めた。


       二


 紘彬は千円札を二枚置くと、

「釣りはいい」

 と言ってドアに体当たりをするようにしてタクシーから飛び出した。

 続いて如月が降りる。


 紘一の足下には三人の男が倒れていた。

 後ろには女の子が青い顔をして立っていた。

 中山巡査ともう一人の制服警官が、倒れている男達に手錠をかけようとしているところだった。

「紘一! 無事か!」

 紘彬は紘一に駆け寄った。

「俺は平気」

 それから後ろを振り返ると、

「花咲、大丈夫?」

 と訊ねた。

「うん。ありがと」

 花咲が頷くと、真っ直ぐで細い黒髪がさらさらと揺れた。

「これ、藤崎くんの」

 スマホを差し出されたときに手が触れた。


 紘一は動揺を悟られないように、

「サンキュ」

 と言って、顔を背けながら尻ポケットにスマホを入れた。

「あの子が紘一君の好きな子ですか」

 如月が小声で訊ねた。

「そうみたいだな」

 紘彬も声を潜めて答えた。

「警部補、そちらの二人の事情聴取は……」

 中山が男の一人を逃げられないようにしっかりと掴んだまま訊ねた。

「俺たちが署でやっとくよ」

「兄ちゃん、花咲は関係ないんだ。だから、帰してやってくれないかな」

「すまん、そう言う訳にはいかないんだ」

 紘彬は申し訳なさそうに謝った。


 紘彬と如月の二人だけならともかく、中山達が見ている。

 頼めば黙っていてくれるかもしれないが、それが発覚した場合、中山達も処罰を受けることになる。

 黙って聞いていた花咲は、

「私、行きます。ちゃんと藤崎君は悪くないって証言します」

 顔を上げてきっぱり言った。

「ありがとな。なるたけ早くすむようにするから」

 紘彬達は男達を連れて警察署へと向かった。


「あの男が石川信介なの?」

 花咲の話を訊いていた紘彬が聞き返した。

 花咲は、石川信介達が紘一を弟の仇だと言って襲ってきた時のことを話した。

「私は見てませんでしたけど、藤崎くんは絶対に石川君を殺したりしません」

「有難う。君の言うとおり紘一は何もしてないよ。石川君は心不全で倒れたんだ。紘一は介抱しようとしただけだよ」

「そうですよね」

 花咲は安心したように微笑んだ。

 笑顔になるとますます可愛かった。


 正当派美少女だな。

 こりゃ、紘一も惚れるわけだ。


 紘彬が花咲を伴って部屋を出ると紘一が如月と二人で待っていた。

「そっちはもう終わったのか?」

「はい」

「花咲、送るよ」

「有難う」

 紘一と花咲は連れだって警察署から出て行った。

 紘彬と如月は玄関のところで出ていく二人を見送った。

「お似合いですね」

「そうだな。紘一を襲った連中は取り調べ中か?」

「はい」

「ちょっと見てくる」

 紘彬は石川信介を取り調べている部屋へ向かった。


「あいつが弟を殺したんだ!」

 信介は机を叩いた。

「それは違う。お前の弟はHeのせいで死んだんだ」

「そんなはずはない! あれは安全だから違法じゃないって聞いたんだ! 有害なものだったら弟に渡したりするか!」

「じゃあ、検死報告書を見るか? それにHeはもうとっくに違法だぞ」

 そこまで聞いたところで紘彬は刑事部屋に戻った。

「どうでした?」

「あの顔でホストが出来るなら俺にも出来るよな」

 紘彬は真面目な顔で言った。


 信介は信雄によく似ていて、ジャガイモに目鼻を付けたような顔をしていた。

 違いはニキビがないことくらいだろう。

 店に出るときは化粧でもしてなければ仕事にならなそうだ。


「いや、そこじゃなくて……」

「違法じゃないと思ってたせいか、Heの所持を認めたぞ」

「そこでもなくて……」

 如月はため息をついた。

「誰かに紘一が石川信雄を殺したって言われたらしいな」

「学校でそう言う噂が立ってるとしたら、紘一君つらいでしょうね」

「そうだな。噂なんて無責任なものだしな」

 人殺しの汚名を着せられた紘一を助けてやりたいが紘彬達にはどうすることも出来ない。

 本当に殺されたのなら真犯人を見つければいいが、石川信雄の死因は薬物中毒による心不全だ。


 翌日の午後、西に傾いた日差しを浴びて、道行く人の影が長く伸びていた。

「聞き込みって靴底が減るだけで成果なんてほとんどないよな」

 紘彬がぼやいた。

「ま、そんなものですよ」

 如月が慰めるように言った。

 二人は落合での聞き込みから署に帰る途中で、高田馬場の駅前を歩いていた。

 何度も足を運んでいるが、有力な情報は聴けないまま時間だけが過ぎていた。

 紘彬がぼやき、如月が苦笑しつつ宥めるといういつものやりとりをしながら歩いているとき、見覚えがある少年とすれ違った。


「桜井さん、先に戻ってて下さい」

 如月はそう言うと少年を追いかけた。

 本屋の中で追いつくと、少年は単行本を鞄に入れようとしていた。

 とっさに如月は少年の腕を取った。

 少年がぎょっとして振り返った。

 如月は単行本を取り上げると棚に戻した。

「君、内藤君だね。紘一君から聞いたよ」

「藤崎の従兄の刑事か」

「違うよ、紘一君の友達。刑事だけどね」

「なんだよ。逮捕しようってのか」

「逮捕して欲しいの? 逮捕されれば検事にならなくていいから? 逮捕しようと思えば出来るよ。この店の防犯カメラに君が盗んでるところ写ってるから、それが証拠だよ」

 内藤は青くなった。


 離れた物陰からこの前のガードマンがこちらを睨んでいた。

「とにかくこっちへ」

 如月は内藤の腕を掴んで店から連れ出した。

 外に出ると、

「君、この辺の店からは目を付けられてるからもう来ない方がいいよ」

 と言った。

「いいのかよ、そんな事教えて」

「防犯も警察の仕事の一つだからね」

 そう答えると、スーツの内ポケットから警察手帳を取り出した。

「ストレス解消なら万引きよりこっちの方がいいよ」

 如月はそう言って手帳に挟んであったメモを渡した。

 内藤はメモに目を落とした。

「理系志望の子に数学とか物理とかを教えてくれる塾だよ。桜井さん――あ、紘一君の従兄ね――の友達がやってるところで、話は付けてあるからお金の心配はいらないよ」

 如月はそう言うと、じゃあね、と言って踵を返した。

「待てよ! なんで赤の他人にこんなことするんだよ!」

「紘一君に頼まれたからね」

 今日はもう万引きなどしないだろうと判断した如月は警察署へと戻った。


「如月! ちょっと来い!」

 刑事部屋に入った途端、課長に呼びつけられた。

「高田馬場の店から苦情が来たぞ。どうなってるんだ」

 どうやら前に如月が紘一のことで抗議したのを根に持っていたようだ。

 紘一や内藤のことは伏せて簡単に、万引きを阻止したと説明した。

 課長の部屋から出てくると紘彬が近寄ってきた。

「どうした?」

「なんでもありませんよ」

「もしかして紘一に関することで叱られたのか?」

「いえ、紘一君とは関係ないですよ」

 如月は笑って手を振った。


       三


「ここか?」

 紘彬が、地図と首っ引きになっている如月に訊ねた。


 二人は麻生に貢いだ男達から話を訊くために家を回っていた。

 以前、団藤が話を訊いていたのだが、そのときの男達の様子が「刑事に話を訊かれただけにしては態度が妙だった」と言うのだ。

 変に警戒していたり、怯えているようだったりしたらしい。

 麻生真理のマンションの周辺での聞き込みは一向に成果が出ないので、もう一度、取り巻き達に紘彬達が事情を聞くことになったのだ。


「……はい、ここです」

 リストの住所とマンションの入り口に付いている番地を見比べながら答えた。目の前には五階建ての白い小綺麗なマンションが建っていた。

 道を挟んだ向かい側には神田川が流れている。桜の花びらが花筏を作っていた。


 二人は五階の三号室の前に立った。

 表札には名前が書いてなかった。

 如月は呼び鈴を押した。

「はい」

 出てきた男は紘彬達を見て怪訝そうな表情を見せた。


 寝癖を直していたのか、大して長くない髪が濡れていた。

 平凡な顔立ちで、これでは麻生に相手にしてもらうにはブランド物のバッグを貢ぐ必要がありそうだ。

 部屋着なのか、着ている服は安売りショップで買ったようなラガーシャツにパジャマのズボンだった。


「山口光さん?」

「はぁ……」

 紘彬は警察手帳を見せた。

 途端に山口が顔色を変えた。

「ちょっと話が訊きたいんだけど、いいかな」

「俺は関係ない!」

「何に関係がないの?」

 如月が訊ねた。

「何って……」

「隠すことがないなら話しても問題ないよね?」

 如月がそう言ったとき、後ろを中年の女性が通り過ぎた。

「入れてもらえるかな。ここだと人に聞かれるよ」

 その言葉に、山口は一瞬躊躇した後、ドアを開いて二人を招じ入れた。


 中は十畳ほどのワンルームだった。少し散らかっているが、きれいな部屋だった。

 玄関の向かいはベランダに通じるサッシ、右手の壁際には乱れたシングルベッド、反対の壁際にはオーディオコンポとテレビが置かれていた。

 大きなサッシから差し込んでくる光と、白い壁が相まって部屋の中は明るかった。

 三人は部屋の隅に置かれたダイニングテーブルの椅子に腰掛けた。

 ダイニングテーブルは勉強にも使っているらしく、教科書やノート、レジュメなどが乗っていた。

 玄関の脇には小さなガスコンロと流しがありやかんもあったが、山口は刑事が来たことで頭がいっぱいらしく、お茶を入れることにまで気が回らないようだった。


 紘彬は手帳を出した。

「麻生真理さんの……」

 如月が口を切った。

「何も知らない! 父親は小沢先輩だ!」

「何も知らないって割には妊娠のこと知ってたんだね」

「え?」

「妊娠のことは隠してたらしいんだけど」

「それは……」

「なんで妊娠のこと知ってたの? 誰に聞いたの?」

 山口が言葉を継げずにいる間に如月が畳み掛けた。

「君、麻生さんの誕生日にブランド物のバッグあげたんだってね。クリスマスの時にもあげたみたいだし、最近車も買ったんだって? 学生の君によくそんなお金があるね。そのお金、どうしたの?」

 如月の言葉に、自分の事をすべて知られていると思ったのだろう。

 山口は青くなった。小刻みに震えている。

 実際はプレゼントのことと車を買ったことしか知らなかったのだが。


「それで? 車はどうやって買ったの?」

「買ってない……です」

 山口は俯いたまま、小声で答えた。

 紘彬はメモを取っていたが、集中しないと聞き取れない。

「じゃあ、どうしたの?」

「兄貴が新しい車買ったから譲ってもらいました」

 山口は俯いたまま、ぼそぼそと言った。

「鞄のお金はどうしたの?」

「バイトで……」

「鞄の値段見てびっくりしたんだけどさ、麻生さんにあげたバッグ、三十二万円もするんだね。どんなバイトしたら三十二万も稼げるの?」

「……三、三十二万もしてない……です」

 山口は小さく首を振った。

「どういうこと?」

「ネットオークションで十五万円くらいで……クリスマスの時も……」

 山口は俯きながらぼそぼそとした声で言った。


「それにしても十五万なんてよく稼げたね。何のバイトしたの?」

「夜中に道路工事して……」

 山口がテーブルの上で手のひらを開いた。そこには道路工事で出来たと思われるマメが出来ていた。

「他の人達もガテン系で稼いだの?」

「金田は親から出してもらったらしいです。永山はメッセンジャーみたいな仕事で、小沢先輩は知らないけど楽して儲かる仕事だって……」

「で、ネットオークションで十五万円で買った?」

「はい」

「でも、ネットオークションって偽物も出回ってるよね。だから田之倉君が持ってきた鞄とすり替えたの?」

「ち、違う。すり替えたりしてない」

 山口は首を振った。

「ネットで調べて確かなところだって聞いたし、ショッパーも付いてたから間違いなく本物……」

 どんどん声が小さくなって語尾は消えた。

 絶対の自信があったわけではないらしい。


「なんか自信なさそうだね。それなのにすり替えなかったのはなんで? もし偽物だったらバレるかもしれないって思わなかったの? 売られるって分かってたんでしょ」

「……俺のは売らないって……言ってたから……」

「どうしてそれが嘘じゃないと思ったわけ?」

「それは……」

 山口は困ったような表情で黙り込んだ。


「麻生さんといい仲だったからじゃないか?」

 不意に紘彬が言った。

 山口がぎょっとしたような顔になった。

 如月は山口の表情をじっと見つめた。

 山口は口を開けたり閉めたりしていたが、言葉は出てこなかった。

 図星らしい。


「だから、子供のこと知ってたんだね。身体の関係があったから……」

「でも、俺の子じゃない! 妊娠五ヶ月って言ってたけど、俺が寝たのは四ヶ月前だ!」

 紘彬は指を追って数えた。

「日数はあってるな」

「え?」

 如月と山口が驚いたような顔で振り返った。

「妊娠の週数は数え方が独特なんだよ。一週が七日なのは同じだけど、四週で一月だから、一月は二十八日なんだ。だから妊娠五ヶ月だったなら大体四ヶ月くらい前。丁度クリスマスの頃だな」

「もしかして、クリスマス、一緒に過ごした?」

「いえ、二十三日です。イブは家族と過ごすからって……じゃあ、ホントに俺の子……」

「まぁ、麻生さんが……」

 紘彬は言葉を濁した。


 彼氏がいるとは言っても、自分と付き合っていると思っていた女性が他の男と寝たのではないかとは言いづらかったのだ。

 しかし、今まで色んな人から話を訊いてきたところでは、麻生はイブを家族と過ごすような性格だとは思えない。


「やっぱり、麻生さんに言われたんだ。君の子妊娠したって」

 如月がそう言うと、山口は小さく頷いた。

「それで? 妊娠したって言っただけじゃないでしょ。なんて言われたの?」

「堕ろすから五十万円くれって……でも、俺の子じゃないと思ってたし、そんなお金もないし……」

「腹が立ったから麻生さんを殴って、ついでに子供を流産するようにお腹も蹴った?」

「お腹を蹴られてたんですか!?」

 山口が驚いた表情で身を乗り出した。

「君が蹴ったんじゃないの?」

「そんな事しません!」

 山口は血相を変えて否定した。

 紘彬と如月は顔を見合わせた。


       四


「山口のこと、どう思った?」

 紘彬と如月は山口のマンションを後にして、金田豊の住んでいるところへ向かっていた。

 山口と同じく、麻生と同じ大学に通っている学生で、やはりクリスマスと誕生日にブランド物のバッグをプレゼントしていた。


「嘘をついているようには見えませんでしたが……あ、ここです」

 そこは桜上水駅から十分ほど歩いた閑静な住宅街だった。

 普通の一戸建て住宅に見えるが、外側に階段がついており、表札には百日紅荘と書かれていた。

 見ると、門のところにひょろっとした木が植わっていた。

 百日紅らしい。そこは年中日陰なのだろう。あまり生育が良くないようだった。この木が多分、百日紅荘の名の由来なのだろう。

 一階は大家の住居で、二階が賃貸の部屋らしい。


「金田豊さん?」

 出てきた男は寝ぼけ眼で頭はぼさぼさ、着ている白いTシャツも薄汚れてよれよれだった。

「はぁ」

 金田は怪訝そうに二人を見た。

 紘彬と如月が警察手帳を見せて名乗ると、視線が揺れた。

 ドアから顔を出して辺りを窺うように左右を見た。動揺しているようだ。

「入れてくれるかな?」

 如月がそう訊くと、

「ちょっと待ってください」

 と言って中へ引っ込んだ。


 部屋の中から物音が聞こえてきたかと思うと、再びドアが開いて二人を招き入れた。

 金田の部屋は民家の二階の一室だけあって六畳一間に簡単な台所がついただけだった。

 ドアの真向かいの壁に窓があるが、真ん前が高いマンションだから赤茶色の壁しか見えなかった。

 窓についているカーテンレールに洗濯物が干してあった。

 布団が部屋の片隅に押しやられている。その布団の下に汚れ物などを隠したのか、シャツの袖が覗いていた。


「麻生さんのことを訊きたいんだけど」

「はぁ」

 金田は覇気のない声を出した。

「君、クリスマスと誕生日にバッグを贈ったでしょ。お金はどうしたの?」

「それは……」

 金田は俯いてしまった。

「言えないようなことして稼いだの?」

 如月の言葉に、二人が刑事だと言うことを思い出したのか、慌てて首を振った。

「金は親に……」

「女の子にプレゼントするお金が欲しいって言ったの?」

「……クリスマスの時は友達と旅行に行くからって……。誕生日の時は特別授業のお金だって言って……ちょうど学期が変わったところだったし……」

「売られるって知ってたんでしょ。なんでプレゼントしたの?」

「売ったりしてません」

「じゃあ、麻生さんは同じ物を何個も持ってると思ったの?」

「みんな渡した物が違うんですよ。一口にバッグって言ってもデザインとか色々あるから」

 そんなことも知らないのか、と馬鹿にするような表情がちらっと浮いた。


「残念だけど、同じ物を貰って売ってたんだよ」

 紘彬がハンドバッグの型の名前を言った。

 金田はまさか、と言う顔をした。

「田之倉さんが偽物だったって非難されてたの見てたよね? そのとき売ったんだって気付かなかった?」

「田之倉は真理ちゃ……麻生さんに嫌われてたから、きっと手元に置いておきたくないんだと……」

 だんだん自信がなくなってきたらしく、語尾は小さくなって消えた。

「ホントに? 売られたんだって気付いて腹が立って麻生さんのお腹を蹴ったんじゃないの?」

「お腹を蹴られてたんですか!? じゃ、じゃあ、お腹の子は……」

 そこまで言ってハッとしたように口をつぐんだ。


「麻生さんが妊娠してたこと知ってたんだ。もしかして父親は君?」

「違います!」

「麻生さんに、堕ろすからお金くれって言われたんじゃない?」

「それは……」

 視線が左右に揺れた。そのまま俯いてしまった。

「言われたんだね。それで? そのお金も親に出してもらったの?」

「違います。俺の子のはずないからって断りました」

「君の子じゃないってのは確かなの?」

「時期が合わないから……」

「五ヶ月だって言ってたけど、寝たのは去年のクリスマス頃だったから?」

 金田がぎょっとした顔をした。

「誰からそれを……」

 紘彬は山口にしたのと同じ説明をした。

 金田は、なんでそんな面倒な数え方にしたんだ、と言いたげな顔だったが、WHOがそう決めたのだから仕方がない。


「あの様子だと、麻生って子は田之倉以外の取り巻き全員と寝てたとみて間違いないな」

 紘彬が、後にしてきた金田のアパートの方をちらっと振り返って言った。

「堕ろすためのお金を要求したのも、ですね」

「田之倉は要求されたのかね」

「田之倉と寝たとは思えませんが」

 伊藤も金田も、田之倉は麻生に相手にされてなかったと言っていた。

「しかし田之倉なら『困ってるの』って言われれば出したんじゃないか? 人が良さそうだし」

 自分のアリバイ証明になると分かっていながら、迷惑をかけたくないという理由で伊藤に証言を頼まなかったくらいだ。


「確かにそれはありそうですね。……あ、ここです」

 そこは十五階建ての煉瓦壁のマンションだった。山口の住んでいた単身者用マンションと違い、所帯用らしい。

 永山の部屋は七階だった。二人が名乗って用件を言うと、迷惑そうな顔をしながらもドアを開けて部屋の中に通した。

 永山は石川信介を少しマシにしたようなジャガイモ系の顔だった。

 日に焼けてるのでますますジャガイモっぽく見える。


「麻生さんのことだけど……」

 そう切り出した如月を永山は警戒するような表情で見ていた。

「襲った奴に心当たりある?」

「田之倉です」

「どうしてそう思うの?」

「そうじゃなきゃ警察に捕まるわけないし……」

「それだけ? 君、法学部でしょ。推定無罪って習ったはずだけど」

「田之倉は麻生に嫌われてたから……バッグのことで逆恨みしたんだと……」

「バッグと言えば、君も贈ったそうだけど、お金どうしたの?」

「バイトで……」

「何の?」

「宅配の配達です」

「配達のバイトってそんなに儲かるものなの?」

「ずっとやってて貯めていたから」

「ずっとってどれくらい?」

「三年くらい……」

「君も麻生さんと身体の関係あったの?」

 永山がぎょっとした表情になった。


「あ、ありません!」

 永山は青ざめた顔で首を振った。

「ホントに?」

「本当です! 麻生は小沢先輩と付き合ってたんですから!」

「じゃあ、何の見返りもないのに三十二万もするバッグ贈ったの? それも二度も」

「それはその……もしかしたらって、下心があったし……美人だから一緒に出かけるだけでも自慢だったって言うか……」

 永山は消え入りそうな声で答えた。


 確かに、写真で見る限り麻生はすごい美人だ。

 そんな麻生と二人きりで歩けたら鼻が高いという気持ちは分かった。

 しかし、自分だったらそのためだけに三十二万もするバッグを贈る気にはなれない。しかも年に二度も。

 如月は、もし自分にそれだけの金があったら、祖母を温泉にでも連れて行ってあげたいと思った。


       五


「次は小沢渉か。今日はそれで終わりだな」

 紘彬と如月は坂を上ったり降りたりしながら下北沢の住宅地を歩いていた。

 自動車が一台しか通れない狭い道路を、ひっきりなしに車が通り、その度に立ち止まらなければならず歩きづらい事この上ない。

「桜井さん、山口や金田が麻生と付き合ってたってよく分かりましたね」

「大学時代の知り合いにいたんだよ。麻生みたいな女の子のパンツに潜り込もうと必死だったヤツ」

 ブランド物の高いバッグなどを貢ぐためにバイトに明け暮れていた。

「授業に全く出ないでひたすら働いて金稼いでたんだよ」

 結局、その男は退学になった。

「それで、どうしたんですか?」

「あいつは女の子の物欲さえ満たしていれば付き合い続けられると思ってたんだ」

「違ったんですか?」

「医大生ってステータスが無くなった途端捨てられた。その女の子はちゃんと大学卒業して医者になったヤツと結婚したよ」

「それで、その人はどうなったんですか?」

「特に親しかった訳じゃないから詳しくは知らないけど、最後に消息を聞いたときはコンビニでバイトしてるって言ってたな」


 下北沢も、駅から離れると閑静な住宅街だ。

 殆どが一戸建ての家だが、階数の少ないマンションも少しだが建っていた。

 小沢の住むマンションも三階建ての小さい建物だった。

 小沢は紘彬たちが名乗って用件を言うと、狼狽えた表情を見せた。

 中へ入って椅子に座っても、落ち着かない様子で貧乏揺すりをしていた。


「あの、麻生の意識は戻ったんですか?」

 二人が椅子に座ると小沢の方から切り出した。今まで会った中で麻生の容態を訊いてきたのは小沢が初めてだ。

「まだ意識不明のままだよ」

「治りそうですか?」

「もし治りそうだったらまた殺しに行くの?」

「そんなことしません!」

 小沢は机を叩いた。

「麻生さんに腹を立ててなかった? 君と付き合ってるのに他の男ともデートして、せっかく贈った高い鞄も売られて」

「ホントに真理は他の男とデートしてたんですか?」

「そうみたいだよ」

「じゃあ、やっぱり子供の父親は俺じゃないのか」

「妊娠してたこと知ってたんだ。堕ろすからお金くれって言われたんでしょ」

「はい」

 小沢は素直に認めた。


「それでお金渡したの?」

「それはまだ……」

「お金渡したくなくてお腹を蹴って流産させようとしたんじゃないの?」

「そんなことしません! ていうか、お腹蹴られてたんですか? じゃあ、子供は……」

「流産したよ」

「そうですか……」

 一瞬、ほっとした表情が浮かんで、慌ててそれを隠した。

「堕胎のお金は出してなかったとして、贈ったバッグのお金はどうやって稼いだの?」

「それは……」

 小沢は俯いて黙り込んでしまった。

 紘彬と如月も黙って小沢を見ていた。沈黙に包まれたまま時間だけが過ぎていく。

 大分たってからようやく小沢が顔を上げた。


「あの……俺、容疑者なんですか?」

「それは君次第かな」

 と言っても小沢にはアリバイがあった。

 財布を落として交番で手続きをしていた。警察にいたのだからこれ以上のアリバイはない。

「でも、俺、警察にいたし……」

「三十二万もするバッグを簡単に買えるだけの経済力があれば誰かに頼むことも出来たんじゃない?」

「俺は真理にそんなこと……」

「じゃあ、バッグはどうしたの? それにクリスマス一緒に過ごしたんじゃない? そのお金は? どうやって稼いだの?」

 小沢は再び黙り込んだ。


「殺人未遂の容疑者になってまで隠さなきゃならない儲け話って何?」

 長い沈黙の後、

「……話したら見逃してもらえますか?」

 ようやく囁くような声で言った。

「約束は出来ないよ」

 小沢は俯いて手のささくれをいじっている。

「殺人罪より重いのは強盗か放火殺人くらいだって知ってるよね? 強盗でお金を稼いだの?」

「ち、違います!」

「じゃあ、何?」

「家庭教師を……」

「隠そうとしたってことはただの家庭教師じゃないんだ」

「その……」

 小沢はぽつぽつと話し始めた。


 小沢は知り合いに紹介されて家庭教師をしていた。

 その家庭教師で月十五万円稼いでいるという。

「月十五万!? 何時間働いてるんだ?」

 紘彬が身を乗り出した。

「週二回、二時間ずつ……」

「それを何件?」

「一件……」

「月八時間で十五万円も貰ってるのか? どこの金持ちに雇われてるんだよ。なんか特殊な教科か何かなのか?」

 紘彬は、小沢の行っている大学にそんな特別な学部があっただろうかと首をひねった。


「いえ……帳簿上は平日は時給五万円で一日八時間を週五回、土日は時給十万円で一日八時間働いてることになってて……十五万は名義貸しも含めて……。あと、同じ大学に行ってるやつの名前と住所教えたら一人につき一万くれるって言われて知り合い全員の名前と住所教えたんで……」

「そこで働いてるの何人?」

「名義だけのヤツも含めると五百人以上いるって……」

「それ資金洗浄だろ!」

「マネーロンダリングしてるの!?」

 二人は同時に立ち上がった。

「雇い主は? どこの暴力団だ?」

「し、知りません。俺、家庭教師してるだけだから……」

「ちょっと署まで来てもらおうか」

「え? でも……」

 小沢は紘彬と如月の顔を交互に見た。


 警察署へ向かうパトカーの中で、紘彬と如月は他の三人のことを訊ねた。

「山口君が何のバイトしてるか知ってる?」

「道路工事かなんかだったと……」

「どこの会社か知ってる?」

「いえ」

「永山君は?」

「配達の仕事を」

「配達の仕事ってそんなに儲かるの?」

「夜やってたから、夜勤手当か何か出たんじゃ……」

「なんで夜って知ってるの?」

「歌舞伎町とかに飲みに行ったとき、よく会ったから……」

「金田君は?」

「あいつんちは金持ちだからバイトはしてないと……」


 警察署に着くと、小沢は取調室に入れられた。取り調べは団藤と上田が行うことになり、紘彬と如月は刑事部屋へと戻った。

「桜井さん、お茶、もう一杯どうですか?」

 如月は、自分の席に座っている紘彬に訊ねた。

 手には小さいお盆を持っており、そのお盆の上には急須が載っていた。

「悪いな」

 紘彬はそう言って自分の湯飲みをお盆の上に載せた。

 湯飲みにお茶を注ぐとお盆を紘彬に差し出した。

「あー、喉渇いた。誰もお茶出してくれなかったもんなぁ」

 紘彬がぼやいた。

「仕方ないですよ」

 如月は笑った。

 警察に話を聞かれていたのだ。普通の人間は緊張してお茶どころではないだろう。むしろ平然とお茶などをいれられる方が怪しい。

「あの四人の話聞いてどう思った?」

「とりあえず、バイト先に問い合わせてみます。金田は親に」

「そうだな。さて、帰るか」

 紘彬は、スマホで紘一にこれから行くという簡単なメールを打つと立ち上がった。

 如月も支度をすると、紘彬と連れだって刑事部屋を後にした。

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