第三章 花香

第三章 花香かこう


       一


「歌舞伎町の派出所って、日本で一番人数が多いんだろ。なんで俺達が行かなきゃならないんだよ」

 紘彬がぼやいた。

「いくら人数が多くても全員をこっちに回すわけにはいきませんし、うちの事件も関わってますから」

 如月が宥めるように言った。


 紘彬と如月は、団藤達と共に数人の新宿警察署の警官達と歌舞伎町を歩いていた。

 警官達は背中に「警視庁」と書かれたジャケットを着用していた。Heを売っているというタレコミのあった店を強制捜査するのだ。

 夜の歌舞伎町は昼間とは違う明るさで満ちている。ネオンサインが通りを照らしていた。


 酔ったサラリーマンの一団や早稲田大学の校歌を歌っている大学生とおぼしきグループ、華やかな服装のOL達が通り過ぎていく。

 道端には高校生と思しき少年少女がしゃがみ込んでいる。客引きがうろつき、道の両側でスピーカーが店の宣伝をがなり立てていた。

 半裸の女の子の看板がそこかしこに掛かっている。イラストの看板もあったが、水着か下着なのは同じだった。


「そういえば、この前桜井さんの家に伺ったときなんですけど……」

 血刀男と戦ったときのことだろう。

 如月を連れて行くのはいつも紘一の家で、紘彬の家に連れていったことはない。

「表札に桜井さんの名前の他に平仮名で『ひろあき』って……」

「ああ、それ祖父ちゃん」

「お祖父様と同じ名前なんですか。でも、珍しいですね。お祖父様のお年で名前が平仮名って」

「いや、ホントはこう書くんだ」

 手帳に『紘暁』と書いて見せた。


「それじゃあ、どうして……」

「俺んち代々男子の名前には『紘』って字を入れるんだけどさ、祖父ちゃんの代になってネタ切れになったらしくてご先祖さまと同じ名前つけたんだよ。それが紘暁」

「なんで平仮名で……」

「それがさ、ご先祖さまの紘暁ってすごい剣豪だったっていうんだよ。で、自分はまだその域に達してないから紘暁を名乗る資格はない、とか言ってるんだ。配達の人が困るから漢字にしろって言ってるんだけどな」

「確かに配達の人は困りそうですね」

 如月は苦笑した。

「どこまでホントか分かんないのにさ」

「ホントじゃないんですか?」

「柳生十兵衛と戦って勝ったとか言ってるんだぜ。柳生十兵衛ってところからしてインチキくさいだろ」

「自分は世界史選択だったので……」

 如月は言葉を濁した。

 確かに柳生十兵衛は嘘っぽいが、それを口にするわけにはいかなかった。


「そんなインチキくさい祖先を越えるなんて絶対無理だって。それなのにそんなこと祖父ちゃんに吹き込んで。曾祖父ひいじいちゃんも酷なことするよな」

 それは言えるかもしれない。

「俺が生まれたとき、自分が果たせなかった夢を託したい、とか言って同じ紘暁にしたかったらしいんだけど、同じ戸籍……だったかな? その中に同じ読みがいるのはかまわないらしいんだけど、同じ漢字は読みが違ってもダメらしくてさ、それで俺は紘彬になったんだ」

 そんな話をしているうちに警官達は古びたビルの前に立ち止まった。


 新宿警察署の山下刑事が制服警官数人に裏に回るように指示した。

 団藤も紘彬の方を向くと、如月とともに裏口に向かうように言った。

「了解」

 細い路地を通って裏口に出たとき、荒々しくドアが開いて数人の男達が飛び出してきた。

 服装などはまともそうに見えるが、目つきや身のこなしで下っ端のチンピラだと分かった。

「止まれ!」

 如月が制止した。

「こっちにもいやがったか!」

 チンピラ達が一斉に襲いかかってきた。


 それはほんの一瞬のことだった。

 瞬きする間に紘彬は立て続けに二人、背負い投げで地面に叩き付けていた。

 紘彬に投げ飛ばされた二人は受け身がとれず、背中からアスファルトの地面に落ちたらしい。

 地面に伸びたまま動かなかった。気を失っているようだった。そばにいた警官が倒れている男達に手錠をかけた。

 如月はナイフを持って襲いかかってきた男の手首を掴むと捻り上げた。男がナイフを取り落とす。そのまま階段の手すりに押しつけて手錠を出すと、片方を男の手にかけ、もう一方を手すりにかけた。

 警官達もチンピラを取り押さえようとしている。

 紘彬はナイフで斬りかかってきた男の手を払うと襟首を掴んだ。


 如月は別の男に向き直った。

 紘彬が男を投げ飛ばすのと、如月が別の男を取り押さえるのはほぼ同時だった。


 紘彬と如月、それに制服警官達が倒した男達それぞれに手錠をかけた。手錠が一つ足りなかったので店内から出てきた警官のを借りた。

「今度から前もって人数教えとけよ。人数分の手錠用意しておくからな」

「地獄へ堕ちろ」

 お決まりの台詞をチンピラの一人が吐き出すように言った。


 歌舞伎町の夜空は曇っていた。新宿ではこれが当たり前なのだ。

 紘彬が小学生の頃、何故毎晩空が曇っているのか不思議だった。とにかく毎晩曇っているから星というものを殆ど見たことがなかった。

 理由はテレビが説明してくれた。ヒートアイランド現象によるダストドーム現象だった。

 昼間、日差しでコンクリートが温められ夜間にその熱が放射されて上昇気流になる。

 都市の空気が上空へと上がっていき、そこへ郊外から塵だの排気ガスだのの混ざった(都市部よりは)冷たい汚れた空気が流れ込んでくる。その汚れた空気が空を覆うから曇りのようになり、星を隠すのだ。

 しかし、冬はヒートアイランドが起きにくいため、ダストドームが起こることは少なく、晴れてる晩も結構ある。冬の星空には一等星が多いこともあって、紘彬も冬の大六角形や大三角形、それにオリオン座などの星座は知っていた。春から秋にかけての星座はさっぱりだが。

 昔、合宿で山奥に行ったとき、夜空を見上げて、あまりの星の多さに驚いた。

 山奥は街灯もなくて地上は真っ暗だったが、それとは反対に夜空は無数の星で明るかった。

 ダストドームに覆われ、雲が地上の光を反射して薄明るい夜空の下を警官達が捕まえた男達を連行していた。


「え? 新宿署で取り調べすんの?」

 自分たちの警察署でするものだと思っていた紘彬は驚いて聞き返した。

「ここは新宿署の管轄ですから」

「じゃあ、俺達はチンピラを捕まえるためだけに来たのか?」

「一緒に新宿署に行って取り調べに立ち会うんですよ」

 如月が笑って答えた。

「今日も遅くなりそうだな」

「遅くなるくらいならいいですけど、今日捕まえた連中の取り調べで進展がなかったら、また歌舞伎町に来ることになりますよ」

 そのとき、前から歩いてきたスーツ姿の三人組の一人が、

「桜井! 桜井じゃないか!」

 と、紘彬に声をかけてきた。

「よお! 久しぶりだな」

 紘彬が笑顔で手を上げた。

「最後に会ったのいつだっけ?」

 三人組とひとしきり肩などを叩き合った後、紘彬は如月の方を向いた。


「この三人は俺の高校時代のダチなんだ。右から山崎、吉田、奥野」

「如月風太です。よろしくお願いします」

「こいつらとは一緒に東大を目指してたんだ。それに奥野とは剣道で全国大会への代表の座を争ったんだ。お前、まだ剣道やってんのか?」

 紘彬が奥野に訊ねた。

「いや、もうやってないよ」

「お前、ホントに警官になったんだな」

 山崎が紘彬が着用している「警視庁」と書かれたジャケットを見て言った。

「そうなんだよ。こんなださださのジャケット着せられてさ。参るよな」

 紘彬はそう言って両手を広げた。

「お前……!」


 吉田が怒ったように何か言おうとしたとき、

「桜井! 如月! 何してる!」

 団藤の怒鳴り声が聞こえた。

「すまん、また今度な」

 紘彬は右手を拝むように上げた。

「失礼します」

 紘彬と如月は団藤達に追いつくべく、急ぎ足でその場を離れた。

「皆さん東大ですか?」

「いや、受かったのは山崎と奥野だけ。吉田も東大受けたんだけど……」

 訊かれてないか、ちらっと肩越しに背後を振り返ってから言った。

「吉田は落ちちゃったんだ。浪人したんだけど、次の年も受からなくてさ。さすがに二浪は出来なくて名前も聞いたことないような大学の薬学部へ行ったんだ」

「吉田さん、なんか怒ってたみたいですけど」

「吉田は本気で医者になりたかったんだよ。でも東大以外の医学部へも入れなくてさ。だから俺が、医大も医師国家試験も合格したのに警官になったって知ってものすごく怒ってさ」


 高校の同窓会では危うく殴り合いの喧嘩になるところだったという。

 確かに、自分がなりたかったものを手に入れておきながら簡単に捨てたのだから嫌なヤツに見られるのも無理ないだろう。

 しかし、吉田が医学部に受からなかったのは紘彬のせいではないし、紘彬が受かったのは努力したからだ。勿論、吉田も努力はしただろうが。

 しかし、紘彬が医者にならなかったのは吉田に嫌がらせをするためではない。

 警官になりたかったからだ。紘彬に当たるのは筋違いだ。

 紘彬は自分に素直なのだ。

 如月はそれが分かってるから紘彬が何をしても腹は立たない。


「今は山崎が建築会社で、吉田が大学の研究室に残って、奥野は製薬会社に入ったんだ。吉田も奥野もなんかの薬の研究してるって言ってた」

「おい、早く乗れ」

 団藤がパトカーのドアに手をかけて紘彬達を呼んだ。


       二


 如月が紘彬の――正確には紘一の――家に行くようになって、しばらくたった頃だった。

 その日も定時で終わり、紘彬は如月に声をかけた。

「如月、帰ろうぜ」

「はい」

 如月は大きいと言うよりは巨大なバッグを机の下から取り出した。よくこれだけの大きさのバッグを机の下に入れられたものだ。


 人間の死体でも入ってそうなバッグを見て、

「なんだ、それ」

 と訊いた。

「腐葉土持ってきたんです」

「腐葉土?」

「祖母に言って送ってもらったんです。土が良くなればあの桜、咲くんじゃないかって思って。今年は無理かも知れませんけど……」

「悪いな」

「いつもお邪魔してるお礼です」

「ありがとな。寮から持ってきたのか? 通勤大変だったんじゃないか?」

「電車に乗れなくて二本見送りました」

 如月は苦笑した。

「……ここに送ってもらえば良かったんですよね」

「そういえばそうだな。持とうか?」

「いえ、大丈夫です」


 紘彬と如月は紘一の家に着くと、桜の木の根元に腐葉土をかぶせた。

 それが終わると手を洗ってから、いつものように紘一の部屋に入った。

 署を出るときに電話を入れておいたので、もう二リットル入りのジュースのボトルが、三つのコップと一緒に置かれていた。

「練習の成果を見せてやるぜ」

 とは言ったものの、今日は如月と紘一が先にやる番だ。

 紘一はスタートボタンを押した。

「紘兄、電話よ!」

 花耶が一階から呼びかけてきた。

「祖父ちゃんか」

 紘彬は渋々立ち上がった。


「お祖父さまって桜井さんと同居してるんだよね。何で電話してくるの?」

 ひょっとして家族の誰かの身体の具合が悪いのだろうか。

 だとしたら早々に帰った方がいいだろう。

「兄ちゃん、祖父ちゃんと話すの嫌がっててさ。いつも夜遅くまで帰らないから用があるときは電話してくるんだよ。目下の兄ちゃんに自分から会いに来るのはプライドが許さないみたいなんだ」

「なるほど」

 紘彬達の家族の具合が悪いわけではなさそうなので安心した。

 そう言われてみれば、如月は九時に紘一の家を出るが、紘彬はいつも残っている。

「いつも遅くまでお邪魔してゲームしてるけど、宿題とか大丈夫なの?」

「如月さんが帰った後に兄ちゃんに教わってる」

「そっか。桜井さん、医大卒だもんね」

「あれでも一応高校在学中は東大確実って言われてたからね」

「え! 桜井さんって東大だったの!」

「いや、確実って言われてただけ。実際模試とかでは余裕で合格圏内に入ってたらしいよ」

 その頃、紘一はまだ小学生だったので話に聞いただけだが。


「それが何で……」

「兄ちゃんはERを見て医者を目指したんだ。それが高校三年になってスタートレックにハマっちゃってさ」

 紘一は、どのシリーズだったかな、と首をかしげた。

「とにかく、航空宇宙工学をやるって言い出して……」

「でも、医大に行ったんだよね?」

「東大確実って言われてたからね。伯母さん達や先生に泣きつかれて、東大と、滑り止めの私立の医大を受験することを条件に、航空宇宙工学科を受けさせてもらうことになったんだ」


 医大が滑り止め……。


 如月には想像もつかなかった。

 もし如月に、東大へ行けるだけの頭と経済力があったら迷わず東大を選んだだろう。

「航空宇宙工学科は……」

「どこの大学だっけな。とにかく試験範囲とか違ったらしくてさ、それでも模試ではいい成績だったらしいんだけど、秋になってCSI:にハマっちゃって……」

「今度は何学部?」

「CSI:は科学捜査だから法医学……つまり医学部に戻ったってこと」

「そうするとどうなるの?」

「また医学部の勉強やり直し。結局、東大は落ちて私立の医大に入ったんだ」

「滑り止めが医大って、すごいね」

 ドラマにハマる度に進路が変わるのもある意味すごいが。

 そんな話をしていると紘彬が戻ってきた。


「何の話だ?」

「兄ちゃんの進路」

「警察に入ったのはどうしてなんですか?」

「すっごい美人の刑事がいてさ、刑事に向いてるんじゃないかって言われたんだ」

「それは何のドラマですか?」

「これはリアルの話」

「それで、その美人の刑事さんは……」

「やめちゃった」

 紘彬は肩を落とした。

「兄ちゃんがドラマに関係なく選んだ唯一の進路だったのにな。キャリアからは外れるし……」

「え?」

「ほら、俺がキャリア外れたって話、知ってるだろ」

「はい」

 それは東京中の警官が知ってるはずである。

 刑事として着任する前、同期の者がわざわざメールで知らせてきたくらいだ。


「彼女、裏で犯罪組織と通じててさ、それがバレて捕まりそうになって高飛びしちゃったんだ。今はどこにいるやら……」

 悲しそうな顔で言った。

「俺が正式に警察に入る前だったんだけど、彼女と知り合いだったからさ」

「じゃあ、その巻き添えで……」

「そ」

「でも、まだ警官じゃなかったんなら関係はなかったんじゃ……」

「特例で彼女の手伝いしたことあったんだよ。それで関係ないとも言えなくて」

「でも、知らなかったんなら、やっぱり関係ないと思うんですけど……」

「ま、上は上で考えがあるんだろ」

 紘彬は大して気にしてない様子で言った。


 歌舞伎町へ行った数日後の朝。

「失礼します。桜井警部補、お客様です」

 立花が刑事部屋に入ってきた。

 後から花耶と、もう一人の女の子が入ってきた。

「花耶ちゃん、どうした?」

「紘兄、彼女の話聞いてあげて」

「えっと……」

 紘彬は女の子に目を向けた。女の子と言っても花耶と同い年くらいだ。

「伊藤妙子です」

 伊藤は頭を下げた。つられて紘彬も頭を下げた。

「話って?」

「落合で女子大生が襲われた事件があったでしょ」

 花耶が言った。

「あれならもう容疑者を……」

「違うんです! 田之倉君はそんなことしてません! 私、知ってるんです!」

 伊藤は身を乗り出し、勢い込んで言った。

「桜井、とりあえず座ってもらえ」

 そばで聞いていた団藤が言った。


 紘彬は刑事部屋の隅にある、くたびれたソファに花耶と伊藤を案内した。

 如月が気を利かせてお茶を入れてくれた。


 伊藤が言っているのは落合のマンションで起きた殺人未遂事件のことだ。

 麻生真理という女子大生が自宅のマンションで、何者かに花瓶で頭を殴られて意識不明の重体になっていた。

 容疑者は田之倉誠一。

 事件の前日は麻生の誕生日だった。

 美人で男性にモテていた麻生は、数人の男子大学生からブランド物のバッグをプレゼントされた。

 あらかじめ何が欲しいか言ってあったので、みんな同じ物を持ってきた。

 麻生は貰った物を一個だけ残して後は質屋に持ち込んだ。

 そこで田之倉が渡した物が偽物だと判明したのだ。

 麻生は大学で、それも公衆の面前で、偽物を渡したと言って非難し、田之倉に恥をかかせた。

 それが動機と言うことで田之倉を容疑者として逮捕した。

 麻生は妊娠していたが流産した。

 どうやら犯人は流産させるために腹を蹴ったらしい。

 今は付き合っていた男の子供かどうかDNA鑑定をしているところだ。


「でも、田之倉君はやってません!」

 伊藤は紘彬を睨むように見つめて言った。

「そう思う理由は?」

「やってない」だけではどうしようもない。それで釈放されるならみんな誰かに頼んで「やってない」と言ってもらうだろう。

「田之倉君が渡したのは本物です! 私、一緒に買いに行ったから知ってるんです! ちゃんとヴィトンのショップで買いました!」

「でも、偽物のバッグには田之倉のバースディカードが入っていたから、麻生さんも彼からのものだって思ったんだよね? なんで偽物のバッグに田之倉のカードが入ってたの?」

「それは……私にもどうしてかは分かりません」

 伊藤は困ったような顔で首を振った。

「でも、麻生さんが田之倉君を家に上げるわけないんです。いつも何かに利用したいときだけいい顔をして、陰では馬鹿にしてましたから」


 確かにそういう男はいる。

 相手にされてないのに、気を引こうと必死になって女の言うことをなんでも聞くのだ。

 田之倉自身、麻生に気に入られようとして、服装なども無理して頑張っちゃった感漂うブランド服を着ていた。

 麻生真理のやっていたことも嫌らしい。

 みんなに同じ物をねだったと言うことは、最初から売るつもりだったのだろう。

 近寄ってくる男達にいい顔をして高い物をねだる。誕生日やクリスマスにはいつも高級ブランド品を取り巻きから献上されていた。

 女子学生達からは顰蹙を買っていたようだが気にしていなかったようだ。


「その麻生って子、付き合ってる人がいたんでしょ。その人には話聞いたの?」

 花耶が訊ねた。

「勿論、聞いたよ」

 付き合っている男がいるのに、他の男達に気を持たせるような態度を取っていたのだから普通なら怒って当然だろう。

 それに、子供の父親だとしたら、結婚か、堕胎費用を出すように迫られて殺そうとしたとも考えられる。

 だから真っ先に話を聞いた。しかし、その時間にはアリバイがあった。


「私、田之倉君と午後四時から六時まで一緒だったんです。アリバイになりませんか?」

 紘彬は如月の方にちらっと視線を向けた。

 如月は自分の机に座ってパソコン画面を見ながら話を聞いていた。紘彬に頷いてみせる。


       三


 麻生が襲われたのは午後五時半頃だ。

 麻生は午後五時頃マンションの部屋に入っていくのを見られていた。

 そして、午後六時に遊びに来た友達に意識を失って倒れているのを発見された。

 隣の住人が五時半頃に何かが壊れるような物音を聞いている。現場には割れた花瓶の破片が散乱していた。そうしたことから午後五時半頃に襲われたという線が濃厚だが、そのことはまだ発表されてない。


「一緒にいたってどういうこと?」

「田之倉君、すごく落ち込んでて……。麻生さんにレシートを見せて、ちゃんとしたショップで買ったって言ったら逆ギレされて、自分を嘘つき呼ばわりするのかって怒鳴られて……」

 最後の捨て台詞が、レシートを取っておくなんてみみっちぃ男、だったそうだ。


 しょうもない女だな。


 紘彬は首を振った。

「田之倉君、大学からの帰り道で歩道橋の上から道路を見下ろしてたんです」

 今にも飛び降りそうな表情の田之倉に声を掛けた伊藤は、何とか宥めすかして近くの公園に連れて行った。そこで話を聞き、慰めていたのだ。

「田之倉君は六時半からバイトだったから、六時に別れました。あのバッグを買うのにバイト増やしたんです」


 それが本当ならアリバイがあったことになる。

「あんなに一所懸命働いて買ったのに売るなんてひどい」

 伊藤はそう言うとハンカチで目を覆った。花耶が慰めるように伊藤の肩を抱いた。

「しかし、田之倉はそのことを何も言ってなかったけど……」

「分かってます。私のところに刑事さんが話を聞きに来なかったから、きっと話してないんだろうなって思って……」


 優しい田之倉のことだから、自分に迷惑をかけないように言っていないのだと思った。だから自分から話しに来たのだと答えた。

 紘彬は、ちゃんと調べるから、と言って花耶と伊藤を帰した。


「如月、まだ帰らないのか?」

 退勤時間になってもパソコンに向かっている如月に声をかけた。

「ちょっと麻生真理の事件の調書、見直してみます」

「それじゃあな」

「お疲れ様でした」

 紘彬は如月の声に送られて出て行った。


 如月が紘彬の家――正確には紘一の家だが――に行くのは週三回程度である。

 今日は紘彬が柔道の稽古に行くので如月は一人で帰る。

 如月は事件の調書や麻生の検死結果などを詳しく見直してみたが、やはり今の時点では田之倉以外怪しい人物は見当たらなかった。

 如月はパソコンの電源を落とすと刑事部屋を出て玄関へ向かった。


「如月巡査部長、今お帰りですか?」

 玄関で私服姿の立花とばったり会った。

「立花巡査も?」

「はい。今日は桜井警部補はご一緒じゃないんですか?」

「うん、桜井さん、今日は柔道の稽古の日」

「じゃあ、良かったら一緒に飲みに行きませんか?」

「え?」

 如月はその言葉にどきっとした。


 立花は可愛い。

 初めて会ったときから、ちょっといいな、と思っていたのだ。

 そんな立花に誘われたのだ。

 如月の鼓動が早くなった。


 そんな如月の思いをよそに、立花は顔を寄せてきた。

「兄の書類、盗み見ちゃったんです」

「…………は?」

 如月は立花の顔を見返した。

「歌舞伎町でHeを扱ってると思われる店の名前が書いてあったんです。それで行ってみようかと思って。ご一緒にどうですか?」

「あ、そう。いいよ」

 がっかりしたのを悟られないように、無理に笑顔を作って言った。

「ていうか、俺と会わなきゃ一人で行くつもりだったの?」

「様子を見るくらいなら平気かなって」


 案外無鉄砲な子だな。


「じゃ、行こうか」

 二人は警察署を出ると明治通り沿いのバス停に向かった。歌舞伎町でバスを降りると、立花の案内で件の店に向かった。

「立花巡査……」

「桐子でいいですよ。巡査なんて呼んだら警官だってバレちゃいますから」

「あ、じゃあ、俺も風太でいいよ、……桐子ちゃん」

「はい、風太さん。それじゃあ、行きましょうか」

「うん」


 立花に案内されて入ったのは、歌舞伎町のどこにでもあるような小さいビルに入っている、狭い酒屋だった。

 若者向けの店と違い、店内は薄暗くて、怪しげな雰囲気が漂っているように見えるのは、ドラッグを扱っている店かもしれないという先入観のせいだろうか。


 高そうだけど払えるかな。

 とりあえず、注文は一杯だけにしておこう。


 如月が店内を見回すと、壁際のトイレの入り口付近に見知った顔があった。

 ストライプのシャツの男と立ち話をしている。

 店員ではなさそうだ。向こうは如月に気付くと慌てて頭を下げた。

 如月も頭を下げる。

「お知り合いですか?」

「桜井さんのね」


 確か吉田さんって言ったっけ?


 吉田は店内を横切って席に戻った。

 そこに山崎と奥野がいた。吉田が何か言うと、二人はこちらを向いた。如月を認めると、二人が軽く頭を下げた。

 如月がもう一度頭を下げる。

 三人は席を立つと勘定をして店を出て行った。


「桜井警部補って、どういう方なんですか? なんて言うか、剣道大会で見たときはもっとりんとした人かと思ってたんですけど」

「ああ」

 如月は苦笑した。

「桜井さんって、話し方はチャラ男っぽいけどすごく面倒見が良くて頼りになる人だよ。それに、かなりの勉強家で医大に入れたのも当然って言うか……」

「そうなんですか」

 二人はそんな話をしながら店内に目を配っていた。

「それらしいのはいないね」

 強いて言えば、バーテンダーと、客とも店員ともつかない派手な開襟シャツの男が怪しいと言えば怪しい。

「一見の客がHeを欲しいって言っても売ってくれないですよね」

「そうだね」

「とりあえず、何回か来て顔なじみになることですね」

「それはいいけど、一人では来ないでね」

「はい」


       四


 刑事部屋にか細い猫の鳴き声が聞こえていた。

「おい! 何で猫が鳴いてるんだ!」

 課長が入って来るなり怒鳴った。

「あ、すみません」

 如月が慌てて立ち上がった。

「何、お前、猫連れてきたの?」

 そこへ丁度出勤してきた紘彬が訊ねた。

「子猫が捨てられてるのを見て放っておけなくて」

「見せてみろよ」

 紘彬は如月の机のそばにやってきた。

 机の下には段ボールに入った三毛の子猫が四匹、か細い声で鳴いていた。


 紘彬は段ボールの前にしゃがみ込んで、

「可愛いなぁ」

 と、子猫をなでながら言った。


「寮で飼えるのか?」

「いえ……」

 如月は困ったように俯いた。

「よし! じゃあ、俺に任せろ」

「え!?」

「紘一にメール打ってくれ。猫もらったって」

 紘彬は自分のスマホを渡すと、猫の入った段ボールを持ち上げて刑事部屋を出た。そこで、中山巡査と出くわした。


「おはようございます!」

 中山が敬礼した。

「おう、中田」

「中山です。あの、これ、警視総監賞を貰ったのでお礼に……」

 そう言って持っていた菓子折を差し出した。

「気にしなくて良かったのに。わざわざ持ってきてくれたのか」

「ささやかで申し訳ないんですが……」

「すまんな。そこの机に置いてくれるか?」

「はい」

 中山は刑事部屋に入ってきて机の上に菓子折を置いた。

「でも、ちょうど良かった。お前を探しに行こうと思ってたんだよ」

 紘彬の言葉に、中山は警戒の目を段ボールの中に入った子猫に向けた。

「俺んち知ってるよな」

「存じ上げてますが……」

警邏けいらの途中でこれ置いてきてくれよ」

 中山は困ったような表情で猫の入った段ボールを見下ろした。


 紘彬は警視総監賞を譲ってくれた相手だし、警部補に恩を売っておけばこれから何かと引き立ててくれるかもしれない。

 中山にも出世したいという野心はある。

 とはいえ、派出所に猫を連れて行ったりしたら上司に叱られるのは目に見えてる。


「頼むよ。上司に何か言われたら俺に命令されたって言ってくれ」

 紘彬は中山に無理矢理段ボールを押しつけた。

「これで昼飯でも食べてくれ」

 財布から千円札を二枚出すと中山のポケットに押し込んだ。

「そんな、いただけません」

 中山は返そうとしたが、段ボールを持っていてどうにもならなかった。

「いいから、いいから。じゃ、頼むな」

 そう言うと、中山を強引に刑事部屋から送り出した。

 中山は渋々猫の入った段ボールを抱えて出て行った。

 紘彬が振り返ると如月がいた。


「桜井さん、お金は自分が……」

「いいって。ちょうど子猫探してたんだよ」

「ホントですか?」

「紘一にメール打ったろ? 紘一が気になってる女の子が猫ほしがっててさ、なんとかしてその子に猫をプレゼントしたいって言ってたんだよ」

 如月から自分のスマホを受け取りながら言った。

「猫が四匹もいれば選んでもらうために自分ちに呼ぶことが出来るだろ」

「でも、それだと貰い手が付くのは一匹だけですよね。残り三匹はどうするんですか?」

「紘一が貰い手見つけられなかったら俺が署内で探すしかないな」

「そのときは自分がやりますので言ってください」

「じゃ、一緒に探そうぜ」

「はい……そういえば聞きました?」

「何を?」

「拘置所で土田慎司が死んだそうです」

「自殺か? そんな頭がありそうには見えなかったけどな」


 ネクタイどころか靴紐まで取り上げられる拘置所で自殺するには知恵と根性が必要である。

「それが、いきなり暴れだして、所員が慌てて押さえたらぐったりして……病院で死亡が確認されたそうです」

「それじゃあ、きっとまた押さえた所員のせいにされるな」

 以前にも刑務所かどこかで収容者を取り押さえたら、押さえられた者が死んでしまいマスコミで取り上げられたことがある。

「きっとそうでしょうね」

「放っておけば取り押さえたせいにされずにすんだんじゃないか?」

「それはそれでマスコミの非難を浴びたと思いますが」

 紘彬と如月が立ち話をしていると、団藤が手を叩いてみんなの注意を引いた。

「桜井、如月、会議始めるぞ!」


「みんなで押しかけちゃってゴメンね」

 花咲夕香梨が謝った。

「気にしなくていいよ。猫の貰い手探してたし」

 紘一はそう答えたものの内心はがっかりしていた。

 せっかく花咲と二人になれると思ったのに。

 話せるだけでも良しとするべきところだが、花咲は他の女の子達と喋っていて紘一は後ろから見ているだけだ。


「ちっちゃいー!」

 斉藤道子が声を上げると、

「この子可愛ぃー!」

 田村三枝も甲高い声で叫ぶ。

「この子も可愛いよぉ」

 吉崎絵美が子猫に頬ずりする。

「あ、あたしにもその子抱かせてー」

 斉藤が手を伸ばす。


 ちゃんと貰ってくれるんだろうな。

 花咲と二人の時間を邪魔しておいて、見るだけなんて冗談じゃないぞ。


「私、この子にする」

 花咲が子猫を抱き上げた。


 それは四匹の中で一番不細工な子猫だった。

 三毛猫なのだが、顔の大半は白いのに鼻から口にかけて小さな焦げ茶色のブチがあり、鼻くそがついているように見える。

 目や鼻の配置も微妙に狂っていて、愛くるしさが身上の猫にあるまじき顔だ。

 それに、普通猫の目はぱっちりしているものなのに、半眼になっているみたいに普通の八割くらいしか開いてない。

 まるで子猫にして既に、この世界の全ての嫌なことを見てきて世をすねているような、ふてくされた顔をしていた。


「ホントにそいつでいいの?」

 紘一が花咲の抱いた猫に目を向けると、その子猫はけっと言う顔でそっぽを向いた。


 うわ、性格悪そう……。


「きっとこの子、貰い手がつかないと思うし」


 そうだろうな。


「そんなこと気にしなくていいよ。俺が貰い手ちゃんと探すから好きなの選びなよ」

「私ね、猫はぶちゃいくな子が好きなの」

「…………」


 変わってるな。

 猫の売りと言えば愛くるしさだろうに。


「きっとね、この子、飼ったらすごく好きになると思うの。だからこの子にする」

「そっか」


 やっぱり花咲は優しいな。

 他のヤツら邪魔だな。

 さっさと帰れよ。花咲以外。


「ねぇねぇ聞いた? 内藤君のこと」

「聞いた聞いた」

 女の子達は子猫を抱きながら話し始めた。

「万引きしてるんでしょ」

「それ、ホントなの?」

「この前見たもん。高田馬場駅前の本屋さんで本、鞄に入れてたよ」

 花咲は黙って聞いていた。

 普段は悪口を止める花咲が何も言わずに聞いているのは珍しい。

「お前ら、いい加減なこと言うなよ!」

 紘一は花咲以外の女子の存在に苛ついていたこともあって、思わず声を荒げた。

「ホントに見たもん!」

 斉藤が言った。

「嘘だ!」

「嘘じゃないわよ!」

「そんな話、信じられるか!」

 言い合いをしている紘一と斉藤を、花咲をはじめとした他の女子がおろおろしながら見ていた。

「夕香梨ちゃんだって見たんだから!」


 え?


 思わず花咲の方を見ると、夕香梨は困った顔で俯いた。花咲がそんな嘘をつくとは思えない。

 ましてや嘘を言いふらすような真似はしない。

 いつも見ているのだからそれくらい分かる。


 紘一が言葉もなく花咲を見つめていると、

「何よ! みんな、帰ろ」

 斉藤はそう言うと、猫を置いてさっさと家を出た。

 他の女の子達が後に続く。しっかり猫を段ボールに戻して。


 くそぉ。


「藤崎君、この子、有難う」

 花咲は気まずそうにそう言うと女の子達について出て行った。

 後には紘一と、三匹の子猫が残った。


 やっぱり猫を貰ってくれたのは花咲一人だった……。


 紘一は肩を落とした。

 そこへ花耶が帰ってきた。

「紘一、その段ボール何? うわ、可愛いー!」

 花耶が猫を見て甲高い声を上げる。

「あげる」

「え?」

 紘一は花耶に子猫の入った段ボールを押しつけると家を出た。

「ちょっと! 紘一!」

 花耶の声が後ろから追いかけてきたが無視した。


 内藤のことを疑ってる訳じゃない。

 花咲も嘘をつくはずがないから、きっと何かを見間違えたのだ。

 やってないことを確かめるために行くんだ。


 紘一はそう自分に言い聞かせながら高田馬場へ向かった。


       五


 高田馬場駅前には何件か本屋がある。

 その一つ一つを回ったが、内藤は見つからなかった。


 やっぱり誤解だった。


 紘一は心の隅でほっとしていた。

 疑っていたわけではない。

 それでも、やはり疑いが晴れて安心した。

 そういえば、ノートを買おうと思っていたんだった。

 最後に来た書店の文房具売り場へ向かった。


 そこで内藤を見つけた。

 内藤はボールペンを無造作に掴むと鞄に入れようとした。

 紘一はとっさに内藤のそばへ寄り、手首を掴んだ。

 内藤はびくっとして振り返り、紘一だと気づくと睨み付けてきた。

「なんだよ!」

「何バカなことしてんだよ!」

 紘一は小声で言ってボールペンを奪うと元の陳列棚に戻した。

「関係ないだろ!」

「やめろよ! お前ならなんで万引きが悪いことなのか分かるだろ! 店の人が困るんだぞ!」

 そのとき、

「君達! 何やってるんだ!」

 ガードマンが近寄ってきた。

 内藤は身を翻すと走って逃げ出した。

「おい!」

 内藤を追おうとした紘一の肩にガードマンが手を掛けた。

「ちょっと一緒に来てもらおうか」


 如月が聞き込みから帰ってきて自分の席に着いたとき、電話が鳴った。

 すぐに受話器を取った。

 高田馬場駅前の本屋からの電話だった。

「すみません、出かけてきます」

 如月は刑事部屋から飛び出した。


 高田馬場駅前の本屋に着いて名乗ると店の奥の部屋へ通された。

 そこには紘一と、四、五十代くらいの男性が二人いた。

 一人はスーツ姿、もう一人はガードマンの制服を着ていた。

 スーツ姿の男は店長の谷垣次郎だと名乗った。吊り上がった目に黒縁眼鏡、口から金歯が覗いていた。これでカメラをぶら下げれば外国人が思い描く典型的な日本人旅行客だ。

 ガードマンは新発田真紀雄と言った。浅黒い肌をした、特に特徴のない顔だった。

 人に覚えてもらうのに苦労しそうな顔をしていたが、右耳の二センチ下くらいのところに大きな黒子があった。

 ガードマンの話によると、ここのところ頻繁に万引きしてると見られる少年に目をつけていたのだという。

 防犯カメラを現像したものだといってその少年の写真を見せた。

 これを各レジのカウンターの内側に貼っていたらしい。

 普通、防犯カメラに写った映像は一週間で消すが、万引きをしているところが映っているものは取ってあるという。


「紘一君は何をしたんですか?」

「目を付けていた少年と揉めていたんです。おそらく内輪揉めでしょう」

 ガードマンが言った。

「それはどういう根拠で言われてるんですか?」

「それは……あの少年と揉めていたので……」

「で、紘一君は盗んだ物を何か持ってたんですか?」

「いえ、まだ盗んでなかったんでしょう」

「あなた方は最初から紘一君を万引き犯と決めつけてますが、証拠はあるんですか」

 如月の声は穏やかだったが、内に怒りを秘めているのがわかった。


 如月さんが怒ってるところ、初めて見た。


 紘一は如月をまじまじと見つめた。

 如月は温厚で怒ることなど無いと思っていた。

「証拠なら防犯カメラに……」

「あ……」

 ガードマンが店長の言葉を遮ろうとした。

「見せて下さい」

 如月の有無を言わせぬ口調にガードマンは最後まで言えなかった。

 店長が促すと、ガードマンは防犯カメラの映像をテレビに映した。

 内藤が掴んだボールペンを鞄に入れようとしているところに、紘一が後ろから来て手首を掴み、元に戻したところが映っていた。

「これ、紘一君が万引きを阻止したように見えるんですが、自分の見間違いですかね?」

 如月の言葉に、店長とガードマンは気まずそうに黙り込んだ。

「そもそも商品を店の外に持って出るまでは窃盗ではありませんよね。外に持ち出すまではどこに持っていてもそれは客の自由ですよ」

「……申し訳ありません」

 店長とガードマンが頭を下げた。

「そこのところをきちんと認識しないで取り締まるのはどうかと思いますが」

「…………」

 二人は言葉もないようだった。店長は真っ赤になって俯き、横目でガードマンを睨んでいる。


「それじゃ、紘一君を連れて帰っていいですね」

 如月はそう言うと紘一を伴って部屋を出ようとした。

「大変申し訳ありません。これを……」

 店長の谷垣が図書カードを差し出した。

「いりません!」

 如月はきっぱりと断った。

「あ、写真の少年は誰ですか?」

 店長がどちらにともなく声をかけた。

「自分はそんな少年、見たこともないので知りません」

 如月はそうと言うと、紘一を促して外に出た。


 店の外に出た二人は、しばらく黙って歩いていた。

 高田馬場から早稲田通りを明治通りに向かう。

 両側はアーケードになっており、いろんな商店が並んでいた。

 この時間になると買い物に来る主婦や、学校帰りの学生などで人通りが多くなる。

 夕日が後ろから二人を照らして、足下から長い影が出来ていた。


「如月さん、ゴメン」

「気にしなくていいよ。君が万引きなんかしないって分かってるから」

 如月が信じてくれていたのは分かっている。

 少しでも疑っていたら防犯カメラの映像を見せろなどと言うはずがない。

「如月さんが怒ってるところ初めて見た」

「ああいう、人を泥棒って決めつける人、大嫌いなんだ」

「刑事なのに?」

 その言葉に、

「……確かに変だね」

 如月は笑顔を見せた。

「俺さ、両親がいない上に貧乏だったから、友達の家とかに行くと、いつも何か盗むんじゃないかって目で見られてたんだ。それが悔しかったし、そんな目で見られるのが惨めでね」

「ひどいね」

「まぁ、世間ってそんなものだよ」


 紘一は何か考えるように俯いていたが、

「俺さ、あいつの気持ち、少し分かるんだ」

 おもむろに切り出した。写真の少年のことを言っているのだろう。

「如月さん部活は?」

「うーん、俺は田舎育ちだから中学校までは山奥の分校だったし、高校は町中だったけど、通うのに片道二時間近くかかったから部活なんか出来なかったな」

「俺、サッカー好きなんだ」

「そうなんだ」


 紘一は紘彬と同じで、柔道と剣道をやっていたので他のスポーツが好きだとは思ってもみなかった。

 しかし、考えてみれば柔道も剣道も有段者なのだから運動神経はいいはずである。

「剣道部も柔道教室も勉強も、兄ちゃんみたいになるのが当たり前で、ほかに選択肢がない気がして、たまに息が詰まるような気がするんだ」

 時々サッカー部とかの練習を見てると羨ましくなることがある、と紘一は言った。

「そう」

「勿論、誰かにやれって言われた訳じゃないから、嫌ならやらなくても誰も怒らなかっただろうけど……でも、内藤はそうじゃない」


 検事一家なのだ。

 当然検事になると思われているだろうし、紘一と違って別の選択肢なんか選ばせてもらえるわけがない。


「内藤ってさ、数学と物理が得意なんだ。毛利衛さんの本読んでるの見たことあるし、きっと宇宙が好きなんだと思う」

 宇宙飛行士になりたいのかもしれない、紘一はそう言った。


 ある日本人宇宙飛行士が、得意分野を頑張れば宇宙飛行士になれる、みたいなことを言ったらしいが、法律の勉強を突き詰めても宇宙飛行士になれるとは思えない。

 せめて理系でなければ無理なのではないだろうか。

 単純に宇宙へ行きたいだけならば、弁護士になって金持ちになり、宇宙旅行に行くという手はあるだろうが。


「あの、このこと兄ちゃんには……」

「君が言いたくないなら黙ってるよ」

「有難う……あと、内藤のこと……ううん、なんでもない」

「俺は少年課じゃないから大したことは出来ないけど、気を付けておくよ」

 如月はそう言って署への道に足を踏み出してから紘一の方を振り返った。

「あのさ、紘一君、桜井さんと同じことしなきゃって思ってるみたいだけどさ、桜井さんって結構自分の欲望の赴くままに生きてるよね。ドラマにハマる度に進路変えたり。だから紘一君も好きなことしていいと思うよ」

 如月はそう言うと、今度こそ署へ向かって歩き出した。

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