本を返せ
部屋で仕事をしていたら、階下から、妻の呼ぶ声がした。
電話よ、早く、と叫んでいる。
ぼくは舌打ちして、下へ降りていった。
「誰?」
訊くと、小学校から電話だと言う。
小学校?
心当たりはない。
その学校は、ぼくの母校だが……
何の用だろう。
「……もしもし」
「もしもし。宮崎さんですか」
「はあ」
「私は事務室の吉村と言いますが。宮崎卓夫さんで間違いないですか」
「そうですが」
同窓会名簿でも作っているのだろうか?
「宮崎さん、実はですね、こんなことはお話ししたくないんですが」
「ええ」
「お借りになった本を返していただきたいんです」
「は」
「お借りになった本です。図書室で」
「いつです」
「平成一○年です」
「なんですって」
「平成一○年です。一九九八年」
勘定すると、ぼくが小学二年生の年である。
なぜ、そんな昔の話がいまごろ?
「どんな本ですか」
「もんだきよこさんの、『まり子の一生』です」
「なんですって」
「もんだきよこさんの、『まり子の一生』ですよ」
そんな名前、聞いたこともない。
ぼくは編集者だから、多少は世の中の書籍に通じているはずだが、もんだきよこだの、まり子の一生だの、まったく知らない。
「それは絵本ですか」
「絵本です」
「版元はわかりますか」
「それはちょっと記録がないですね」
インターネットで調べれば出てくるのだろうが、パソコンもスマートフォンも、二階の仕事部屋に置いてきてしまった。
「その本はね、たくさんの人に読んでもらいたいんです。まり子という女の子が出てくるんですがね。七歳で死ぬんです。火事で焼死するんですな」
「知りませんな」
「平成一○年にあなたが借りたきり、返却されていないんです」
「それはわかりますが、しかし、二○年以上も昔の話ですから」
「そんなことは関係ありません。返していただかないと」
「しかし、どこにあるかもわかりません」
「では探してください」
「どこをです」
「家を探してくださいよ。『まり子の一生』です。女の子が火事で焼け死にます。黒焦げになったまり子の姿が、最後のページに大きく描いてあります」
気味の悪い絵本だ。
そんな絵本をもしも読んだのなら、かすかにでも記憶に残っていそうなものだが……。
「とにかく、返してください」
「…………」
「『まり子の一生』ですよ。その本には、文字どおり、まり子という女の子が生まれてから七つで焼け死ぬまでが書いてあるんだ。絶対に返していただきたい」
「ですが」
「返してください」
しつこい事務員だ。
そんな昔のことはどうでもいいじゃないか、そのこだわりはなんなんだと思いつつ、しかし借りているのであれば返さねばなるまい。この点、相手に理があるのは否定できないから、こちらから強く出ることも難しい。
「わかりました」
と言ったのは、ぼくではなく事務員のほうである。
「では、これから宮崎さんの自宅に伺いますから。一緒に探しましょう」
「それは困る」
「なぜです。二人で探せばすぐに見つかるでしょう」
「ですが、話が急すぎる」
「急であれば見つかるのも早くなっていいでしょう」
「しかし」
「今から支度をして出発しますから。家にいてくださいね」
「ちょっと」
そこで、電話が切られてしまった。
ぼくは、電話帳で小学校の番号を引き、すぐに折り返した。
「……はい、エヌ小学校事務室です」
女性の声だった。
「わたしは卒業生の宮崎と申しますが、そちらの吉村さんにおつなぎ願います」
「え」
女性は訊き返した。
「吉村?」
「ええ。どうも図書係のようですけど。吉村さんという男性です」
「おりませんね、吉村という者は」
女性は言うのだった。
「わたくしが学校図書の担当ですが、なにか御用でしょうか?」
了
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