9.シェフズテーブル〈ヴィヤンドゥ〉


 ポワソンの皿から春の香りが漂う。

 本日ここでは『木の芽』と父はメニューに名付けていたが、実際は『タラの芽』。駒ヶ岳周辺で摘んだばかりのもので、地元で調達したからこそ香り高い。

 函館で旬を迎えたアイナメと、北海道でも『幻』となりかけていた『札幌黄』の玉ねぎを炒めた甘み、そして北海道の生乳でまとめられた『フリカッセ』を皆で食べ始めた時には、また賑やかさが戻って来ていた。


 ポワソンの後は、口直し氷菓の『ソルベ』。

 広島産レモン果汁にアールグレイの香りが漂うグラニテが出てくる。


 いよいよメインディッシュの『ヴィヤンドゥ』に入る。


 父が調理中、今度は秀星の写真集の話題になる。


「もうすぐ発売やろ。蒼、しっかり『ハコちゃん』を守れよ」

「もちろん。レストラン一同で、反響でくる波をかぶらないよう死守するつもりだよ。あ、俺の後輩としてのコメントも出るんだ。神戸時代にスマホで撮影したものだけど、秀星先輩がクレープフランベをしているものを提供したんだ」


 蒼が『本名を出した』に、篠田のご両親の表情が一変する。


「大丈夫なんか。本名なんか出してしまって」

「俺だけじゃないよ。葉子ちゃんも、『ハコ』の本名は『葉子』であって、ハコと呼び始めたのは『北星秀』だったというエピソードを掲載することもあって、十和田葉子という名を出すことにしたんだ。シェフも本名でコメントを寄せてくれたし、レストラン名も今回から出すことに決めたんだ。矢嶋社長も神戸のレストラン名と氏名をはっきり提示したうえでコメントを寄稿してくれたよ」

「そしたら、蒼。あんたがダラシーノで、本名は篠田蒼だってわかっちゃうってことなん? 葉子さんと蒼の勤め先も、ハコパパのレストランもわかってしまうん? 大丈夫なん?」


 両親の心配もごもっともだった。だから葉子からも、きちんと伝える。


「実は、写真集が発売されたら、ハコチャンネルは不定期配信にしようと思っています。そのまま『レストラン十和田』の宣伝をするチャンネルに移行してもいいと思っているんです。ここで、ひと区切り。これまでの活動スタイルを終えるつもりでいますから、父とも蒼さんとも、矢嶋社長とも相談した結果、店名と実名を出すことに致しました」


 今度は真由子義姉が、グラニテを頬張りながら驚きの顔を見せる。


「葉子さん、ハコチャンネル、やめちゃうの? 蒼がカメラマンをしていると知ってから、うちも、子供たちも夫も、楽しみにしてるし、応援しとるんよ」

「ありがとうございます。やめるわけではなくて、配信ペースを落としていきます。唄も続けますし、レストランの紹介も強化していきたいし……」


 そこで葉子はちょっと躊躇って、隣にいる蒼を少しだけ見上げる。

 彼も葉子が言いたいことをわかっているのか、微笑んで頷いてくれる。


「蒼さんと相談して決めたのですが、ソムリエになりたいと思っているんです。その勉強をする時間を確保するためです」


 篠田のご家族が『ソムリエ!?』と驚いたが、すぐに『なるほど』と頬を緩めてくれた。


「ほうか。お父さんのレストランと、蒼とおなじ仕事に邁進してゆく決意なんじゃな」

「まあ、ますますフレンチ十和田さんが発展していきそうやね」


 ご両親も『それはいいことだ』と笑顔を見せてくれる。


「葉子さんの唄チャンネルのことを聞いて、わしらもたまに動画を見させてもろうてるんじゃがの。あの、コメントというやつが、たまに辛辣なものもあって、こっちも胸が痛むんじゃが、発売後も大丈夫かのう……」

「ほうよね。ネットがそういう世界だとわかっとっても、そこまで言わんでもええやないのと思うのもあるけえ。お母さんも心配なんよ」


 そこは葉子も蒼も、父も、フレンチ十和田の皆で心構えを整えているところだった。


「大丈夫ですよ。それも覚悟のうえです。それが足りなくて……、声がでなくなったりしましたけれど、いまはこの通り、元通りですから。唄い始めたのは、あそこで毎日写真を撮っていた秀星さんが、なにを感じていて、どうしてあの撮影をすることにしたのか知りたかったからだと思います。おなじ気持ちになれるかな――なんて。『エゴなんだよ』と話してくれたことが、ずっとどのような気持ちのものなのか、子供のような若さしかなかった私には理解できず、もう問うこともできないので始めたことでした」


 あの人が息絶えた場所で唄い続けた全ては、声が戻った時に、なにもかも終えたような気がしていた。


 その時から、葉子の目は蒼を追っている。だから、もう……。


「写真集を見てくだされば、私が唄い続けていたこと、それを納得して終えること、わかっていただけると思います。そこには、私だけではなく、蒼さんも、十和田の家族に従業員、そして矢嶋社長が寄り添ってくれていたことも伝わるかと思います。ご心配くださって、ありがとうございます」


 葉子が深く頭を下げると、また空気がしんとしてしまった。

 今度、そんな空気を変えてくれたのは蒼ではなくて、弟の昴――。


「俺がいまいる町役場では、ハコちゃんが大沼のフレンチレストランの娘というワードだけで、『十和田君……、関係者?』ってバレちゃったんだよね~。発売するまで、上司も職員も情報守秘周知されているから安心して」

「あ、その時はほんとうに、心配かけてごめんね。お父さんがお願いの連絡をした時も快く協力してくれて。皆様によろしく伝えてね」

「ほんっとにもうさ、姉の声が出なくなっちゃったで、弟の俺よりも課長がおろおろしているの。十和田君、帰省しなくて大丈夫? なんて言われちゃってさ。ダラシーノが『声でなくなっちゃいましたー』って暴露したのもびっくりしたけどさあ。あれ、姉ちゃんの許可なしだったんだってね」

「え、なになに。昴君、兄ちゃんの大人の判断について、なんか言いたいわけ? わけ?? おめえ、勝手な兄貴だって言うなら、はっきり言っちゃってちょうだいっ」

「そこまで言っていないでしょ。まあ、うじうじする姉ちゃんのことだから、あれぐらい思い切ってもらって良かったんじゃないのー」

「なに、昴ったら。うじうじってなによっ」

「だーってそうだよね。ダラシーノがぐいぐい牽引しているときあるじゃん」

「あー、待って待って。僕、姉弟喧嘩の板挟みとか、泣いちゃう……。婿って弱い立場だから、やめて、ね。お願い……、お兄ちゃん、涙でちゃう」


 年若い義弟小舅に、年若い奥さんの間に挟まれて翻弄される『か弱いお婿さん』みたいに、蒼がなよっとしおれた顔を見せたので、葉子より先に昴がケラケラ笑い出した。


「ちょーっと! 蒼さんがお嫁さんみたいじゃん!」

「だって。上司はシェフだし、お嫁さんはそのお嬢様だし、弟ちゃんはお坊ちゃまよ。雇われ給仕長としてはそんなもんよ」


 今度は離れた厨房から、父が堪えきれなくて笑い出した声まで聞こえてきた。


「もう、ほんとうにおかしいなあ! 蒼君がいると、いつもこんなふうに賑やかなんですよ。非常に助かっています」


「わ、シェフに褒められちゃったっ」


 また蒼がきらきらっとした笑顔になったので、テーブル一同がわっと湧くように笑い出す。


「ほんと、やかましい息子ですみません」

「いえいえ、本当に、蒼君の明るさに、いつも救われているんですよ」


 篠田の義父と葉子の母も、それぞれが知る蒼について和気藹々と会話を交わしている。


「うちの役場の上司に職員も楽しみにしているから。俺も、どんな写真が選ばれているか、楽しみ! 俺は、秀星さんが父さんとドライブに行ったさきで撮ったと見せてくれた『倶多楽湖くったらこ』かな。めちゃくちゃ透き通った青い水辺のやつが、綺麗でお気に入り」

「それ、私も好きだったから選んであるよ。あ、広島の市電風景とかもあったので選んでいますから。『北星秀 軌跡 北海道にくるまで』というコーナーで、いままで全国を巡ってきた秀星さんの写真を選んでます」


 写真の話に切り替えた姉弟へと、蒼も続いてくれる。


「俺はやっぱり、大沼の写真がいちばんだな。夕の睡蓮の写真とか好きだ。そだ、父ちゃんと母ちゃん、姉ちゃんも、今度は睡蓮の季節においでよ。俺のところ一軒家で部屋も余ってるから」

「そうだな。でもしょっちゅう押しかけては、葉子さんがなあ」

「大丈夫ですよ。是非、いらしてください。私もお待ちしております。散策道をご案内しますね」


 そんな親族となる会話が絶えない中、父の『ヴィヤンドゥ』が仕上がり、蒼と給仕に向かう。


 それぞれの前へと、白い皿を置いていく。

 仕上げは、トリュフのスライスのトッピング。これも給仕の役目で、蒼と一緒にそれぞれの皿に直接、スライサーでトッピングをしていく。

 再度、今日はスーツ姿の蒼がメートル・ドテルとして説明をする。


「牛フィレの『ロッシーニ』でございます。はこだて大沼周辺で育った黒牛のフィレ肉を、フレンチの肉料理では王道中の王道である『ロッシーニ』で仕上げております。王道だからこそ、この土地の味をお楽しみください。フィレ肉の上にフォアグラ、そして北海道産赤ワインで仕上げたトリュフ入りソースと、トリュフスライスのトッピング。基本の料理で、大沼の味をご堪能ください」


 そこにあるのは、基本と言いながらも『シェフ・十和田政則』風のひと皿でもあった。


 華やかなひと皿で、テーブルの家族の空気もますます華やいでいく。


「いや~、こんなうまいもん、お嫁さんのお父さんが作ってくれるなんて、なかなかないですよ。お父さん、ほんっとうに美味しいです」


 篠田義父の笑顔に、父も照れくさそうだった。


「いつでもいらしてください。お待ちしておりますから。次は鴨肉もご馳走したいですね」

「いいですねえ。はあ、どの季節に行こうか迷ってしまいますな」


 父親同士の会話に、真由子義姉も『うち、いつでも付き添いで行くよ』と手を挙げると『ちゃっかりしとるわ』と義父さんに言い返されて、またテーブルで笑いが起こる。


 ここで父の仕事はもう終わり。

 皆の皿がなくなりそうになるのを見計らった蒼が、葉子に『そろそろかな』と伝えてきた。葉子も頷いて、揃って席を立つ。


 蒼はまたご案内で、家族のテーブルに向かう。


「いまからデザートをお届けしていこうと思います。本日は二種、ご用意しております」


 また真由子義姉が『やった』と拍手をしてくれる。

 でも葉子はもう緊張で硬くなっていた。


「ひとつめは『クレープシュゼット・フランベ』です。ふたつめは、当店のパティシエが本日のお祝いを込めて『デセール・マリエ』と名付けたひと皿をお楽しみいただきます」


 控えている葉子のそばに、クレープシュゼットのワゴンを、パティシエの松本さんが持ってきてくれる。

 そこにはもう、焼きたての薄焼きクレープが準備されていた。


 そして、いつものメートル・ドテルのシビアな眼差しで、蒼が家族に伝える。


「本日のクレープフランベは、葉子が行います。私が大沼に来てから、今日まで指導してきたものです。おそらく、桐生給仕長もいずれは彼女に指導していたのではと思っております。彼女がセルヴーズとして覚えてきたものを、ご家族の皆様にお届けいたします」


 お客様ではないけれど、祝いの席だからこそ失敗はしたくない。

 秀星に見守られ、でも教えてもらうに至らず、でも篠田給仕長がやってきて教えてもらってきたもの。


「クレープフランベをさせていただきます」


 一礼をして顔を上げると、家族もいたく真剣な表情で静まっている。

 まだ未熟ですが――という言葉を今日は言えなかった。

 でも葉子はエプロンをした姿でワゴンに向かう。

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