20.やさしい青だね


 青くて、空も海もぜんぶ、青い。

 北海道の色濃い色彩とは異なる、まるで水彩画のような柔らかい青が広がっている。


 壮観な瀬戸大橋が見えるそばをフェリーが往く。

 大きなフェリーに乗るのも葉子は初めてで、爽やかな気候なので青空の下、甲板に出て風を味わう。

 

 気候も穏やかで道産子の葉子はもう、ノースリーブのブラウスに薄いカーディガンを羽織っているだけで平気だった。


 葉子の隣には必ず蒼がいる。そして葉子はこの旅行にもギターを担いできた。


「うっそだろ。俺、この気温だったらまだコート着ていたのに、あちぃ。20℃……? 北海道では夏じゃんか!!」


 桜が咲こうかという季節で、このあたりではまだコートを羽織っている人がけっこういて、葉子から見ると目が点になる光景だった。

 それは北国で真冬を二度体験した男もおなじようだった。


 フェリーが港に到着して、蒼が運転する車が島に上陸。島の道を軽快に走り出す。


わあ、綺麗。まわりが全部、海と空!!


 声は出ないけれど、葉子は口を動かしていた。

 運転をしている蒼はいまはスマートフォンで文字のやりとりができないが、葉子が感動しているのは伝わっているようで『いいだろ、ここ、いいだろう』と何度も言っている。


「潮が引いたら海の中から道が現れるエンジェルロードとか、オリーブ公園のギリシャ風車とか、醤油ソフトクリームとか、いっぱいあるから、島巡りのときに、うんと楽しもうな!」


素敵、素敵、たのしみ!!

と、葉子も元気いっぱいに手話で示した。

そんな葉子を見て、声は聞こえなくても、蒼も嬉しそうにしてくれている。


 蒼が予約してくれた白いオーベルジュは、そんな小豆島の浜辺が見下ろせる小高い丘の上にあった。

 レストランホールの窓はその海がどんな時間も大きく眺められるようにガラス張りになっている。ゲストルームは別棟で、六部屋しかない。

 真っ白なペンションと言ったところで、内装もヨーロピアン風でかわいらしい部屋だった。


 なるほど。これは女の子が喜ぶツボ押さえまくり。さすがダラシーノと感心するばかり。


『ほんとにロマンチック~😍』


 部屋に入ってすぐに蒼にメッセージを送ると、また得意げな顏になっている。


『よく知っていたね。前の恋人と来たことあるの?』

「はあ!? ちょっと葉子ちゃん、最近生意気ですよ! たとえ、前に恋人がいたとしてもっ、いまカノにそんなことしませんよ。見くびらないで欲しいなっ。フレンチの給仕長として情報収集していたら、当たるでしょ、いいシェフがいるところに!」

『いまカノになってる、私😶』

「え、昨夜のあれはなんだったの? あれ、『ただの好き』なの?」

『どっちだと思う?』

「もー、生意気!! とにかく今回は心のお休みが目的です。はい、葉子ちゃんはギターを弾くなりなんなり、ゆっくり好きなことをしてくださいっ。おじさんは昼寝するね。はー、疲れたっ。北国から瀬戸内って遠いなー。海を二つ渡ったぞっと」


 初めて二人きり、ひとつの部屋で二日間を過ごすので……。おもはゆいばかりで、どうしてもふざけてしまう。


 午前中はレストランの人事会議とやらに出席していた蒼は、クールビズのシャツにジャケットを羽織っていた。そのジャケットを脱ぐと、ほんとうにそのまま大きなベッドに横になった。


 ギターをケースから出しているうちに、スースーと寝息が聞こえてくる。仕事も挟んで、言葉が話せない彼女に気を配ってここまで連れてくるのはかなりの気力だったのだろうな――と、葉子も初めて見る寝顔を見つめていた。


 やっぱり。ちょっとおじさんかな。目尻のしわ。

 彼とは十一歳離れている。それでも父も母もなにも言わずに送り出してくれた。許してくれているってことなのかな? 蒼だからだ、きっと。

 歳が離れていても、いちばん信頼できる男なのだろう。秀星のような、とても身近になった男。娘を任せてもいいと許してくれた――と、思いたい。


 外出用のタブレットの電源を入れて、窓辺にあるかわいいテーブルとソファーのところで、今日の『秀星写真』アップの準備をする。


 少しだけ隙間を開けている窓の向こうは、島の浜辺、青い海が傾いた午後のひかりにキラキラと反射している。

 光の量が北海道と違う気がした。眩しくて、そして、柔らかい潮騒――。とても心が安らぐ音につつまれ、葉子は湖畔の雪解け道に若草色の蕗の薹がちょこちょこと出てきた写真をピックアップ。コメントを添えていく。


 初夏のような島で、北国の遅い春に息吹く緑をSNSで発信している。不思議な感覚だった。


 ああ、気持ちがいい。

 目をつむって、潮騒に身を委ね、好きな音楽も聴いたりして過ごした。

 こうして、好きな人とゆったり過ごせるのは、とても幸せなことだと初めて感じている。


 秀星さんは、こんな日を欲しいと思わなかったのだろうか。

 それとも。大沼に来る前の恋人と既に味わっていて、もう必要なかったのかもしれない。

 でも。やっぱり過ごしたかったな。あなたと、父と母と、あのレストランで。


 そう思った時。

 恋でもない、あの愛は、いまそこにいる男と一緒にいるとどうしようもなく沸き起こる狂おしさとはまったく異なると知る。あの愛を大事に保つために遂げたことには激流のような毎日だったが、心に残っている『それ』は、とても穏やかで尊いものだったのだ。大事にしまって、永遠にしまっておく。いちばん綺麗な私の心の水辺に。そっと咲く水芭蕉のように。


 あとの心のすべては、彼に、蒼に傾けて、捧げよう――。







 朝の潮騒もやさしく、葉子を包み込んでくれている。

 そっと目を覚まして起き上がった自分は、素肌のままだった。

 肩より下まで伸ばした黒髪をかき上げ、葉子はなにも纏っていない身体のまま起き上がる。


 ゆうべ、熱く愛し合った男がそばにいなかった。

 あたりを見渡すと、窓が開いていて、もう朝日が入り込むベランダで海を眺めている背中が見えた。白いポロシャツ……。


 一瞬。秀星に見えてしまった。

 でも、すぐに消えていく――。

 その男はもうここにいないと、葉子から消した瞬間だった。


 まだ声が出ないから呼べなくて――。葉子は昨夜着ていたはずの部屋着を探した。


「あ、起きたんだ……、お、おはよう……」


 気がついた蒼がベランダから部屋の中へと戻って来た。

 すぐにベッドのふちに腰を掛けて、葉子を見つめてくれる。


 おはよう――と手話で挨拶をする。

「ん、おはよう。手話の『おはよう』って、かわいいよな。好きだよ」

 すぐにキスをしてくれた。葉子も目を瞑って、昨夜の熱い甘さを思い出して溶けていく。




 オーベルジュシェフのディナーも最高だったが、朝食もかわいくて、おいしくて、大満足だった。


 島巡りのドライブは明日。今日はなにもしないで、ゆっくりとふたりきり部屋ですごす予定だった。


 午後を少し過ぎて、蒼が『浜辺を散歩してみよう』と誘ってくれた。

 オーベルジュの丘を歩いて降りていく。降りた道路を渡ると浜辺だった。


「ひさしぶりに、ダラシーノで撮影して、ハコチャンネルにアップしてみようかな」

『じゃあ、私は、なにかメロディーをギターで被せるね』


 蒼の手にはハンディカメラ。葉子もギターを担いで出てきた。

 その丘を降りている途中、蒼がカメラを構えて高台になる位置から、輝く海を撮影している。


「色が違うだろ。北海道と。俺にとっては大沼のほうが別世界なんだけどね」


「そ……だ、ね。やさし……い、青だね」


 彼がもの凄い衝撃を受けたような顔で葉子を見た。

 葉子もだった。足から力が抜けそうなほど、驚いている。

 喉元に触れた指先が震えている。もう一度――。


「あ、あおい、くん……」


 出る! 声が……出た!


「よ、葉子……?」

「蒼く んが……好 き。ずっと ずっと、言い たかった」


 まだかすれているけれど、やっと言えた! 自分の声で、言えた!!

 彼はまだなにも言ってくれない。泣きそうなでも怒っているような顔をしている。怒っているんじゃなくて、困惑しているのだと思う。突然すぎて。


「ちょっとまって。いきなり蒼くん??? 蒼さんはどこに!? いきなり卒業!?」


 え、あの顔で気にしていたのって『そこ』? 葉子は仰天する。


「もう、私の心の声では、ずっとずっと前から……『蒼くん』、だったの」

「それならさっ、メッセージの文字もそうしてよっ。俺、『蒼さん』から、『蒼くん』とか『蒼』って呼ばれるのいつかな~、まだかな~、半年ぐらい待っちゃうかなとか、ドキワクして楽しみにしていたのね、それが、いきなり!!!! えええーーー!!」


 ああ、うるさいの、戻って来たと葉子は耳を塞ぐ。


「ほんとうの、蒼くん呼びになったその日に立ち合いたかったー。くっそ!」

「いまが それ。声が出たら、 すぐに言おうって……、決めていたの」


 うるさいなもうと睨み返そうとしたら、すごい勢いで抱きつかれる。


「うわー! 待っていたよー、葉子ちゃんの声が戻るの、待っていたよー! めっちゃ嬉しい!! なに、なんのご褒美なのこれ。俺が俺がめっちゃ、めちゃくちゃモーレツに愛してあげたから?? もう~、そんな効果てきめんなら、うんともっと一生、ずっと、愛してあげるよぅーー!!」


 うるさい。すごく嬉しいこと言ってくれているのに、ぎゅっと抱きしめてくれているのに、葉子は彼の腕の中で耳を塞いでいた。


 でも。やっぱりダラシーノだねと、笑いも込み上げてきた。


「あははっ」

「うそだろー!? 葉子ちゃんの笑い声、いつぶり。やだなもう~、蒼くん、涙でてきちゃったよぅ~」


 いつかのように『ぶぇええ』と涙をぐしゃぐしゃ拭いまくっているので、ひさしぶりに葉子がハンカチで拭いてあげる。


「うわーん、もうっ、なんで、そんなにかわいすぎるのーー!! 俺の葉子ちゃん、もうめちゃくちゃ、かわいい!!」


 だめだ、もう。せっかくの大人のかっこいい男モードでここまでリードしてきてくれたのに、男前とはほど遠い顔になってしまっていると、葉子は呆れてしまっていた。


 そんな蒼の手を葉子から握る。


「行……こう、蒼くん」


 手をひっぱって急いで丘を降りる。降りたそこで、島の長閑のどかな車道を横切って、目の前の浜辺へ。

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