17.さよなら、先生


 覚悟をしていたことが巻き起こる。


『動画配信・ハコの唄チャンネルから発信されてきた逝去した男性の写真集を書籍化――。彼が死を覚悟してでも決行したホワイトアウト吹雪開け、夜明けの写真、遺作も掲載。彼が求めたものがそこにある。リアルのエゴイズム』


 出版社からの告知、ダラシーノとハコからの告知が開始されると、様々な声が集まった。


■ 写真家としては失格。危険を冒して撮れたもの、死と引き換えに撮れたものは愚行のほかならず、作品とは言いがたい。


RT:でもハコちゃんが伝える北星さんがこだわった『エゴ』とはそういうものなのではないのか


RT:『エゴ』とか、かっこいい的な使い方やめてほしい。なんにもかっこよくない。ただの自己満足。写真の出来もハコとかいう素人の唄もチャンネル動画も、物珍しがっている視聴者が作り出した、ただのエンタメ。感動的なんてお門違い


*いままでのハコチャンネルも、北星写真のSNSをリアルタイムで追ってこなかったヤツが、衝撃的な宣伝で話題になっているからって、にわかで乗り込んできて批判しているやつらってなんなんだよ


*尊敬している師匠の死の瞬間を、金に替えた最低の行為。ハコは偽善者。歌手になりたい夢に破れ、素人の域でしかできないことで、師匠の衝撃的な死を利用して有名になりたかっただけ。最低の女――


■メートル・ドテルだった男性がたった一人で決意した行為はともかく、無名のうちから写真の権利を守ろうとした父娘の心情は、家族そのものだったと言える。亡くなった兄のような男性を尊敬していた彼女が、なんとかして人目に触れるようにと努力しただけの話。そこに人の感情が集まったのだから、それは亡くなった男性が引き寄せたものであるのは否定できない。


 専門家の評論記事、SNSでの話題拡散、動画配信チャンネルでの飛び交う賛否両論のたくさんのコメント――。





「行こうか。葉子ちゃん」


 まだ三月の気温が低い夜半。葉子は自宅前で蒼と待ち合わせていた。

 防寒をしっかりして、ふたりともスキーウェアを着ている。暖を取るための準備もして、ふたりで湖畔に向かう。


 まだ声がでない葉子の隣を気遣って、蒼が分厚い手袋の手で、葉子の手を繋いでくれた。


 向かうのは、あの場所。今日は明るい月明かりが照らしていて、夜の散策道もほのあかるく浮かび上がっている。

 それでも蒼が注意深く懐中電灯で照らして前に進んでいく。葉子は彼の手をしっかり握ってついていく。


 辿り着いた湖畔。秀星の撮影ポイントに到着する。

 今夜、そしてこの夜が明ける時。秀星の三度目の命日だった。

 彼がすごした夜と明け方を、蒼と一緒にその場で過ごして、秀星を弔う約束をしていたのだ。



「寒くないかな」


 葉子は大丈夫と、手話で伝える。


 すぐ隣にいる蒼と一緒に、大きな二人用のシュラフに潜り込んで、うつ伏せになって湖面へと目線を向ける。今日はこうして夜明けを待つ。

 そばにはキャンプ用のガスヒーター。すべて蒼がこの日のために揃えてくれたキャンプ用品だった。

 防寒ウェアで分厚く包まれているとはいえ、ひとつの袋に二人一緒に寄り添って入っていると、暖かく感じた。

 すぐそばにいる男の顔を葉子は見上げる。ニット帽を被っている彼も、葉子を見つめていて優しく微笑んでくれていた。


「三年前のいまの時間はもう、吹雪きだったんだよな」

『そうだよ。夜から吹雪だった』


 スマートフォンをお互いの目の前に並べて会話を交わす。


「でもさ。こんな綺麗な月夜に、こうして穏やかに暖を取っての撮影をしたかったんじゃないんだよな。きっと」


『秀星さんも、ちゃんと防寒や暖を取る準備をしてここにいたみたい』


「シェフから聞いた。テントは吹き飛ばされて、湖面の上に残っていたし、こういうポータブルの暖房機もそばにあったのに散策道まで転がっていて、使われていた痕跡もあったけど、この場所にすべて捨て去ったようになっていたって」


 つまり。予防はしていたということは最悪のことが起きないように考えてはいたということ。なのに、それを投げ出してでも、彼はファインダーと景色に自分も溶け込むようにして放り出していたということだった。

 そこに、なにもかも捨て去って逝ってしまった彼の気持ちが透けて見える。だから父はしばらくは納得できなくて、言葉にもしなかったのかもしれない。


 いま蒼と葉子がこの場所から見ているのは、少し朧になっている優しい月の明かりと、うっすらと藍色の夜空に見える駒ヶ岳、そしてほの明るく浮かび上がっているあちこちが溶け始めた湖面。水の部分には月が映り、雪の部分は光っている。これでも充分、幻想的な大沼の夜の姿――。


「これを期に。葉子ちゃんに話しておくな。四月に一度、神戸に帰ることになった。そこで今後についての話し合いがされるんだけれど、大沼にとどまれるかは、いまははっきり言えない。矢嶋社長もまだ決定としていない」


 それは葉子も理解しているつもりだった。オーナーである父からも『たぶん期限が終了し、むこうに返される。覚悟しておけ』と言われていた。


 でも。やっぱり哀しい。こんな声が出ない状態で、蒼と別れることになりそうだったから、葉子の目には涙が浮かんできた。

 それは蒼も気がついてくれ、彼も狂おしそうなため息をついて、すぐ隣に肩を寄り添わせてうつ伏せになっている葉子を、長い腕で抱き寄せてくれる。


 そんな彼が、葉子をきつく抱きしめながら、囁いた。


「葉子ちゃん。俺と一緒に神戸に来ない?」


 どういう意味かわからなくて。

 涙目を見開いて、葉子はまたすぐそばの蒼を見上げた。


「一度、俺と秀星先輩が働いたレストランで食事をさせてあげたいんだよ」


 あ、そういうことか――と、ちょっと勘違いした自分が恥ずかしくなって、葉子は顔を伏せた。

 それでも出来るなら、ふたりの給仕長が出会ったレストランには行ってみたい――という気持ちになってきた。


「それでな。俺の広島の実家にも来て欲しいし、それから、俺と小豆島まで旅行しよう」


 ん!? やっぱりやっぱりそういうこと!?

 手話で、えっと、どう表現すれば? 伝えれば?

 えっーーと、まずスマホで――。


 やはり声がでないのは、こんなときにダイレクトに伝えられなくて、葉子はもどかしく、言葉を選びながら打ち込んでいる。もたついている間に、彼がどんどん先に話していく。


「俺が生まれ育った瀬戸内を葉子ちゃんに見せたいんだ。それから、最近、先輩の写真集の発売前で周囲がうるさいだろ。ちょっと遠いところで、ゆっくり、ふたりで過ごそうよ。十和田シェフのように、気概あるシェフがオーナーをしているオーベルジュがあるんだ。すげえロマンチックな島だから。あ、泊まる部屋は、別々にするから。うん」


 いろいろ聞こう言おうと、文字を懸命に打ち込んでいた葉子の手元が止まる。

 ひとことだけ打ち込んだ。彼のスマホにメッセージが表示されている。


『一緒の部屋でいいよ』

「……はいぃい!??」


 いつものように、蒼が大げさなリアクションをして、うつ伏せの状態でのけぞっている。


「よ、葉子ちゃん。あのな、そのな、えっとな。おじさん、も、その、できれば、そういう……。でもいまはダメ!! そんな声が出ない葉子ちゃん……と、なんてダメ!!」

『一緒にいたいだけじゃ、だめなの』

「だーからぁー。そういう、おじさんが困るかわいい目をしないでくれ! そういうのがダメなの、ダメ!! 絶対に……お利口さんのおじさんでいるのムリ!!」


 あ、一応、男心の下心あるんだと、葉子は確認する。

 そこまで反応されると葉子も女として戸惑う。でも――それならそれで全然、嫌とは思ってない。そういう機会があるなら身を委ねる気持ちもある。

 ただ、確かに。声が出ないことは、言葉が伝えられないことは、彼にとって負担になる。

 一線を越えたら、なんでも熱血まっすぐで優しい彼は、葉子のためになんでもやりそうで、大事なものを捨てそうで……怖かった。彼の負担にはなりたくない。

 いまはまだ、このまま。ハコとダラシーノのまま。いつだって別れられる。


『わかった。蒼さんに任せる。でも、嬉しい。もう写真集が出るのを待つだけだから。蒼さんとふたりでゆっくりできるの楽しみ。瀬戸内海も初めてだよ』

「お、おう。任せろ。こういうときは大人のお兄さんに任せなさいっ」


 おじさんって言わなかった――と葉子は笑い出していた。


 そんな蒼と月夜の夜明けをやがて迎える。

 時計を見て、ふたりでその時間を待った。


 もう写真集の予約は始まり、世の中の様々な声の中、編集部が予想していた部数の予約は越えたと聞かされている。


 レストランにも妙な電話やメールが増えたが、父も蒼も全力ではね除けている。


「いいか。秀星の写真集の発売を終えて落ち着くまでの辛抱だ。皆、堪えてくれ」


 レストランの従業員も協力してくれている。

 神戸の矢嶋社長のレストランも秀星が勤めていた職場として、おなじ余波を受けているが、おなじように頑とした態度で乗り切ろうとしてくれている。


 北星秀のエゴとハコのエゴが作ったうねりに、世間が関係者が巻き込まれていく。


「夜明けだ――」


 三年前のこの日、この時間。まだ吹雪いていたはずだ。しんとした静寂に収まるまで待ち構えていた秀星が、暴風によろめきながら、そこにいたはずだった。それでも踏ん張って彼はカメラと一緒にいた。くじけずにそこに、なにもかもをかなぐり捨てた、凄まじい男のエゴにまみれてそこにいた。


 葉子はシュラフから飛び出して、その場に立った。

 葉子の手には、秀星のカメラ。あの日から一度も使われなかったカメラ。そこに立って、葉子はおなじ方向にレンズを向け、ファインダーを覗く。


もうあの日は還らない。

もう秀星さんは還らない!


 葉子はシャッターを押す。押す、押す、押す……。秀星と同じ時間、同じように、何度も押す!

 東の空からほんのりとした黄金が広がってくる。結氷した湖面が溶け水面になっているところだけが黄金に染まる。徐々に姿を現す駒ヶ岳の影。山裾の茜――。空にはまだ月、星。紫苑の空。


 葉子も決めていた。


さよなら、秀星さん。私の先生。

仕事も、表現者のエゴも、あなたを愛した初めての心も、すべて、すべて。あなたからもらったすべて――。すべて、なにもかも。あなたから、たくさんもらった。これを持って握りしめて生きていく。だから安心して。あなたが私に遺したものは手放さない!


 彼が去って、ここから去って、やっと葉子は解放する。

 この三年、愛していたなにもかもを。愛のために走らせてきた心も。


さよなら、私の心を占めていた人。

でも、永遠に片隅にいて。永遠に。





 夜明けの光が葉子に当たっている。


「終わったね……」


 隣には蒼がいる。ずっと泣きながら光を見つめている葉子をそっと抱いてくれる。


「先輩、いままでありがとう。俺もここから一人でやっていく。彼女のことは俺に任せて。そして、彼女と俺のあいだには、いつだって先輩が、秀星さんがいるよ。ずっと、ずっとだ。秀星さん、もうひとりじゃない。俺たちがあなたの縁者だ」


 あの人が旅立った日とは異なる写真が撮れた。

 これが、私たち、特別縁故者が知る北星秀との最後の写真。

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