8.ふたりの男が重なるとき


 うっすらと感じていた疑念が、紅葉が終わった初雪のころに確信へと変わった。


「ほんっとに篠田さん。素敵ね。広島のご出身なんでしょう。広島弁とか喋るのかしら」


 ここで返答を間違えてはいけない。


「聞いたことはありませんね」


 嘘だった。たまに我を忘れるとアオイは広島弁が出てくる。

 こっちがやっとんじゃけえ! とか、バリびっくりしたわ!! とか。葉子よりも厨房にいる男性たちと熱中した会話になるときに、飛び出てしまうようだった。


 何故、嘘をついたかというと。

 少し前に蒼のことを聞かれたので、いままでの調子で『実はこんな一面もあって、こうなんです』と、毎日一緒にいるからこその返答をしたのだが。その日、急に先生が静かになって笑わなくなったのだ。


 この時にもなおさらに、葉子は確信をしてしまった。

 先生はいま、篠田に恋する熱中する女になってしまったのだ。

 ギターのレッスンもそこそこ。お茶の時には、蒼のことばかり話す。彼のことを聞かれたので、素直に答えると、先生が無表情になる。

 だから、嬉しそうな話を聞くだけ。蒼の普段の様子を聞かれたら曖昧に濁し、『葉子さんはどう思う?』と聞かれたら『その通りですね』と、そう思っていなくても作り笑いで返答していた。


 ギターを練習する時間が減っていった。

 そして先生は言う。『葉子さんはもう充分に弾けるようになったから、こうしてお茶を一緒にできる時間が増えて楽しいわ』――と。

 いちおう月謝は払っているんだけどなと思いながらも、この変化に対して、まだ様子見をしようと決めていた。


 今日も長いお茶時間を終えて、忘れ物がないように注意を払って、安積家から帰路につく。


 蒼はもうコンビニの駐車場では待っていない。

 一度先生が『見送るわね』とついてきて、コンビニで待っていた蒼に一時間も張り付いて話し込んでしまったのだ。あげく、雪が降ってきて気温が下がってきたので、車の中へとひとまず防寒のために乗せたら、そのまま一緒に食事にいくことになってしまった。その食事の時も、先生は葉子がいないかのような様子で、蒼にしか話しかけていなかった。葉子は黙って空気になるよう努力してやりすごした。

 その後、蒼が『俺のせいだね。ごめん』と辛そうに謝ってきた。


 蒼ももうわかっている。父もだった。

 お客様としては非常に有り難いリピート回数なのだが、従業員目当てとなると、オーナシェフとしては警戒をするということだった。

『蒼君。間違いがないよう、かつ、きっぱりとした態度で線引きをしてくれよ』

 君、男前だから、いつかこういうことも起きるとかもと思っていたわ――と、父も慌ててはいなかった。

 しかも、函館にレッスンにいく娘に対してノータッチだった父が(蒼とでかけることに関しても)、最近はレッスンから帰宅すると『どうだった』と確認をしてくる。

『いままでと違う。給仕長の話ばかりになって演奏の時間が減った』と、そこでは葉子もレストランに関わることなので、正直に伝えていた。

 顧客なので父もいきなり強い態度には出られない。それでも葉子に最後はこう伝えてきた。

『レッスン料を払っている以上、すべきことはなされるべきだ。あまりにも酷いなら上手く言って辞めてこい』。


 もう、ダメなのかな。でも、先生のカルメン組曲の演奏。凄かった。素晴らしかった。鳥肌がたつ演奏だった。だから信じている。一時のことで、いつものほんわりと優しい先生に戻ってくれるのを待つ。

 葉子はため息をつきながら、坂道をくだる。

 坂の向こうには、函館の港が見える。青函連絡船記念館の『摩周丸』がライトアップされ、海辺で煌めいている。

 坂道をまっすぐ下までいかず、坂下の様々な店が建ち並ぶ裏路地に入り込む。そこで蒼が車を駐車させて待っていた。


 小雪をコートに積もらせてやってきた葉子を見て、彼がいつものように運転席から降りてくる。


「どうだった?」


 葉子が首を振ると、彼がため息をつく。

 頭の上に乗っている小雪を彼が優しく払い落としてくれた。


「帰ろう」


 いつしか彼の微笑みは、柔らかく優しいものになっていた。

 そう、秀星のような……大人の静かな微笑み。

 あれは秀星だからこそ持っていたと思っていた。でも。違った。篠田も持っていた。

 男の人が優しく私に微笑みかけるその顔は……。


 すぐに葉子は心の底に押しのけ沈めた。






「動画みましたよ。葉子さん、音を三つ外していましたね」


 次のレッスンでそう言われる。


「ここと、ここと、ここよ。このままでは恥ずかしいわよ」


 数日前に配信した動画をタブレットで再生させ、先生はいきなり厳しく『ハコの間違い』を指摘するようになってきた。


 葉子もわかっている。プロではないという甘えがあって、間違いがあってもそこは素人の演奏だと気にしていなかった。


 先生もいままで聞き流していたはずだった。


 レストランにもあれから隔週でやってくる。

 蒼の態度が少し変わったのことは先生も嗅ぎ取ったのか、最初のころのような頻繁な来店ではなくなった。


 いままで出不精で、自宅で穏やかに過ごすのが好き――と、優雅な微笑みだった安積先生が、どこからともなく友人を誘ってきて、たまには教室の生徒さんを連れて、レストランに定期的に現れる。


 そのたびに蒼はデクパージュかクレープフランベの予約をもらっていた。


 利点がひとつ。先生が予約をしょっちゅう入れてくれるようになり、閉店後、残った材料と再々準備されるようになった道具をつかって、クレープフランベの練習が出来るようになったのだ。


 蒼がそばについて、まさに手取り足取り。不純なふるまいも、おふざけも封印して、秀星のように厳しい目線で指導してくれる。

 その時の蒼も、いままでと違うと葉子は感じていた。


 最近。彼が秀星と重なる――。

 ダラシーノは別人なんだと思っていたのに、一年経って、彼も秀星とおなじ男になっている。


 デクパージュをする黒いジャケットの背中、後ろ姿。葉子はそこに二人の男を見ている。彼と彼は一致しはじめている。

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