6.罪な男、篠田


 蒼が大沼に来て一年が経とうとしていた。

 また雪の季節がやってくる。


「そう。給仕長さんの写真集が発売されることになったのね」

「春になると思います。いま編集中なんです。写真を選んだり、添える文章を見直したり、付け加えたり――」


 今日は函館まで、ギターレッスンの日だった。

 蒼と一緒に函館まで出てきて、彼はジムへ、葉子はレッスンへ。終わる時間ごろに、彼が先生の家の近くまで迎えに来てくれることになっている。すっかり定着した休暇の過ごし方になってしまった。

 帰りはふたりで食事をしたり、気候がよい時ならドライブもしたりした。ドライブ先の浜辺や、緑が広がる峠の中腹などで、特別版としてライブ配信をすることもあった。

だから、出かけるときは、蒼の車には撮影用のカメラが乗っていて、葉子はギターを担いで乗っている。


 レッスンの日は、指導してほしい曲をピックアップしてお願いしている。

 元プロだったという安積先生も、ハコの正体を知っている一人で、そっと黙って協力してくれている心強い大人の女性だった。


「葉子さんが私の教室に来てくれるようになった時には、もう北星さんはお亡くなりになっていたから風景写真しかしらないけれど、私も楽しみにしているから写真集も買うからね」

「ありがとうございます。でも先生には、いつもお世話になっているので、私からお持ちしますね」

「あら。そんな……。でも生前の北星さんに会ってみたかったわね。メートル・ドテルのお姿も見てみたかった」

「父の店にきてくだされば、いまもメートル・ドテルはいますよ。北星より、ちょっと落ち着きなくてうるさい人ですけれど。仕事は一流で父も認めています」


 それでも安積先生は億劫そうだった。

 両親と住まう自宅にて、個人レッスンをしている女性だった。

 常々『でかけるのは好きじゃないの。お散歩とたまのお買い物、午後はここでギターを弾いたり、レッスンをする。それが好きなの』と言っている。自宅の教室だけではなく、契約している大手の音楽教室にもときどき講師として出向いているらしい。それ以外の外出はしないとのことだった。


 函館の古き良き坂の住宅地にある一軒家、昔ながらのお嬢様といったふうの、ほんわりとした上品な女性だった。

 ふくよかな身体と綺麗に手入れをしている長い髪。四十代で独身だった。元々クラシックギターに邁進していたそうで、カルメン組曲を聴かせてもらった時は葉子も非常に感動して、安積先生から指導を受ける喜びを感じたものだった。

 そんな安積先生は、密かにハコの唄チャンネルを支えてくれている一人でもある。


「だいぶ上達したから本当はレッスンはもういらないと思うけれど、葉子さんが来て、フレンチレストランのお話をしてくれたり、チャンネルの裏話をしてくれるの、楽しみにしているの」


 外出はしないぶん、いま葉子が身を置いている場所は、安積先生にとっては刺激的だという。

 レッスン後に、先生のお母様がいれてくれる紅茶もお上品で、葉子も楽しみになってしまっていた。


 北国の早い日暮れになり、お茶をいただいた後、お暇をする。

 坂にある先生の自宅から、ほんの1丁先のコンビニエンスストアが蒼との待ち合わせ場所になっていた。

 坂道を下って、暗闇の中、煌々と光るコンビニに辿り着くと、車を駐車させている蒼が運転席からわざわざ降りてきてくれた。


「お疲れさま。寒くなってきたね。さて、行こうか」


 今日はラーメンを食べて帰ることにしていた。

 こうして函館に一緒に出てきた時には、夕食も一緒にすごして帰るのが定番になりつつある。

 だから葉子もそんな蒼へと向かって、笑顔で駆けていく。

 グレンチェックのマフラーを既にしている蒼の口からは、もう白い息が出ている。

 春に着ていた黒のトレンチコートというスタイルで、いまも篠田蒼は、お洒落なセンスの大人の男そのままだった。中身は葉子がよく知っている『ダラシーノ』だから気兼ねもない。


 さて。葉子も助手席に乗ろうと、蒼が開けてくれたドアに辿り着いた時だった。


「葉子さん!」


 その声に振り向くと、安積先生が慌ててコンビニ前の横断歩道を渡ってくるところだった。


「先生――」


 あまり外にでないという彼女が、わざわざ葉子を追いかけてきた。


「マフラーを忘れていったでしょ。冷えてきたから風邪をひいたらいけないとおもって」


 自分の首元に手を当てて、葉子もやっと気がついた。紅茶で身体が温まって、首元の寒さにも気がつかなかったようだった。息を切らして、葉子に追いついてくれた。

 赤いコートをとにかく羽織ってきたとばかりに、慌てて追いかけてくれた様子がよくわかる姿。


「先生、ありがとうございます。申し訳ありません。走らせてしまいました」

「いいのよ。風邪をひいたら唄えなくなるし、お父様のレストランでも迷惑がかかるでしょ。だめよ、喉を冷やしたりしたら」


 プロではないとはいえ、自覚が足りない自分が露呈して、葉子はばつがわるい微笑みを浮かべてしまっていた。


 その先生が葉子のそばで、ドアを開けている蒼に気がついた。


「え、葉子さんの……?」

「あ、父のレストランの、篠田給仕長です。私の指導役をいましてくれています」


 蒼もギターレッスンの先生だと知って、急に仕事で見せているキリッとしたメートル・ドテルばりの凜とした佇まいになる。


「安積先生ですよね。初めまして。『フレンチ十和田』で給仕をしている篠田です」

「神戸からいらした北星さんの後輩さんの……?」

「さようでございます」


 すらっとした男の挨拶に、安積先生がほんのり頬を染めたのを葉子は見る。まあ、店でもよくあることで……。蒼はほんとうに、背筋を伸ばしてサービスモードになると、凜とした男の色気を一気に発散する。

 葉子はあまりにも『ダラシーノ』を知っているため、そんな蒼の『仮面』を見るとしらっとしているだけ。


「いつもこちらの、十和田……、えーっと……葉子さん……が、……ん? 私の部下……、いえ教え子がお世話になっております」


 あ、急に『蒼くんモード』に崩れたと葉子は笑いたくなってきたが、安積先生のそばでぐっと堪える。

 すっとした男が急に愛嬌ある姿に崩れたので、彼女も笑い出していた。


「そうですね。私にとっても教え子ですけれど。お互いに葉子さんは教え子になるのですね」

「北星が……、ん? えっと、桐生……いや、先輩……、いや、やっぱり北星が! 置いていった教え子なので、神戸で後輩だった自分がいま指導を――」


 先生は『葉子』としても『ハコ』としても知っている人間のひとりだが、蒼にとっては初対面なので、どちらの関係者として接すればいいのか混乱しているようだった。

 それがまたおかしかったようで、安積先生がくすくすと笑っている。


「楽しい方ね。葉子さん」

「私のまえでは、うるさいおじさんなんですけれどね」

「おじさん! まあ、そうよねえ。葉子さんから見ればかもしれないけれど、篠田さんはきっと私とは同世代ですね」

「女性のお歳は知りたいとはおもいませんが、きっとそうですね。そう思うと気がらくーになってきました!」


 徐々に蒼の素になってきた。でも目の前のすらっとした男を安積先生はじっと見上げて、ずっと笑っている。


「いつも葉子さんから、フレンチレストランのお話をお聞きしているんです。父と母とたまには行くのですけれど、たまになので、いつもおなじような食事になってしまうんです。いろいろあるんですよね。デクパージュやクレープフランベもメートル・ドテルさんが給仕するお仕事だと葉子さんが聞かせてくれたのですが、見てみたくなりました」

「そうですか! 予約の時におっしゃっていただければ、デクパージュもいたしますし!」


 ぬかりがない給仕長は、そこでポケットから名刺入れを取り出し、さっと一枚、安積先生へと差し出していた。


「お待ちしております。お父様、お母様と是非」

「いただきます。両親にも話してみますね」


 よくある営業みたいなものだと、葉子も微笑みながら眺めていた。


 でも、なにか違和感を持った。いままで葉子が『先生。お店に来てくださいね』と言っても、ご挨拶程度に受け止めて微笑んでいるだけだった先生が、蒼の誘いにはいまにも予約をいれそうな雰囲気に見えたのだ。


 いや。蒼がいつもの調子でかーるく営業した雰囲気に合わせて、先生も受け答えていただけのこと。


 大人はきっと、そんなふうにできるものなのだと葉子はやりすごした。



 その数日後だった。

 安積先生がフレンチレストランに相応しい装いで、ご両親と一緒に、ほんとうに『フレンチ十和田』にやってきた。

 予約では、篠田給仕長のデクパージュとクレープフランベを希望されていた。

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