名もなき朝の私《さよなら先生》
市來 茉莉
名もなき朝の私 《さよなら先生》
1.ダラシーノ、チャラい!
とにかく『チャラい』。
「葉子ちゃん、見て~。車、買い換えちゃったんだ」
休暇日に、ギターのレッスンへとでかけようと実家の玄関を出ると、給仕長の篠田がいた。
大型のSUV車の運転席を降りたそこに、お洒落な大人の男ファッションで、今日も不敵な笑みを浮かべている。
上質そうな黒のトレンチコートに、ハイネックのカットソーというシンプルな出で立ちなのに、男らしさが滲み出ている。
「そ、そうですか……。わざわざ見せに来られた……のですか?」
まだ移転して数ヶ月、彼は『ほぼ』車がない生活を送っていた。
なにしろ神戸ではポルシェのカレラに乗っていて、それがやっと北海道へ輸送されて到着したものの、雪国仕様にまったく支度が出来ていず、ガレージにしまったまま走らせることもなかったのだ。
葉子はそのポルシェに何度も乗らないかと誘われたが、断っていた。
そもそも雪タイヤはいていないし、広島出身で阪神を中心に働いてきた彼が、雪道を運転できるわけがないのだから、危なくて乗りたい以前の問題だった
まったくもって雪国のことを知らない篠田に、父もハラハラしている。
『篠田君、ポルシェ、四月に入っても乗るのはやめておきな。君、絶対に
事故るよ』
『えー! 俺、雪が溶けてなくなったら、ポルシェで函館とか走るの楽しみにしていたんすよっ』
『それやりたいなら、北国初心者は六月まで我慢かな。四月はまだ雪の日もあるし、峠は五月でも雪が残っているし、降るところは降るから』
『六月!? 待てない!!』
そんなやり取りを葉子も店で眺めていた。
それに彼が騒々しい。いちいちリアクションが大きくて、声が大きくて、お喋りでうるさい。葉子はその
でも、父は楽しそうにしている。いつの間にか笑わせてくれているから、ふっと秀星のことを忘れているときがある――と、その時は寂しそうに呟いていた。
だから葉子も黙っている。父と篠田も呼吸が合ってきて、いいパートナーシップができあがってきてる。秀星とは違うやり甲斐を、父はまた取り戻している。新しい男との仕事に、父はもう向き合っているのだ。
その彼があのポルシェを売ってしまったということらしい。
「ポルシェ……、変えちゃったんですね」
「んー、こっちではまったくもって役立たずだもんでね。四輪駆動のきっちり走れる車にしたんだよ。ま、もうポルシェに乗って気取る歳でもないしね」
神戸で気取って乗り回していたんだなと、葉子は思った。
お洒落だし、顔も断然男前だし、女の子の扱いも上手い。落ち着きある大人の男性というイメージだった秀星とは真逆すぎるのだ。
ほんっとうに、その年齢であっても、いちいち軽くて『チャラい』。
「よかったですね。これで函館までひとりで行けますもんね」
「ほんっとね。いままであちこち買い物に行くときに、車を出してくれた葉子ちゃんには感謝しているよ。ありがとね。そのお礼も伝えたくて、車社会復帰のご報告にきたのであります」
「……そうですか。お疲れ様です」
仕事をしている時と同じ反応しかできない。
なのに、彼は『報告は終わった。さて、いまから』待ってましたとばかりに、またとびきり元気な笑顔をきらきらっと浮かべる。おじさんのくせに、大人のくせに、なにその無邪気な笑顔――。彼のくるくると変わる表情に、葉子はいつも戸惑うばかり。
「でも売るまえに、葉子ちゃんを乗せたかったな~。おじさん、最後のかっこよい運転、見せたかったー。だけど! 今度はこの車に乗せてあげようと思って! 今日も函館までレッスンなんだろ。乗って乗って」
「けっこうです。JRで行きますから」
「俺もさ。函館に用事があるんだよ。葉子ちゃんのレッスンのようにさ、休暇に通いたいジムとかの見学に行くんだ」
そのついでだから乗っていけと言われる。
「いえ、ひとりで音楽を聴きながらいきたいので」
「なに聴いてるの!? おじさんにも教えて!」
「いやです。ひとりがいいんです」
「そうなんだ……。ごめんね。もしよければと思ってさ。じゃあ、気をつけて行っておいで」
そんなときになって、理解ある懐が広い大人の優しい微笑みを見せる。
彼が新しい車の運転席ドアをあけ、足をかけてシートへと乗り込もうとしている。
「……でも。せっかく来てくださったので……、今日は乗せてもらおうかな……」
乗り込もうステップに掛けていた長い足を地面に戻し、彼が驚いた顔で葉子を見ている。
そしてすぐさま助手席へと向かってドアを開いた。
「ぜひぜひ! 乗って乗って。帰りも迎えに行くから一緒に帰ろ!」
それにこの人、けっきょく函館のことまだわからないから、葉子が案内することになるのだろう。
仕事を教えてくれる指導役の上司でもあるのに、女性を優しくもてなすのなんてお手のもの。
最近、女性のリピーターが増えたのも、秀星の後にやってきたメートル・ドテルがこの男前で見栄えがするからなのだろう――と父が言っていた。
葉子も控えている時に篠田を観察していると、やっぱり佇まいも仕草も、かっこいいなと思ったりする。
それでも……、葉子にとって最高のメートル・ドテルは秀星さんしかいない。あの人はそういう性的な匂いなどいっさい匂わせずとも、メートル・ドテルの時の姿はかっこよかった。
まだ目に焼き付いている。初めて仕事での真剣さを感じ、初めて厳しくしてくれた人で、初めて――葉子を大事にしてくれた大人だ。
綺麗な所作と美しい佇まいを、毎日思い返している。
葉子の目には簡単に涙が滲む。秀星がいなくなってから、すぐに涙が浮かぶ。父と母と一緒においおい泣く日もある。
「葉子ちゃん?」
いけない。車はすでに大沼の湖畔を走り出していて、運転席にいる篠田が、こちらをチラリと見て案じた目をしている。
すみません……、ハンカチで目元を押さえて、あまり気にしないようにと、運転席にいる篠田へと向いたら……。
「うー、ごめんな。俺もさ、歳かな~。最近すぐに泣いちゃうんだよぅ。そんな……ハコちゃん、泣かないで。先輩は、ハコちゃんが唄っていること、遺した写真を大事にしてくれていること、わかってくれているって」
運転しながら、大人の彼のほうが涙腺崩壊になっている。
『ぶぁあ、前が見えねえ』とか言い出すので、葉子が慌ててその顔を、持っていたハンカチで拭いてあげた。
「葉子ちゃんのかわいいハンカチ、俺みたいなおじさんの涙で汚しちゃったー」
また『ぶえぇ』と泣くので、葉子は呆れながらまた拭いてあげる。
「おじさんなんて思って……、いえ、お兄さんでもないですよね。おじさんって思っていますけど、嫌とは思っていませんから。秀星さんのことも、そう思っていましたよ」
「あのさ、あの人はさ。自分の好きに生きて逝っちゃった人だから、そちらの十和田の皆さんは気に病まなくていいんだからな」
「だったら。なんで給仕長も泣いているんですか。……わたしは……、わたしは……、……、会いたいんですよ……、ずっと一緒にいられると思っていたんですよ……!!」
なかなか口に出来なかったことを、どうしてか葉子は吐露していた。
そう口に出来たら、もう涙が止まらない。
「俺もだよー! メッセージを送れば返事をしてくれてさ。いいねを押せば、ありがとねってリプをくれてさ! いつだってスマホの向こうにいてくれると思っていたんだよ! なのに、何も言わずに、俺も、葉子ちゃんも、十和田シェフも奥様も置いていきやがって。やっぱ、先輩のばっかやろーーーーー!!!!」
大声で彼が叫んだので、ぶわっと溢れだしたはずの涙が、いっぺに止まった。
もう葉子は唖然として、篠田を見ていた。
「ダラシーノさん、うるさいっ。もう~、ひっそりセンチメンタルな気持ち、いまのバカヤロウで飛んでいっちゃったじゃないですかあっ」
「あ、俺ね。打倒秀星さんだったんで、いっつも先輩のこと『バカなんですか!?』とか言ってたの」
「え、ひどい。秀星さんのどこがバカなんですか!?」
むしろ貴方のほうが騒々しくてうるさいくて、チャラくて――と言い返したくなった。
「バカだよ。写真で仕事を捨てられる人なんだから。こっちは真剣にメートル・ドテルを目指していたのにさ。いっつも『僕は写真が第一だから』って、俺が目標に生きているものを手に入れているのに執着がないっていうかさ……。だから、写真ばかりの先輩のこと悔しいから『バカなんですか』ってよく言っていた。でもちっとも怒らないんだ。あの先輩、淡々と受け流されてさ」
なんだか二人の先輩・後輩、神戸時代が葉子の目にも浮かぶようだった。騒々しい篠田が捲し立てても、秀星はあの落ち着きでしらっと受け流すか、静かに笑って相手にしないか……だったのだろう?
「ほんとうに尊敬をしてたし、誰よりも信じられる人だったから。俺も遠慮がなかったんだ。先輩には仕事の相談もいっぱいしていた。写真も楽しみにしていた。なのに……。ある日突然、写真の更新がなくなって……」
また篠田が運転をしながら、泣き始めてしまった。
だから葉子は、バッグからまた新しいハンカチを出して拭いてあげる。
「葉子ちゃん、やさしー。先輩もきっと葉子ちゃんといて、安らいでいたと思うよ!」
チャラい彼が適当に言っているとしか思えずに、葉子は苦笑いをしていた。でも……、そうであったとしたら、少しは気が楽になる。
「篠田さんは、いつから秀星さんと神戸で一緒だったのですか」
「四年ぐらい一緒だったかな。秀星さんは、伊豆の高級ホテルでも給仕をしていたんだよ。矢嶋社長がスカウトしてきてね。これまた、あの社長が目を掛けてスカウトしてきた人だから、腹が立ってさー。しかも矢嶋社長のスカウトに応じた理由が、『ルミナリエを撮影してみたかった』だからな!」
あ、ルミナリエの写真、見せてもらったことがある。葉子は懐かしく思いだしてしまっていた。
大沼の写真を撮りたいからここに来たと言っていたのと、まったく同じ感覚で神戸に行ったのかと思ったら、ちょっと可笑しくなってきた。
そして葉子は篠田を見て思った。
この人は、自分よりもずっと秀星のそれまでを知っている男なのだ――と。葉子が知らない秀星を教えてくれ、そして、篠田といるとまだ秀星が生きているような錯覚に陥るようになっていた。
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